【ジェリーフィッシュが解ける頃】Ⅲ 「二名、個室で、無ければ他を当たる」
シンプルに店員に告げたリヴァイに店員は二人をざらっと見やりながら
「大丈夫です。奥のほうにひとつ開いてますよ~」
「ここでいいか?」
「構いません」
腕を掴んだままそう問われたエレンは答えると店員が「あ、すんません」とエレンを見ながら声を掛けてきて
「うち、二十一時以降は未成年者様は入店を断ってまして、そちらの方は―」
リヴァイはエレンのほうを見てどうなんだと視線で問いかける。
「オレ二十歳なんで大丈夫ですよ。なんなら学生証ありますけど?」
店員にそう答えると「でしたらだいじょぶでーす。ご案内しまーす」と言い慣れたように道先を示しながら進んでいく店員の後をついて行った。
聞いてきた割には対応がザルだな。嘘はついてないけどそんなんで大丈夫なのか
エレンはそんな風に思いながら、リヴァイはリヴァイで
こいつ今は二十歳で学生なのか。と新しい情報を自分の中で更新していた。
個室の前に案内されると「先に入ってください」とエレンは腕を掴んでいた手を離すとリヴァイの背後を取るように立って
リヴァイは特に抵抗するでもなく素直に個室に入りソファのような革張りの座席に座るとそれを見たエレンも個室に入り扉を閉めるとテーブルを挟んでリヴァイと向かい合うように座った。
「随分と慎重だな」
「またいつ隙を見て逃げるかわかりませんから」
「そんなんじゃトイレ行きてぇだけでもついてきそうな勢いだ」
「それは」
そこまで考えていなかったエレンは一瞬ぐっと黙り込む。
「…オレにスマホ預けて行ってください。そうすれば逃げられないでしょう?」
「ほぉ、つけ焼き刃にしちゃあ中々いい案を出してきたな。頭の回転は良いらしい。それとも悪知恵はよく働くのか」
そう言って頬杖をつくようにして目を伏せ静かに笑ったリヴァイにエレンはムッと文句のひとつでも言ってやろうと思ったがその時見えてしまった相手の言葉とは真逆の寂し気な色合いに一瞬躊躇いが出た。
「あんた―」
「ま、話をする前にまずは飯だな。お前腹減ってるのか?」
「え?えぇまぁ」
「そうかさっきも言ったように俺の奢りだ。好きなもん食え」
「いや、自分の分は出しますよ」
「若ぇのが遠慮してんじゃねぇよ」
リヴァイはそう言いながら立てかけてあったメニュー表を手に取ってエレンに渡しながら
「それに学生なんだろう?」
「…バイトしてますから」
「じゃあ今回浮いたバイト代で何か自分の好きなもんを買ったらいい」
そう言いながらリヴァイは自分用にもう一冊立てかけてあったメニューを手に取ると開いて
そんな姿をエレンは眺めながら自分の中に浮かぶ不服な感情に小さく唇を尖らした。
「不公平だと思いませんか?」
「何がだ」
メニュー表から目線を上げれば自分を見つめる目とかち合ってすぐに目を逸らしたリヴァイにエレンはむすっと小さく頬を膨らます。
「あんたはオレの名前と歳と、なんなら学生って事も知ってしまったのにオレはあんたの事何も知らない」
言い切ったエレンの言葉にメニュー表をめくろうとしていたリヴァイの指先がピクリと震えるように止まった。
「何も、知らない」
「そうです。歳は?何してるのか?そもそも名前は?何も知らない。不公平だ!」
面と向かってはっきりとそう言われた言葉にリヴァイは心臓がきゅっと握られるような息苦しさを感じて、咄嗟に内ポケットからスマホを取り出すと画面を伏せるようにエレンの前に置いた。
「なんです?」
「トイレに行ってくる」
そう言って立ち上がったリヴァイにエレンはまさか本当に自分が出した条件を素直に受け入れ実行するとはと驚いている中すでにリヴァイの姿は消えていて
「……守るとこ間違ってるだろ」
*****
個室に入ったリヴァイは壁を殴りたい衝動を何とか抑えながらそれでも顔を手のひらで覆うと「くそッ!」とくぐもった叫び声を上げた。
あいつは記憶が無いんだ。だから知らないのは当然じゃないか。
自分に言い聞かせるように、されど思えば思う程、考えれば考える程みじめな気持ちになってきて、じわりと涙が滲んできた。
「なんで…覚えてないんだ。なんで…こんな苦しいんだ…なんで…」
エレン―と声にならない声でその名前を呼んでも空しいだけだった。
「長かったっすね。帰ったかと思いましたよ」
戻ってきたリヴァイに疑いの眼差しを向けながらもエレンはほっと息を出した。
「先客がいてな」
「あぁ居酒屋のトイレって基本数少ないっすもんね。スマホどうぞ」
そう言われ自分が置いて行った場所を見ればまったく動いた気配が無くそのままの状態で置かれてあるスマホを手に取った。
「一応言っておきますけど中身見てませんから。そもそも一切触ってませんし」
「せっかくのチャンスだったろうに」
「あまりにも不用心ですよ」
「お前が言った事じゃないか」
「だとしても!スマホなんてあらゆる情報が詰まった電子機器なんですから、落としたりしたら焦るでしょう?」
「そりゃあな」
会話をしながら席に座りメニューに目を向けながらリヴァイは、よかった普通に会話できていると静かに安堵の息をはきながら思った。
「落としたのとは状況が違う。お前の前に置いたんだ。お前は一切触らなかった」
リヴァイはそう言いながらどことなくそういう変に几帳面というか、正義感というのだろうか。こういう所は
「お前らしいな」
「は?」
少しして自分がそれを口に出してしまったとリヴァイは気づき視線を上げれば困惑の表情を浮かべるエレンを見て焦った。
「どういう意味です?オレらしいって」
「いや、ほら…なんというか…今日のお前の行動を鑑みて思った、だけの事だ」
「はぁ…」
わかるようなわからないような感じのエレンの追及をシャットダウンするように
「もう注文はしたのか?」
「いえ、一応何にするかは決めましたけど貴方が戻ってから一緒に頼んだほうが店員の二度手間にならなくていいかなって」
「そうか、少し待ってくれ。すぐに決める」
そう言ってメニュー表をぱらぱらとめくり返してリヴァイも注文する物を決め、エレンに告げ店員を呼んだ。
*****
注文したものがひと通りきてテーブルに並べた後同じタイミングでグラスを手に持った事に気づいたエレンが冗談交じりで「乾杯とかしちゃいます?」と言えばリヴァイがそれにあっさりと乗ってきたので面食らった。
「何に乾杯するんだ?」
「え?何って、別にただ乾杯でいいんじゃないですか」
エレンの言葉に「そうか」と言いながら少ししょんぼりとした様子を見せたリヴァイに、なんかどんどん意外な姿見せてくるなこの人と思いながら
「じゃあ…安直ですけど今日の出会いに」
そう言ってグラスを前に出せばリヴァイも同じように出して、かちんと優しくぶつかった音を耳に残しながらエレンはオレンジジュース、リヴァイはウーロン茶を飲んだ。
「よし、食うか」
「はい…ってちょ待った!」
不意にストップをかけられ反射的にリヴァイは焼き鳥に伸ばしていた手を止めエレンを睨むように見た。
「あ?どうした」
目つき怖ぇな、おい。
エレンは思いながらそういやこの人めっちゃ目つきとガラが悪かったんだと最初に会った時の事を思い出した。
「いや食べるのは全然構わないんですけど、忘れてないでしょうね?ここに一緒に来た意味」
「めし食いに来たんだろ」
「違いますよ!メインはあんたの事です。あんたの名前を聞く為にオレはついてきたんです」
机を怒られない程度にぺしぺしと叩きながら訴えるエレンの姿を見ながらリヴァイは小さく舌打ちした。
「今舌打ちしました?」
「いいや」
「オレが覚えてたの悔しくてしたんでしょう。聞こえましたよ」
わかってんなら言うんじゃねぇと心の中で悪態をつきながらリヴァイは焼き鳥を一本手に取ると噛みついた。
「そもそもなんで名前教えてくれないんですか?」
「別に…理由はねぇよ」
「だったら教えてくれてもよくありません?」
「嫌だって言ってるだろ」
リヴァイはそう答えるともう一度焼き鳥に噛みついた。
「何が嫌なんです?もしかして自分の名前が嫌いとか?」
「いや別に」
「じゃあ変わった名前とか?」
「周りからそんな風に言われた事はねぇな」
「言いにくい名前」
「そんな事ねぇよ」
「なんて言うんですか?」
「教えねぇつってんだろ」
リヴァイはそう答え串だけになったそれを串入れに入れるとエレンは悔しそうな声を上げた。
「完全に流れで言わそうとしてるのが見え見えなんだよ」
「なんなんすかぁもぉ…あっさっき電話で癪だって言ってましたよね?何が癪なんですか?」
「さっきから質問ばっかりだなお前は。とりあえず食え、せっかくの料理が冷める」
「…いただきます」
不満そうな表情を見せるエレンだったがお腹は減っていたので頼んだ卵焼きをひと切れ頬張るともぐもぐと口を動かして
「よく噛んで食えよ」
リヴァイはそう言ってウーロン茶をひと口。
「あの、Lはイニシャルなんですか?」
「あぁ」
まぁこのくらいはいいだろうとリヴァイは思いながら肯定の返事をするとエレンは何かを考えるように視線を動かして
「L…L…ルーカス!」
どうだという表情で自分を見てきたエレンにリヴァイは首を横に振って見せるとハズレに不服そうに唇を突き出して
「じゃあルーク?」「リロイ」「レオナルドッ」「リンカーン」「ロレンツォ」
「ランスロット!」
「はずれだ」
「もぉぉぉ」
悔しさに声を上げるエレンにリヴァイは「むしろLでそれだけ出てくるお前すごいな」と感心した。
「ていうか、スマホでLが付く名前片っ端から探していけばいいんじゃ?」
いい案を思いついたと言わんばかりに落ち込んでいた表情がぱっと明るくなったエレンに
「それは構わないが俺が素直に正解を言うとは限らなかったら?」
「えぇ!?嘘つくつもりなんですか?それは卑怯ですよ!」
スマホでさっそく検索しようと取り出していたエレンはリヴァイの発言にもろに怪訝な表情を隠さずに見せた。
「可能性のひとつとして言ったまでだ」
「…わっかんねぇなぁ」
エレンはそう呟くと頬杖をついて遠くを眺めるように視線を流す。
「なんでそんなに教えたくないかなぁだったらオレはあんたの事なんて呼べばいいんですか」
「適当に呼べばいいんじゃないか」
「適当って、その適当になるような材料もほぼ無いってのに」
ぶすーとした顔を見せるエレンにリヴァイは少しおかしくなってきてこぼれそうになった笑いをかみ殺しながら
「Lでいいじゃないか」
「あんたはそれでいいんですか?」
「かまわない」
そう言いながら目を伏せるリヴァイの姿を見てエレンは自分の中に沸くこの腑に落ちない感覚はなんなのだろうと思いながら
「Lさん」
「………」
実際に呼ばれてみてしっくりこねぇなとリヴァイは思って黙っていると表情に出ていたらしくエレンが不服そうな声で「ほらぁ納得してないって顔してる」とツッコんだ。
「慣れねぇからだよ」
「慣れる慣れないの問題じゃないと思うんだけどなぁ」
「まぁ、こういうのはそのうちあっさりわかっちまうもんだよ」
少しだけ自分に言い聞かせるような気持ちでリヴァイは言いながら自分の前で難しい顔をして食べ物を口に運ぶエレンを静かに眺めた。
「名前がダメならそれ以外の事教えてください」
「それ以外?」
食事も中盤、エレンはリヴァイに向けてそう言って反応を見せたリヴァイにこくりとうなづいた。
「例えば、オレの歳と学生だって事は知ってるんですからあんたの歳と職業教えてください」
「なるほど」
ひとつ間を置いてリヴァイはグラスに口をつけてひと口ウーロン茶を飲んだ後
「歳は三十五、職業は普通の会社員だ」
あっさりと答えたリヴァイは黙ってしまったエレンに素直に答えたのが意外に思ったのだろうかと内心考えながら
実際は自分が予想していた年齢よりも上だった事にびっくりしてすぐには言葉が出なかっただけなのだが
「え、三十五歳なんですか?」
「そうだ」
「見えないっすね」
「よく言われる」
「オレ、言っても五歳ぐらいの差だと思ってました」
「そうか」
「はい…」
それから静かになってしまったエレンにリヴァイは視線を左右に動かした後
「あまりにおっさんすぎて引いたか」
「へ?」
不意に言われた言葉にエレンは相手の顔を見る。どこか寂し気に笑う表情をまた見せている事にエレンは胸の奥がなんだか苦しくなるような気がして戸惑った。
「まぁあれだ。お前もこんなおっさんの名前にこだわるよりもっと他に有意義な事に時間を使え」
リヴァイは言いながら口から出る言葉が届かずに地面に落ちて行けばいいのにと矛盾にも似た感覚がむず痒いながら尚も言葉を続けた。
「二十歳で大学生か、いろんな楽しい事があるだろう。それこそ勉強はきちんとやってんのか?入れたからって遊び惚けてちゃ―」
「クロワッサン」
喋っている途中で聞こえた言葉にリヴァイは言葉を止めて
「あ?」
「あのパン屋のクロワッサン、買いに行きました。貴方にもらって食べたあの雨の日の翌日に。他のパンもすごくおいしいですよね。レジしてる人も明るくて朗らかで、パン作ってる人も自分の作ってるパンに自信持ってるって感じで、でもそれが嫌味ない感じがよくて」
「…そう、か」
脈略無く告げられた話だったがエレンがあのパン屋に言って二人に会ったのだという事実にリヴァイは、それでも互いに記憶はどうにもならなかったのだという考えがすぐに浮かんだ自分自身に眉間に皺を寄せた。
こだわるなという自分と、寂しく思う自分が静かにせめぎ合う感覚が苦しい。
「多めに買っちゃうって言ってたのわかりました。まぁ毎回たくさん買えるわけじゃないんですけど」
「無理して買うもんじゃねぇ。それより、ひとつでも買いに行ってやればあいつらも喜ぶ」
「そうですね。はい、無理はしません」
エレンはそう答えて静かに口角を上げるとその口角をゆっくりと元に戻して
「オレ、たぶんですけど貴方に興味があるんです」
不意にそう言われリヴァイは驚いたように視線を上げた。
「理由はわかりません、なんか…うまく説明できないんですけど」
エレンはそう言いながら首を傾げるようにして小さく唸った後
「さっき貴方の歳を聞いてビックリしました。単純にそうは見えなかったからってだけで、おっさんだから引いたとかはまったく無いです。むしろいきなりこんな事言われてそっちが引いちゃうかもしれませんけど、なんかね。すっごく気になるんですよ。わかんないですけど」
「…ッ、ェ」
どうするでもなく無意識に伸びた手は自分の手前に置いてあったグラスに見事ヒットし横に倒れ氷がテーブルの上で四方へ投げ出されたカーリングの玉のように滑りリヴァイの膝に数個水気と共に落ちた。
「ちょ、大丈夫ですかッ」
「す、すまんッ」
慌ててグラスを手に取ってテーブルの縁に口を合わせるようにしてこぼれた氷をグラスの中に手で入れて
エレンは自分の使っていたおてふきをテーブルの濡れている部分にかぶせるようにして水分を拭いていった。
「本当にすまない」
「スーツとか濡れませんでした?手びしょびしょ、あっタオルありますよ」
言いながらエレンはカバンから緑色のタオルを取り出すと席を移動して
「これで手拭いてください。あ、膝の所も濡れてる」
「大丈夫だ。自分でやるから…」
「いいから、ほらこれ使ってください」
押し付けるようにタオルを渡されリヴァイは申し訳ない気持ちで手を拭き、膝の部分にタオルを当てて
その間に隣に座ったエレンはグラスを端に寄せてテーブルを拭いたおしぼりもグラスの隣に置くとリヴァイの様子を見ながら
「他に濡れてる所は無さそうっすね」
「わるかった。本当に」
「ははは、そんな落ち込まなくっても大丈夫ですよ。ぶっちゃけオレもやった事ありますし結構居酒屋あるあるだと思いますよ」
「タオル、洗って返す」
「そんな高級なもんじゃないっすから、なんならあげますよ。って人の使ってたタオルいらないっすよね」
エレンはそう言いながら「ちゃんと手拭きました?」とリヴァイの手に触れてみれば
「うわつめてッ氷じかに触ったからめっちゃ手冷えてる」
そう言って自分の指先を包むように触れてきたエレンにリヴァイは驚いて顔を上げれば
「ッ」
思わぬ距離で見えたエレンの顔に心臓が跳ねる。
「エ、レン」
「はい?」
自分を見る瞳が、優しい笑みが、こんなにも近くにある、のに―
「顔、さわっていいか」
「へ?」
言葉にしてしまった後になんて事を言ってしまったんだろうとリヴァイは何度か口をぱくぱくとさせた後謝ろうとした寸前
「いいですよ。はい」
そう言ってあっさりと、しかも自らリヴァイの指先を自分の頬へ持っていって当てたエレンにリヴァイはいろいろな感情が頭と心臓を巡って
「ほっぺたって案外温いですもんね。冬とか自分の指こうやって当てたりした事あります」
「………エレン」
「はい」
「エ、レン…エレン…」
何度も名前を呼ぶリヴァイの違和感に気が付いたエレンは伏せた顔から先程とは違う水滴が落ちているのに気が付いて驚いた。
「ちょ、どうしたんですか?」
「すまない…」
涙声で小さく聞こえた謝りの言葉の後
「もう少しだけ、このままで、いさせてくれ」
まるでこの瞬間が奇跡だとでもいうように
頬に当たる指先はまだ冷たいまま
リヴァイは静かに泣き続けた。