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    紬が嫉妬する話

    「留守番を頼めるかい?」
    仕事で出掛けなくてはいけなくてね、と目の前の彼──八尋さんはそう続ける。
    こういうことはそう珍しくない。特に疑問に思うこともなく、二つ返事で了承した。



    「さて、何から手をつけるか……」
    彼が外出したのを見届けた後、私は逡巡していた。
    私が事務所にいてやることといえば一つ。家事である。
    八尋さんの生活能力は、言葉を選ばず言うのであれば類を見ない酷さだ。私が雇われる前、よくもまぁ1人で生活していたなと逆に感心してしまう。
    助手として雇われたはずなのに、気がつけば家政婦みたいになっている。まぁ、探偵業で私が役に立てることなんて特にないから良いんだけど。
    「あ、でもこの前の猫探しのポスターは私が作ったっけ……」
    そう呟いてから、ハッとする。いけないいけない、今は家政婦業をしなければ。
    「とりあえず、掃除してからご飯作ろうかな……」
    床に落ちていた書類を数枚手に取りながら、そう決断した。



    「……あれ、醤油全然ない」
    掃除を終わらせて、料理に取り掛かろうとした瞬間、衝撃の事実に遭遇してしまった。
    しまった。不覚である。いつもなくなる前に買い足しているのに。
    流石に醤油がないと味付けに支障が出る。どうしようか、と時計に目を遣れば現在時刻は11時50分。いつも通りなら、きっと彼は13時過ぎには帰宅する。それに合わせるのならば、やはり今から作っておかなければならない。

    「まぁ……醤油買うだけだったらすぐ帰って来られるか……」
    今日はどこのスーパーが安いんだっけ、と広告を見返しながら、急なミッションに対しての準備を進めていた。



    「よし、良い買い物ができた!」
    いつもより20円も安く買えたことが嬉しくて、つい足取りが軽くなる。おまけに鼻歌も交えながら。
    そうだ、いつもと違う道で帰ろう。少し遠回りにはなってしまうが、なんだかそういう気分だった。
    幸い、まだ13時までには時間がある。我ながら最高のアイデアだ、と自画自賛しつつ角を曲がった。

    ──瞬間、それまで軽かったはずの足が鉛のように重くなった。

    「……え?」

    見間違いだろうか。
    見覚えがあるなんて言葉では足りない、毎日共に生活している彼が、目線の先にいた。
    ただ、見覚えがない要素が一つ。

    見知らぬ女性と、共にいる。

    黒くて艶やかなロングヘアを風に靡かせながら、彼女は八尋さんの腕へ絡みつく。彼も、それを拒むことなく受け入れているように見えた。
    目の前の彼らは、側から見たら紛れもなく恋人同士だった。誰もが羨む、美男美女カップル。
    ──でも、その位置は、彼の隣は、私の場所のはずだ。……はずだ。

    状況がうまく飲み込めない私の頭に、ある二文字が過ぎった。

    「浮気……?」

    口をついて出た言葉に、思わず口を押さえる。違う。彼はそんなことをする人ではない。朝の会話を思い返せば、仕事だと言っていた。きっとあれも仕事に関係していることだ、何も気にすることはない。
    それに、彼が女性と共にいるのは何も珍しいことではない。すぐに女性を口説く癖があるし、実際私だって最初は彼から声を掛けられたのがはじまりだ。
    そう、だから、何もおかしいことはない。だって仕事なんだから。もしかしたら恋人のふりをしなければいけないのかもしれない。それだったら、私だってやったことがある。だから大丈夫、違う、彼はそんな人じゃない。

    自分をなんとか納得させるために、理由をつらつら並べている。何故こんなにも必死になっているのだろうか。言い訳がましくて、なんだか笑ってしまう。
    彼が私のことを好きなのは、私が一番理解している。大丈夫。

    そう自分に呼びかけながら、踵を返そうと顔を上げた瞬間、脳をハンマーで叩かれたような衝撃が走った。

    キスをしているように、見える。

    彼が少し屈んで、頬に手を添えて、口付ける。いつも私がされているのと同じような光景が、そこにはあったような気がした。
    事が終わると、二人はまたも腕を組みながら、路地奥へと歩を進めた。

    見間違いだったのだろうか。いや、でも確かにそう見えた。そう見えただけかもしれない、きっとそう。だって、彼が他の女性にキスをするなんて、そんなこと……

    「……ある、かも」

    彼のことを信じていないわけではないが、彼は他人へのスキンシップの度合が日本人のそれではない。キスくらい、別に恋人じゃなくたってするのかもしれない。
    あの人綺麗だったし。八尋さんきっとああいう人好きだし。「君はヴィーナスも嫉妬してしまうような美しさだね」とか言ってるだろうし。彼にとっては、普通なのかもしれない。
    でも、私にとっては。

    「……ごはん、つくらないと」

    今度こそ踵を返し、いつも通りの道で帰宅した。



    最後の一皿を机に置き、一息つく。
    「……やること、終わっちゃった」
    時計を見ると、13時15分。
    手持ち無沙汰になると、どうしても先ほどの光景が思考を占有する。
    それを振り払うかのように頭を振り、なんとか正常な意識を保とうと努める。

    いつもこれくらいの時間なら、帰っているのに。
    1分1秒が、今は数倍数十倍にも長く感じる。何故今日に限って帰宅が遅いのだろうか。
    と、そこまで思考して一つの結論に辿り着く。
    「……今日だから、遅いのか」
    伊達に名探偵の助手はやっていない。ただ、妙に納得できてしまうこの推理が外れてしまえば良いと心の底から願った。



    ドアを捻る音が聞こえる。いつも以上に敏感になっていたからか、その音に肩が震えた。

    「やぁ、ただいま。少し遅くなってしまった、悪かったね」
    「あ、いえ……おかえりなさい」

    時計の針は、14時ちょうどを示している。湯気を立てていた料理たちは、すっかり冷めてしまった。
    「今日のご飯もおいしそうだ。ありがとう」
    「いえ……お気遣いなく」

    目が合わせられない。彼の顔を見るのがなんだか怖くて。それのせいなのか、なんだか返事もそっけなくなってしまう。私、いつもどう話していたんだっけ。
    そんな私の様子に彼も気づいたのか、言葉を紡ぐ。
    「……どうしたんだい?君の可愛らしい顔を俺に見せてくれないかな」
    そう言って彼が私に近づき、頬に手を添える。
    瞬間、鼻腔をくすぐる甘い香り。

    ──知らない、香り。

    気づいたら、私は彼の手を振り払ってしまっていた。反射で身体が動いてしまったのだ。

    「ごめんなさい、えっと……びっくり、して」
    「え?あ、いや……はは、大丈夫だよ。俺もいきなり触れたからね、びっくりさせてしまったかもしれない。ごめんね」
    「いえ、大丈夫……です。ご飯、温め直しますね」
    居た堪れなくなって、適当な理由を見つけてその場を去る。ああ、こんな嫌な女の子になりたいわけじゃない。私は彼の枷になりたいわけじゃない。私が我慢をすれば良いだけ、寛容になればいいだけ。
    呪詛のように唱えて自分に言い聞かせながら、コンロに火をかけた。



    「今日も美味しかった!やはり君の料理が一番だ」
    「喜んでいただけたのなら何よりです」
    子供みたいにはしゃぎ喜ぶ彼を見るのは、やはり好きだ。私の料理が一番好き、か。
    ……あの人にも、手料理貰ったりしたのかな。

    は、と気付きぶんぶんと頭を振る。駄目だ、今日はどうしても良くない方向へ線を繋いでしまう。こんなことを考えたって何も解決しないのに。
    そんなふうに一人で反省会を開催していると、彼の優しくもはっきりとした声が降ってくる。

    「紬。何があったんだい?」
    「……何、とは?」
    「君はどうも様子がおかしい。朝はそんなことなかったから、俺が出掛けている間に何かあったと推理するのが普通だろう?……教えてくれるかい?」
    バレてる。
    やはりこの人は他人の観察能力においては随一だ。……まぁ、うまく隠せていない自覚はあったけど。

    「……別に、何でもないですよ」
    「何でもないってことはないだろう、俺には言えないことかい?」
    「……これは、私の問題なので。大丈夫です」
    「君の問題は俺の問題でもある。君のことは何でも知っておきたいんだ、教えてくれないかい?」
    「……」
    言えない。言いたくない。面倒臭い女の子になって、嫌われたくない。
    八尋さんが所謂“女好き“なのは理解している。彼が女性を口説くのも日常茶飯事だ。それを知っていて恋人になったのだ、今更やめてほしいなんて言えない。それに、今回は仕事なんだ。以前のように、デート中に他の女性を優先したなんてわけじゃないんだから、我慢しないと。

    「……俺はいつでも君の力になりたいと考えている。君が何か辛い思いをしているなら、それを拭う手伝いをさせて欲しい」
    「……八尋さんに嫌われたくないので、言わないです」
    「俺が君を嫌いになるはずがないだろう。どうか話してくれないかい?」
    お願いだ、と私の手を取り目線を合わせる。私はどうもこの瞳に弱い。彼からお願いされると、どうしても聞いてしまう。悪い癖だ。

    「……八尋さんが、今日女の人と一緒にいるのを見ました」
    「え?ああ、確かにいたけれど……」
    「腕を組んで歩いてて、まるで恋人同士みたいで。……お似合いだなって思いました」
    「何を言っているんだい、俺の恋人は」
    「わかってます、八尋さんが仕事でしてたことくらい。全部理解してます。あなたが私のことを好いてくれているのもわかってます。だけど嫌なんです。あなたが私以外の女性にも同じように触れていることが」
    言った。言ってしまった。もうどうにでもなれ。
    今まで溜めていた感情が、濁流のように吐き出される。

    「あなたと手を取るのも、腕を組むのも、ハグをするのも、……キスをするのも。全部私だけが良いんです。たとえそれが仕事だとしても、嘘だとしても、嫌だなって思ってしまうんです。……あなたに愛を囁いてもらえるのは、私だけが良い。あなたの隣にいるのは、私だけが良いんです」
    全部吐き出したところで、沈黙が流れる。
    間がもたない。なんだか恥ずかしくなってきた。みるみる顔が赤くなるのがわかる。

    「え〜っと……だからと言って、八尋さんにどうこうしてほしいわけではなくて、勿論仕事上そういったことになってしまうのは仕方ない場面もあると思いますし、今までと変わらずに……」
    そこまで言って、彼の顔をちら、と見ると予想外の表情をしていた。
    「……え?何で笑ってるんですか」
    「いや、嬉しくてね」
    「嬉しい?」
    「君がそんなにも俺を好きでいてくれているなんて思わなかったから。嫉妬しているのは俺だけかと思っていたよ」
    「なっ……」
    どうしてこの人はこんな恥ずかしいことを平気で言えるんだろうか。やはり価値観の違い?
    そんなことを考えていると、彼は私の手の甲にそっと口付ける。

    「……確かに俺は、君を心配させるような言動を多くしてしまっているね。恋人として失格かもしれない」
    「いや、そんなことは……」
    「でもね、こうしたいと思うのは君だけだ」
    彼は私を抱きしめながらそう言う。どくん、どくんと心臓が波打っているのがわかる。これはどちらの音なのだろうか。
    いつもなら、安心して、満たされて、大好きなはずのこの時間。今は甘い香りのせいでチク、と胸が痛む。
    彼は言葉を続ける。

    「今日会っていた女性は依頼者でね。恋人のふりをした方がスムーズに運ぶからそうしていたんだ。それにしても距離は近かったし、キスのフリまではする必要なかったんじゃないかと思うけどね」
    「……キス、フリだったんですか?」
    「勿論、君がいるのに他の女性とキスするわけないだろう?……というか、君見てたのかい?」
    「……お買い物の帰りに、たまたま」
    「なるほど、そういうことだったんだね。それは俺が悪かった、すまない。きちんと先に説明しておくべきだった」
    「いや、八尋さんは別に悪くない……ので」
    「君を悲しませた時点で俺は重罪だよ」
    「大袈裟ですよ……」
    いつもの彼の調子に安心して、ふふっと笑みがこぼれてしまう。私は彼のこういうところが好きなのかもしれない。

    「君が悲しんでた原因はそれだけかい?」
    「あ、はい。……あ、でも」
    「でも?なんだい?」
    「……服、着替えてほしいです」
    「…………服?これ、好みじゃなかった?」
    「いや、そうではなくて。……女性の香水が、うつっているので」
    私がそう告げると、彼はすぐに立ち上がった。
    「君にそこまで言わせてしまうなんて駄目だね、俺は。待ってて、すぐに着替えてくるよ」
    そう言って、優しく頭を撫でる。
    八尋さんは、優しすぎるのだ。
    なんでも私に応えてくれるから、あまりわがままを言いたくない。無理をさせてしまうかもしれないから。
    やはり言わない方が良かったのではないか、と後悔しているところで彼は戻ってきた。

    「さて。これでもう懸念事項はないかな?近づいても良いかい?」
    「えっと……はい」
    そう返すと、彼は私の隣に腰掛けた。
    「キスしても良い?」
    「えっ」
    「だって今日はまだしていないだろう?」
    「そう、です、けど………」
    「ほらだって、さっき君も言っていたじゃないか。『キスするのは私だけが良い』って」
    「確かに、言いましたけど……!!」
    一気に顔が赤くなるのを感じる。茹で蛸状態とはまさにこのことを言うのだろう。
    「……ああ、そういえばこれを言うのを忘れていたね。……俺も、キスをするのは君だけがいいよ」
    そう紡いだ直後、彼の顔が近づいてきて、そのまま唇が重ねられた。その温度に、溶けそうになる。
    「やひ、ろさ」
    「ひとり、でしょ」
    そう訂正する割に呼ばせる気がない。またもや唇を重ねられ、息をするのがやっとだった。

    やっと唇が離れたときには、肩で息をしていた。頭がぼうっとする。……目の前の彼は、こんなにも平気そうなのに。なんだか悔しい。

    「ひとりさん、長いです」
    「そうかい?君が愛おしすぎてつい」
    「………馬鹿」
    力無く、肩を押す。思いっきり押し返せないのは、満更でもないからだろう。私は結局この人に心奪われているのだ。

    ──目が合う。

    「紬」
    「……ひとりさん」
    ゆっくりと、唇同士の距離がゼロになる。
    時計の針の音が、やけに耳に残った。
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