永遠に秘密 「薔薇って、色によって花言葉が違うんですか?」
天之橋さんに車で家まで送り届けてもらっている道中に言った、何気ない質問。
「ああ。他にも、薔薇の状態や本数などによっても変わるね。組み合わせの数があまりに多いから、自邸の庭に薔薇園を構えているこの私ですらもまだ把握しきれていない花言葉がある程なんだよ?」
心底楽しそうに好きな物の話をする天之橋さんのあたたかい笑顔や嬉しそうな声を聞いたりするのはなんだかたまらなく心地がよくて、彼に車に乗せてもらう日はいつも彼の趣味にまつわる話を尋ねる。
「そんなに多いんですか!?てっきり天之橋さんは全部を覚えているのかと……」
「ハハ。いつかはそうなりたいものだね。」
談笑しながらふと、1年前にまだ名前も知らない不思議なダンディさんからもらった薔薇の香りが脳裏をよぎった。もしかして、と思い彼の横顔をちらりと見やる。
「もしかして、前に天之橋さんが下さったあの赤い薔薇の花束の組み合わせにも、なにか特別な花言葉があるんですか?」
そっと目を細める天之橋さん。
「うん、そうだとも。確か……あのときの薔薇の本数は二十本だったね。それとカスミソウもすこし。」
「……花言葉は?」
「そうだねえ。……当ててご覧?」
大人を困らせるためのイタズラを思いついた少年みたいにお茶目に眉と口角を上げた紳士は、赤信号に向けた視線をそのままわたしのほうへと流した。レディたるもの、紳士のお誘いを断るわけにはいきませんね?
「ううーん……二十本の赤い薔薇と、カスミソウ……」
「因みに、カスミソウの花言葉は「清らかな心」、そして「無邪気」。」
「無邪気、かあ……それで薔薇はいっぱいの数あるから……わかった!『沢山の愛』!」
「ハハハ!惜しいと言えば惜しいが、意味合いとしては真逆かな。」
「真逆?え、じゃあ……」
『愛』の真逆って?
「あっ、いやいや!『愛』の部分は合っているとも!真逆と言ったのは『沢山』の部分の事だ。」
ひ、ひやっとした……。
信号が変わる間際にわたしのまぬけな顔を見た彼も、きっと同じようにひやっとしたことだろう。
一抹の杞憂で一瞬だけ心がひやっとした感覚は、言葉を訂正する天之橋さんがなんでもないかのように「『愛』の部分は合っている」と言ったことに少し高鳴るこの胸は、『愛』なのかな。そうだといいな、なんて。
「まあ、この花言葉の意味はまたいつか教えるさ。その時までお楽しみに、ね?」
ああっ、ほんの一瞬乙女心に浸ってる隙に逃げられた……。
ここはレディらしく引き下がるべきなのかな。でも、今日のわたしはいつも何かを隠してばかりの彼の中から何かを引き出したくなり、レディらしからぬ勢いで会話に降りかけていた帳を押し返した。
「じゃあ、天之橋さんが好きな花言葉は?」
__天之橋さんに車で家まで送り届けてもらっている道中に言った、何気ない質問。わたしにとっては何気ない言葉だったつもりでも、その言葉は、彼の記憶にかぶっていた埃を吹き飛ばす風となった。
彼の肩がぴくりと動くのを合図に、さっきのお茶目な顔つきはまるで夢幻だったかのように神妙な顔へとクロスフェードしてゆく。
……前、ブティックで透明な靴を眺めている天之橋さんに遭遇したとき。『もう偽物の恋はいらない』と言っていたときの彼は、今わたしの視線の先にいる彼と同じ目をしていたような。
触れちゃいけない何かに触れた。直感でそう悟った。
ガラリと空気が変わった車内で、ほんの数秒をおいてから密やかに紡がれた、まるで遠いどこかから零れ出たような一言。
「……折れた、白い薔薇の花言葉。」
声の主は天之橋さんじゃない誰かなんだと願ってしまいたくなるほど、つめたくて、さみしい声。
……どうして、急にそんな寂しそうな声を?どうして、ハンドルを握る太い指が今少し強ばったの?そのどこか虚ろな瞳が見つめる先に、一体どんな『愛』があったんですか?知りたい。あの日から、その虚ろな目を初めて見た日からわたしずっと、じれったくて仕方なくて。
わたし、丁寧な所作も、テーブルマナーも、誰かを心の底から求める気持ちも、ぜんぶぜんぶ、あなたから教えてもらったんですよ?だから、あなたがかつて抱いた偽物の恋じゃない本当の愛も教えて。
わがままで、ごめんなさい。そう心の声で囁いてから、
「……『一鶴さん』、花言葉は?」
彼を追いつめた。一鶴さん、どうか今だけは逃げないで。その目にわたしを映してください。沢山じゃなくていい、ほんのひとひらでも、わたしを愛してくれているのなら。
「……その話は、またいずれ話そうじゃないか。」
「!ど、どうして」
「あっという間に、もう君の家の前だ。」
ふと外に目をやると、一鶴さんの言う通りわたしの住む家がいつも通りわたしを出迎えていた。全く気が付かなかった。
彼の顔も、瞬きのうちにいつもと同じやさしい微笑みに変わっている。わたしに余計な気を遣わせないようにと象られた彼の大人としてのやさしさは、青すぎる私の柔な胸を押しつぶすには十分すぎるほどの痛々しさを纏っていて。
いつもの彼なら、わたしのわがままを無視したりなんてしないのに。わたしは、わたしのわがままで、やさしいあなたの傷口を自分勝手にえぐってしまった。こんなの、一鶴さんが求める愛じゃない。一鶴さんが求めるわたしじゃない。一刻も早く、ここから逃げたい。
「お、送ってくれてありがとうございました!じゃあ、またがっ、学校で!」
慌ただしくシートベルトを外したり、回らない滑舌を無理に回したり、焦りやら自己嫌悪やらで血が上ったせいで奇妙に赤くなった顔を晒したりしながらドアに手をかけたわたしに、「待って!」と声がかかって。
もうやめて。あなたをこれ以上傷つける前に、わたしを逃がして。
それでも、弱いわたしは一鶴さんの方に顔を振り向かせた。
「……二十本の薔薇の花言葉は、『私のひとひらの愛』。それが、私の好きな花言葉だ。」
あなたに比べて若すぎる私には、あなたの心の中など、推し量るすべもなかった。
*****
『じゃあ、……さんが好きな花言葉は?』
それは、かつての、まだ向こう見ずの少年だったころの私があの人に投げかけた質問でもあった。なにを感じ取られてしまったか、複雑に歪んだ彼女の顔が、そんな遠い日の記憶を蘇らせた。
『……折れた、白い薔薇の花言葉。』
これは、あの人が、私がかつて愛していた人の言葉。あなたに比べて若すぎた私には、あなたの心の中など推し量るすべもなかった。……どうして私は、あの娘に対してあの人がのこした言葉と全く同じ言葉を返してしまったのか。いよいよ、あの人の影に取り憑かれてしまったのだろうか。
……折れた白い薔薇の花言葉は、『純潔を失い_
_ああ。「3本の薔薇の蕾と、1本の花開いた薔薇の花言葉」だと、答えておくべきだった。