熱海 ゴルフを楽しんだ後、
温泉にでも浸かりませんか、
と眼鏡の若手弁護士に誘われた時、
何と馬鹿げたことを言い出すのかと、
狩魔はその男を心の底から軽蔑した。
百万年、早いわ。
あまりに軽蔑したので、
常より滑らかに返事をしてしまった。
「断る」
「やはり、お忙しいですか?」
「当然だ」
「残念です」
言葉ほど残念そうには聞こえない声で、
眼鏡の弁護士はあっさりと引き下がった。
「では、どなたか別の方をお誘いしてみます」
そう言われて、
狩魔は軽蔑の上に怒りを重ねた。
「待て」
「はい」
「貴様、何様のつもりだ」
「と、おっしゃいますと」
過度の軽蔑と怒りのために、
平たくなった声で狩魔は言った。
「吾輩を、誰だと思っている」
「狩魔豪さん。完璧なる常勝検事」
打てば響くような速さで、
眼鏡の弁護士が穏やかに答えた。
「私の、商売敵ですね」
「貴様など、吾輩の敵ではない」
「はい、今のところは」
「何?!」
「いつかは、勝ってみせますよ」
それも、
おそらくは近いうちに、
と言って弁護士がうっすらと笑った。
「ですから、お誘いしたのです」
「どういうことだ」
「貴方と私が、本当の敵同士になる前に」
一度くらいは、
プライベートでお会いしてみたかった、
と弁護士が呟いた。
「でも、やはり無理なようですね。失礼しました」
「本当に失礼な奴だ」
「申し訳ありません」
「貴様は、何も分かっていない」
「は?」
眼鏡の弁護士が、
今日初めて見せた僅かな隙に、
狩魔は鋭く攻め込んだ。
「まず一つ。吾輩は、決して負けない。絶対にだ」
「ほお」
「次に一つ。吾輩の代わりになれるような者は一人も居らん」
「ほおお」
「この二つの根拠から導き出される結論は何か。言ってみろ」
眼鏡の奥の視線を少し逸らせた後、
弁護士は速やかに答えた。
「まず一つ。貴方と私が本当の敵になることは一生ない」
「次に?」
「故に私からの誘いは保留扱い、ということでしょうか」
「一番目はともかく、二番目は随分と勝手な結論である」
「すみません」
「だが、間違ってはいない」
「は?」
「論理に破綻はないからな」
聞くだけは聞いてやる、
と言って狩魔は腕を組んだ。
「どこだ」
「はい?」
「場所は」
眼鏡の奥の目を丸くしながら、
弁護士が再び穏やかに答えた。
「熱海です」
「熱海か」
「はい」
「通俗的だな」
「そうですね」
「せめて、川奈ならな」
「あそこは、VIPだけでしょう」
「当然だ。吾輩が会員なのだから」
組んだ腕を解いて、
狩魔は口の端で笑った。
「首を洗って出直して来い。市井の弁護士風情が」
これで話は終いだと、
背を向けて歩き出した狩魔を、
弁護士の声が追い掛けて来た。
「では、お忍びでどうぞ」
下々の生活を知ることも、
支配階級の義務の一つではありませんか?
もしも完璧なる振舞いをお望みならばの話ですが。
狩魔は再び足を止めて、
肩越しに背後の男の顔を見た。
あくまで穏やかな微笑みの下に、
喰えない男のしぶとさが透けて見えた。
まるで、雑草だな。
自分の足を二度に渡って止めた男に、
狩魔は向き直った。
「御剣信」
「はい」
「吾輩に、勝つつもりか」
「はい」
「狂気の沙汰だな」
「そうでしょうか」
「その狂気に免じて、一つ約束してやろう」
「は?」
「もし貴様が吾輩に勝つことが出来たなら」
熱海でも何処でも、
存分に付き合ってやるぞ。
そう言い捨てて、
狩魔は今度こそ歩み去った。
平日午後の、地方裁判所。
細い廊下に一人残された御剣は、
遠ざかって行く男の背中を見つめながら、
小さく不敵に笑ってやはりその場を後にした。