「おはよう、オルフェ」
「おはよう、イングリット」
いつも通りの朝。7時のアラームに従って起床し、食事スペースに向かうと、既にイングリットが座っていた。イングリットはまん丸の目をしばたたかせ、小さな手で目頭を拭う。
オルフェはいつものように、イングリットの正面の席に座った。
「昨日の体力トレーニングの疲れはとれたかい」
「まだちょっとキツいかも。リデルと違って元々、戦闘用じゃないし」
イングリットは口に手を当ててあくびをする。いつも体調管理はしっかりしているイングリットらしくない。
昨日行った体力トレーニングは、体力作りのためのほんの基礎的なことを行っただけだ。
僕らは一般的な学年に当てはめると幼年学校に入学するくらいの年齢になる。頭脳発達面で言えば、一般の成人コーディネーターよりも遙かに先を行く修学レベルに到達している一方で、身体発達はとりわけ早いというわけではない。そのため、現在の僕らは身体能力的には一般コーディネーターとほぼ同じ、基礎体力作りにやっと着手したところである。
すぐに研究員の大人達なんか追い越していくのだろうが、当たり前だ。それだけの能力を与えられているのだから。
それでも、僕らアコードの中にも得意、不得意はある。いや、与えられた役割による必要、不必要とも言うべきか。世界を導くアコードとして生まれた僕は、ありとあらゆる能力を与えたと母上は言っていた。主に行政を司るであろうイングリットは、他の兄弟達よりも身体能力は高く設定されていないのだろう。昨日の訓練で1番辛そうにしていた。
今のイングリットの様子から見ても、体力トレーニングが相当堪えたのだろう。まだ疲れがとれていない様だ。
「でも、やっぱりオルフェはさすがだね。すぐに目標回数こなしちゃうし」
「まあ、さすがにシュラには敵わないけど」
「誰だってシュラは無理よ。オルフェが勝ったらおかしいじゃない」
それもそうか、と笑ったところで戸を開く音と共に騒々しい足音が近づいてきた。
「楽しそうな話をしているじゃないか」
「ダル……」
「おはようございます。やはりオルフェとイングリットはいつも早いですね」
「おはよー、お姉ちゃんにオルフェ!」
「はよーっす」
丁度7時30分。朝食の時間きっかりに、シュラ、ダニエル、リュー、リデラート、グリフィンが食事スペースに現れた。
いつもの光景、いつもの流れ、予定通りの行動、決められた挨拶。寸部の狂いもなく今日が始まる。
「入るわね」
何度も聞いた声にオルフェは顔を上げた。他の皆も同じように、入ってきた女性――アウラ博士に目線を向けた。何でったって研究で忙しい母上が朝早くからここに来るなんて、滅多にないからだ。今日は1日母上と一緒に過ごせるのだろうか。
「おはよう、みんな元気かしら」
「「おはようございます」」
アウラ博士は柔らかく微笑んだ。いつもオルフェ達に向ける笑顔は包み込むように柔らかで、オルフェ達にとっては、間違いなく自分らを生み出してくれた母親のものだった。
だが、今日の笑顔はいつもと違った。オルフェは意識をアウラ博士に集中させる。オルフェはその笑顔がいつもよりも黒く、陰っているのに気づいた。
(あのクソヒビキめ……)
例に漏れずヒビキ博士と何かあったらしい。また何か言われたのだろうか。
心の声とは裏腹に、アウラ博士は穏やかに微笑んでいる。
「みんなに紹介したい子がいるの。ほら、入って」
アウラ博士に手を引かれながら入ってきたのは、自分たちとそう大して歳が変わらない子どもだった。
オルフェはジッと、その子どもを観察するような目で見つめた。
女の子……かな。
珍しくもないダークブラウンの髪は腰まで伸ばされており、普遍的な色とは対照的に、錦糸の様な光沢が背中いっぱいに溢れるように広がっている。ゆったりとした白衣を身にまとい、顔をうつむかせており、前髪よって顔に影がかかっている。成長途中の子どもに似つかわしくない、そのどこか憂いを帯びた様子になぜか目が吸い込まれていった。
「お父様のヒビキ博士が今日から学会でいない代わりに、うちで預かることになったわ。迷惑をかけると思うけど、仲良くしてあげてちょうだい。ほら、あなたも自己紹介して」
子どもはアウラ博士に返事をするわけでもなく、ゆっくりと顔を上げた。
目が合った。
アメジストのような澄んだ紫目がオルフェを捉える。オルフェに向けられた眼差しは目の奥をのぞくような鋭さで、オルフェも負けじと睨み返す。しかしすぐに、目線は外された。
「キラ・ヒビキです。父が不在の間、お世話になります。よろしくお願いいたします」
キラはやや口角を上げた。笑ったような、そうでないような。
オルフェにとってはどうでもいいことだ。
キラ・ヒビキ、ユーレン・ヒビキの一人息子。つまりは、男。その名前はよく知っていた。こうして面と向かって姿を確認するのは初めてであるが。
キラ・ヒビキはただのコーディネーター。
そう吐き捨てたのは誰だっただろう。
”ただの”と特に強調するのだから、オルフェは誰ともしれぬ者のその言葉を良く覚えていた。聞けば、アコードとして人間を超えたあらゆる英知と力を与えられたオルフェ達と違って、ヒビキ博士は自身の研究成果として生まれた子どもをわざと”アコード”にしなかったらしい。
アウラ博士――母上と違ってヒビキ博士はナチュラルだから、アコードを作れなかったのではないか。母上以上に知識も、技術もある研究者なんていないと思う。
いつの日だったか、母親を精一杯励まそうとする幼子の言葉に、アウラ博士は目を細めて頭を撫でてやった。
アウラ博士とヒビキ博士は対立関係にあった。現在別の研究チームで遺伝子研究を行っているが、元々は同じチームだったようでヒビキ博士の研究もよく知っている関係だった。そのため、当然アウラ博士の研究結果、”アコード”である僕らと、ヒビキ博士の研究結果であるキラ・ヒビキは常に比較された。学習速度、治癒能力、思考能力、ありとあらゆる分野において。こぞって他の研究員らは、物珍しい動物に群がる見物客のようにデータを取っていた。
そして常に、オルフェは賞賛の言葉が贈られた。当たり前のことだ。キラ・ヒビキは他の有象無象と変わらない、”ただのコーディネーター”だ。”アコード”とは違う。
世界を導く者として選ばれた僕らと、選ばれなかった彼。比較する行為すら意味の無いことなのだ。
何のための、遺伝子研究なのだろう。あれだけの時間と知識と技術を費やして、完璧な遺伝子操作を行える人工子宮を開発したあげく、完成したのがたった1人のコーディネーターなんて。
それがヒビキ博士の限界と思えば仕方の無いことなのだろうが。変なプライドに固執せず、母上と共同で研究を進めていけば、キラ・ヒビキは僕らと同じになれたのに。可哀想でならない。
かわいそう。キラ・ヒビキは可哀想な子どもだ。
アコードにしてもらえなかった成り損ない。僕らになれなかった哀れな子。
オルフェにとってのキラ・ヒビキは所詮そんなものだ。
プラントに掃いて捨てるほど作り出された、コーディネーターどもと変わらない。
『あれが噂のキラ・ヒビキ……』
『なんかパッとしないね。平凡って感じ』
『キラ・ヒビキか。強いのか?』
『出たよ、戦闘馬鹿』
『うるさいので静かにしてほしいのですが』
頭の中で、言葉がこだました。アコードとして兄弟たちに共通して与えられた心を伝え、聞く能力だ。誤差はあれど、だいたい5歳頃には自在に使えるようになった。アコードだけの特権だ。
やろうと思えば只のナチュラル、コーディネーターにも心を伝えることができるのだが、アコード同士の会話を受信できるのはアコードだけだ。
アコードだけの特別。だから、こうしてくだらないことでも、必要の無いことでも、兄弟たちは知らない誰かに見せびらかすようにして能力を多用するようになった。
『しばらく、一緒に勉強するのかな。この前の訓練も?』
イングリットの声だ。珍しい。妹と違っておとなしい彼女が会話に参加することは滅多にない。それほど、キラ・ヒビキのことが気になっているのだろうか。
しかしアコード同士の脳内会話など知るよしもないアウラ博士の言葉によって、イングリットの疑問は遮られた。
「今日からキラ君も、ここにいるみんなと衣食住を共にしてもらうわ」
キラの肩に手をかけて、言葉を上から投げかけている。
柔和な顔を崩さずに。
キラはアウラ博士に顔を向けずに、「はい」と小さく答えた。
「それと、申し訳ないのだけれどキラ君をオルフェの部屋に泊めてあげてほしいの」
アウラの目線がキラから外され、オルフェへと向かう。それに倣うかのように、兄弟達の目線がオルフェに向けられた。
は、と息が漏れた。今までに無い想定外だ。
オルフェ達はそれぞれ部屋が与えられている。研究所は広いと言っても居住スペースはそこまで空間を使用されていない。オルフェ以外の兄弟達は2人1部屋で暮らしている。
オルフェも例外ではない。元はといえば、2人1部屋になるはずだった。
共に世界を導くことを運命づけられた、只1人の片割れと共に。
しかし、彼女はオルフェが物心つく頃には既にメンデルから連れ出されていた。アウラ博士と共同で研究をしていた彼女の母親の手によって。研究の傍らアウラ博士が必死になって探しているが、未だに消息がつかめていないらしい。
だから、いつでも彼女が帰ってこられるように、オルフェは毎日部屋の掃除を怠らなかった。清潔に、綺麗に保たれるように。
その部屋を、彼女のための部屋を、キラ・ヒビキ《できそこない》に使わせるだと。冗談じゃない。
即刻拒否しようと口を開きかけたオルフェは、何も言わずに息を飲み込んだ。
部屋を使わせたくないなんて、ただの子どものわがままじゃないか。
嫌だと言ったら?こんなやつに使わせたくないと、母上に言ったらどんな顔をするのだろうか。
世界に恒久の平和を導く者として、与えられた使命があるのに。この程度の癇癪で、振り回されるなど、オルフェ・ラム・タオにはあってはならぬこと。
「朝食が済んだら、お部屋に案内してあげてちょうだい」
「はい、母上」
オルフェは綺麗な笑顔で答えた。寸部の狂いのない笑顔だった。