秀吉未満 文机に向かって藤吉郎が腕を組み胡座をかく。それへ向かい合うようにして秀千代が膝に手を置き座り込んでいる。
「どうしたの?」
「ちょっと考え事をな…」
「ふーん」
通りがかった無明の呼びかけに藤吉郎は声だけで返す。眉間に皺を寄せ睨むその先では、紙の上に小さな文字がところ狭しと並んでいた。
「織田、今川、足利、武田…に、中村、関、土岐、山県、大桑、郡上……なに、これは? 大名の名前かと思ったけど少し違うみたいね」
「ああ」
腰を屈め紙面を覗く無明へ藤吉郎は頷きながら呻く。
「信長様が、武士の一員となったならそれなりの名乗りを…ってな」
「それで、考えてるの?」
「おう」
二人の様子を黙って見つめていた秀千代も首を縦に振っていた。
「俺たちにふさわしい名字をな…」
藤吉郎と秀千代が織田信長に仕え、初めて戦場に出た桶狭間での戦いから一年と数ヶ月。それまでに秀千代は駿河の大名・今川義元を討ち取るだけでなく彼の仇をとりにきたであろう今川家の残党を退治したり、美濃との国境付近で悪行をはたらく斎藤家の侍大将を前田利家とともに討ち破ったりと数多の手柄を立てていた。むろん人相手の戦いだけではなく、かねてより得意としていた妖怪退治の仕事もこなし家中にその名が知られることとなった。
戦功により武士として認められたふたりであったが、ひとつ問題があった。
「これからはただの藤吉郎と秀千代というわけにはいかぬだろう。わかるな」
謁見の間にて跪く彼らに背を向けながら信長は言い放つ。
「はっ」
間髪を入れず藤吉郎が返す。幼き頃より武士へ憧憬の念を抱いていたという彼であるから、主君の言わんとすることにすぐさま察しがついたのであろう。
「三日やる。それまでに考えておけ」
振り向いた信長は文机を抱えていた。筆と硯、そして紙が二枚載せられている。それらをふたりの前にどかりと置くと、足早に部屋から姿を消してしまった。
「いよいよか…」
藤吉郎は歓喜と不安をかき混ぜたような瞳で右へ視線を送った。
話の内容を解しかねている秀千代は左を見ながら首を傾げた。
「名字というのは、住んでいる土地の名前からつけることが多くてな。信長様の〝織田〟も、ご先祖が越前の織田荘出身だからだそうだ。今川は三河の今川荘、足利は下野の足利荘が発祥らしい」
「やけに詳しいじゃない」
「商人はあらゆる情報を必要とするのさ」
藤吉郎が自慢気に鼻の下を右手の指で擦りながら誇らしげに笑む。彼はかつて行商人として各地を転々としていたが、どうやら形なきものも商材としていたらしい。
「ま、もう違うけどな」
「それで、決まったの?」
「いや…」
せわしなく動く右手で次は項のあたりをボリボリと掻く。同時に文机のほうへ視線を泳がせ、とある文字の並びを見つけると左手の指でさし示す。
「俺は尾張国の、中村ってとこの出なんだが…」
「ってことは、中村藤吉郎?」
〝中村〟の二文字を指でトントンと叩いてみせる藤吉郎へ無明はわざとらしく声に出してみせた。
「なんか、イマイチじゃないか?」
「別にいいじゃない。そのうち慣れるでしょ」
「いいや駄目だ。歴史に残る名なんだからちゃんとしねえと」
歴史に残る名とは大袈裟な、と思わないでもなかったがこちらは敢えて口に出さない無明であった。
「それに秀の字のこともあるしさ。こいつは美濃の出だろ? 美濃国に中村…なんて村があれば話は別だが、秀の字がそこの出身とは限らんし」
「それぞれ違うのにすればいいじゃない」
秀千代の顔色を伺いながら提案する彼女に藤吉郎は曇り顔のまま返す。
「いや、織田家中の人たちにやっとの思いで俺たちの名前を覚えてもらったんだ。さらに覚えてもらうことを増やすのはいかん。ひとつにしたい」
「ふーん。じゃあ、好きにつけたら? 鬼猿とか、濃尾とか、金無とか。いっそのこと武士でいいんじゃない?」
「雑すぎねえか」
声を荒げる藤吉郎であったが口許にはいつもの微笑が浮かんでいた。
「おい、秀の字もなんか言ってやれよ。自分がこれから名乗るものだぞ!」
向かいに座る相棒へそう振ってみせると、思案するかのように顎を指で押さえながら俯きうーんと小さな唸り声をあげる。
藤吉郎は知らないが、秀千代の父は斎藤道三であるという。下剋上により成り上がったとはいえ彼は武士であり、斎藤という立派な名字もある。しかしながら己の記憶にあるのはあやかしの母と過ごした日々だけで、武士として育てられたおぼえなどなければ父の顔もわかっていなかった。己が斎藤家の者である、又はあったという自覚は一切ない。かといって、かつて過ごした村の名前を覚えているわけでもない。
やがて秀千代は顔を上げると藤吉郎のほうへ首を横に振った。
「ダメね」
予想通りの返答といったふうに無明が顔色を変えずこぼす。
「どーうしたもんか…」
頭の後ろで手を組みつつ藤吉郎が息を吐き、秀千代は表情を変えずじっと紙を見つめたまま動かない。
重苦しい静寂に耐えかねた無明が思わず口を開いた。
「…あんたたち、仕事は?」
「いや、信長様からは名を考えろと言われただけで。この間の小競り合いで斎藤家も少しはおとなしくなったようだし、しばらくは戦もないんじゃねえか?」
「じゃあ、ここでいつまでも悩んでないで一旦外に出てみたら?」
無明が言うと、藤吉郎は気合いを入れ直すかのように両の手で己の頬をばちんと叩いてみせた。
「それもいいかもな。身体を動かせば何か浮かぶかもしれん」
「十三桜村、だっけ? そこに行ってきたらいいじゃない」
「あっ、あそこは美濃だぞ 織田家の武士がそう簡単に斎藤家の領内に入れるか」
屋敷の周りを散歩する程度のことを想像していた彼は続く言葉に驚嘆した。無明は悪びれる様子もなく言葉を継ぐ。
「まだ名字がないなら武士じゃないでしょ。それにあんた、まだ武士らしい活躍してないし、見た目もらしくないからバレないんじゃない?」
「なっ、人が気にしてることを…」
「ほら、なにか言われたら敵情視察に行ったって伝えておくから」
「仕方ないなぁ…行くぞ、秀の字」
半ば無理矢理に美濃行きが決まったふたりであったがどこか嬉しげな色が浮かんでいた。
街道を進みながら藤吉郎は語る。
「俺たちはいわば『どこの馬の骨ともわからん奴ら』だ。信長様は快く受け入れてくださったが、家中にはきっと俺たちのことを良く思わない奴らがいる。さらに敵の大将を討ち取るなんて大手柄を挙げてみろ、ますます風当たりが強くなる。商人上がりが偉そうに…ってな」
信長に仕え始めた際に用意された支度金と功による報奨で武器や具足一式を揃え武士らしい身なりを手に入れたふたりであったが、今日のそれは異なっていた。黄染めの上衣に竹杖を担ぎ、手拭いを額に巻いた姿は懐かしのあの頃のものである。相棒の物持ちの良さに感嘆する秀千代は野盗から剥いだようなツギハギの防具を身にまとい千駄櫃を背負っている。
「名字をつけて名実ともに武士となれば…いや、信長様が俺たちに名字を与えたってことにしてそれが広まれば、口だけで騒ぎ立てる奴らもちったあ静かになるかもしれん」
他者からすれば行商人の類いにでも見えるだろう。そのような奴らが武士について真面目に語っているのだから滑稽と感じるに違いない…藤吉郎はおかしさに堪えきれなかったのか、口から笑いをこぼした。
「ふっ…俺が一人だったときは、もし武士になったらこう名乗ろうってのを決めてたんだがな…」
既に美濃へ入っているというのに己らを怪しむ者は居ない。やはり武士だと思われていないのだろうか。そうこうしているうちに見覚えのある墓場が視界に広がった。数年ぶりに訪れる十三桜村。記憶と異なるのは、あやかしたちの巣窟となり常に気味の悪い呻き声や悲鳴で埋め尽くされていたはずのここを静寂が支配しているという点である。
「お、あんたらか! 元気にしてたか?」
村人たちの居住地へ通じる門より駆けてきたのは村長の男である。古びた槍を片手に、どうやら村内の見回りをしているらしい。
「おう! 村長殿こそ、息災でなによりだ」
藤吉郎が片手を挙げて挨拶を返す。隣の秀千代も無言で頭を下げたが、視線は村長ではなくその足許に向けられていた。
「!」
丸みを帯びた身体がコロコロと村長の後を転がる。彼に追いつくと気持ちよさそうに脛のあたりへ顔をこすりつけている。おそらく以前助けたすねこすりであろう、どうやら村に居着いているらしい。
「おかげで村人も戻ってきてな。なんも用意できなくてすまねえがゆっくりしていきなよ」
「近くを通ったから寄ってみただけだ、お構いなく」
尾張からはるばる来たことを言えば気を遣わせてしまうだろうと藤吉郎は適当に話を合わせた。
墓場の裏にある居住地は賑やかで、以前は封鎖されていたよろづ屋も現在は干肉や青物を買い求める者たちで繁盛している。こうして村が平穏な日々を過ごせているのは秀千代が妖怪どもを討ち払ったおかげだと村長は話す。数え切れないほどの桜の木が花を咲かせる春は多くの客が訪れさらに騒がしくなるという。しかし現在は七月半ば、夏の盛りで木たちは青々と葉をつけており見物客も居ない。だがこれはこれで見応えがある…とふたりはあの頃に想いを馳せながら並木道の坂をのぼってゆく。
「変わってねえなあ」
並木道の奥には古びた社殿とひときわ大きな桜の木が佇む。御神木なのだろう、しめ縄で結ばれ、無数の絵馬が吊り下げられている。
「俺たちの…」
藤吉郎は巨木の幹につけられた傷を撫でながら呟くと、秀千代はぎこちない苦笑とともに頬を掻いた。そこから暫しの間、各々が過去を懐かしんでいるのか無言の時が続いた。
「……よし!」
それを打ち破るようになにか閃いたであろう藤吉郎は背の竹杖を手にすると、ごりごりと地面を削ってみせる。秀千代が覗き見ると、どうやら文字のようなものを書いているらしかった。
「俺たちの夢が始まったこの場所、桜の木の下にちなんで…」
線を引き終えると顔を上げ、相棒のほうへ笑いかけてみせる。
「〝木下〟、と名乗ろうと思う」
秀千代は刻まれた二文字を見つめながら指で空を切る。当初の目的を忘れつつあったが、名字を決めにここへ来たのであった。やがて首を縦に二回強く振ると、藤吉郎も満足そうに頷く。
「よし決まりだな。木下藤吉郎に……」
彼らの背を押すかのように吹いた一陣の風が、カラカラと絵馬たちを揺らす。名を呼ばれた秀千代はふわりと笑い返してみせた。
「俺たちの、夢の続きへ」
長く険しい道であるが、一歩また一歩と確実に進んでいることを感じずにはいられないふたりであった。
尾張への帰路にて秀千代は気になっていたことをひとつ藤吉郎へたずねることにした。
「俺が昔考えてた名? 聞くか、それ?」
秀千代は黙って頷く。悪意のない、好奇心で満たされた純粋な問いかけに藤吉郎は思わず歩を止めた。
「童の頃に考えたもんだからなぁ…笑うなよ?」
やや照れくさそうに項を掻きながら続ける彼に頷き続ける。
「〝豊富〟だ。豊かに富む、でトヨトミ」
「フ…」
「あっ! 笑うなって言ったろ!」
言いながら秀千代の肩を叩く藤吉郎も笑みをたたえている。
──いかにも彼らしい名だ。
そう思うと、つい頬が緩んでしまった。
「…で、あるか」
紙に引かれた七本の線を眺めながら、信長はただ一言、そう返しただけだった。
ふたりが〝秀吉〟を称するのは、まだ少し先のことである。
【終】