ある製薬会社の水と博「ドクター、お疲れさま」
何の気配もなく執務室に入ってきた、人懐っこい笑みを浮かべる少年、ミヅキが私に労いの言葉を投げかける。勝手に機密情報を覗き見たり私物や備品を漁るような子ではないと解っているので出入りに制限は設けていないが、それでもミヅキがどのようにしてこの艦の奥にある部屋へ入室を果たしているのか、未だにうまく認識できていない。
「はい、差し入れ。今日は雁月を作ってみたよ。熱いお茶と一緒に食べてみてね」
両の手のほか器用に触手で食器を運んでくる。思えばこの触手も、実在しているものと認識するまでに時間がかかった。触れれば感触が伝わり、温度や水気さえ確かに感じるというのに、手を離した途端まるで夢現だったかのように実感が失せるのだ。その触手もところどころノイズのようなものが走り、意図して意識を強く向けておかねば幻だと錯覚してしまいかねない。
ソファに腰掛けてミヅキが作ったガンヅキというお菓子――らしきもの――を口にする。もちもちした食感にほんのり広がる甘みが、苦味のあるお茶とよく合う。これで見た目が、まるで絞めたばかりの羽獣の肉のようでなければオペレーターたちにもお裾分けしたいところだ。これもまた錯覚の類だと認識していたところで、口の中へと運ぶには若干の勇気を要する。
気が付けばミヅキがこちらを伺うように視線を向けていた。美味しいよ、と伝えると嬉しそうに笑顔を見せる。体と一緒に触手を擦り寄せてくるのも、彼なりのスキンシップだ。腕や腰に巻き付けてくることはあっても、絞め付けることはしない。まるで猟犬が甘咬みするかのように、こちらが心地良く感じる圧力を加えているのだろう。
「それで、まだ仕事を続けるの?」
食器を片付けながら、こちらの返事をわかっているだろうに、そんなことを聞いてくる。わかっているからこそ、日付も変わろうかという時間帯にそこそこボリュームのある甘味を作ってきたのだ。頷いて返事をすれば、そこに見えた表情は呆れか寂しさか、そんなものが入り混じっていた。
「わかった。それじゃあ僕は邪魔しないように部屋に戻るよ。また机に突っ伏して眠ったりしないようにね。それから、さっきの残りは冷蔵庫に入れておいたからお腹空いたら食べてね。それと――」
はいはい、と苦笑混じりに返事をしていたらとんでもない言葉が飛び出してきた。
「あんまり不健康な生活を続けてたら、僕が食べちゃうからね」
ただの軽口――と、判断しただろう。それがミヅキの言葉でなければ。ミヅキの素性を思えば、彼の食欲の対象となるものが一般的な食物のみとはならないことなど容易に想像出来――
「ドクターのために作ったお菓子、もう全部独り占めしちゃうよ。ドクターの眼の前で美味しそうに食べちゃうからね」
そこにいるのは、外見年齢相応の、太陽のような笑顔を浮かべる少年だ。しかし、ほんの一瞬だけ、瞳の奥が深海のような昏さを覗かせたような気がした。