いつもそばに 木に引っかかった風船が見える。
周りには誰もいない、忘れ去られてしまった風船。
風船といえば、まだ俺が小さかった頃……そうだ、あれはウェインタワーに越してきた翌年、俺の7歳の誕生日だった。初めてアルフレッドと一緒に出掛けた、一緒に行ったコニーアイランドでホットドッグを食べて、赤い風船を買ってもらった。
「ブルース、誕生日おめでとう」
そう言うと、アルフレッドの大きな手が、子供だった俺の細い手首に風船から伸びた糸を結んで、なくさなようにしてくれた。家に帰るまで自分の横に浮かぶ風船を飽きずに、ずっと眺めていた。
タワーに帰り、当時いた両親だけでなく、父さんの秘書や顔も知らない大人たちに風船を見せて回った。そうやってはしゃいでいたときにそれは手首から抜け、キラキラと輝くような絵が描かれた天井に昇った。まるで空に浮かんでいるようだと思ったが、風船に手が届かないことに気づき、慌てた。たまたま通り掛かったアルフレッドが、持っている杖を使い風船を引き戻してくれた。
そしてまた俺の手首に結んでくれた。
アルフレッドの手は柔らかくて暖かかった。
いつも、姿を見かけるたび手を振ると小さく振り返してくれた父さんのボディガード、アルフレッド。アルフレッドは大きくて、強くて、小さな俺の憧れだった。
あの年の誕生日は楽しかった。あれから20年以上経つ。
自分だけでなく、一番近いアルフレッドやドリーの誕生日も今はもう、何もしていない。ふたりの誕生日がいつなのかは覚えている、忘れはしない。でも誰も「おめでとう」と口にしない。祝うことを求められないし、こちらからも求めないから。誕生日の今日も、きっと明日もこうやって俺は街に出る。
ドリーの焼くケーキは毎年テーブルの上に置かれているので、周りに誰もいないことを確認して大きな一口だけを味わって毎年食べる。20年変わらずいつもの味で、美味しい。
そんな20年分の誕生日を思い出した。最後に祝った誕生日のとき、アルフレッドに「いつか僕を強くしてね」と約束をさせたことも思いだした。
それから数年後、俺の約束は守られた。
ケイブに戻るといつものようにアルフレッドが降りてきた。
「ブルース、シャワーを。上のテーブルには食事の準備が出来ています」
今年の誕生日もいつもと変わらない会話。何もない、でもそれは俺が望んだこと……
ドリーのケーキは今年も焼かれてテーブルに置かれているのだろうか。
ガジェットから映像をダウンロードし、今日のことを忘れないように書く。風船の映像が映ったあと記録が停止した。
シャワーを済ませ、置かれた食事を無言で食べる。向かいにいるアルフレッドが紙をめくる音とカトラリーの音だけが広い部屋に響いていた。
いつもの誕生日なのになんだか――
「寂しいのですか?」
「え?」
「あなたの顔です。少し、そんな感じがします」
自分の顔を左手で頬から顎へ手を滑らせた
「昔を思い出したのでしょう?あの風船で」
「風船……忘れたのかと」
「私は忘れません。ブルースの小さな手、細い手首に糸を巻き付けたこと。あと、覚えてらっしゃいますか?風船がしぼんでしまったときに私の元へ来て、風船を元気にして欲しいと涙を浮かべていたこと。それも全部覚えています。あなたが泣いていたことを知るのは私だけですからね」
「泣いてない!」
「そういうことにしておきましょう」
嘘だ、泣いた。
悲しかった。両親の葬儀のときには涙が出なかったのに、風船がしぼんだときには大粒の涙が出た。あれはアルフレッドに買ってもらった初めてだったから。ヘリウムガスではないから浮かぶことはなかったが、あれからずっと自分の手の届くところ(そば)にいてくれる風船が愛おしかった。
アルフレッドの視線が俺の後ろに一瞬向けられた気がした。なにを見たのかと振り向くと風船がいくつか浮かんでいた。
「あれは?」
「今日はあなたのお誕生日ですから。驚かそうと思ったのですが……どなたかに先を越されてしまいました」
アルフレッドが微笑んでいた。
「あら?ウェイン様……おはようございます」
いつものケーキをドリーが運んできていた。今年のケーキも美味しそうだなと、ぼんやり見ていると「待ってくださいね、いま準備しますから」と言いながらろうそくを立て、火を点けてくれた。
「ブルース、願い事は決まりましたか?」
アルフレッドとドリーの顔を見る。ふたりは目を細め、口角を上げて俺を見ている。
あの後から変わらない、願い事は決まっている。
ろうそくを吹き消すと赤い風船をひとつ、アルフレッドはあのときと同じ、大きな手で俺に差し出す。その手から受け取る俺の手も、今はアルフレッドと同じくらい大きくなった。
「ブルース、お誕生日おめでとうございます」
HAPPY BIRTHDAY
Bruce Wayne