その年の七月中頃、東京都立花木高等学校硬式野球部は全国高等学校野球選手権西東京大会の三回戦にて、その夏を終えた。
三年生主将・金城捕手の表情は、最後の夏の幕引きに際して、清々しく澄んでいた。
氷河や星明に比肩する実力校を相手に八回を無失点で抑えて互いに譲らぬ投手戦であったが、九回裏、高めに浮いた渡辺の球が捉えられて緩やかな放物線を描くと、ポール際すれすれを内側に、白球は静かに落ちた。キャッチャーマスクを取ってサヨナラの打球を遠く見送る金城の眼差しは七月の快晴の空を映すほどにも澄み渡って、その表情は寂しくもどこか晴れ晴れとしたものであった。
試合後も、金城は涙が一滴も出なかった。決して、全力で戦わなかったというわけではなかった。リトルリーグ、リトルシニア、高校野球部と、長らく野球漬けで過ごしてきた日々にここで区切りがついて、様々な記憶や感情が張り裂けそうなほど胸の裡に満ちては巡り溢れていたが、彼自身も意外に感じるほど、涙がその頬を伝うことはなかった。
「お前って結構泣き虫だよなあ、葬式みたいに泣くんだから……」
試合終了の整列を終えて、金城の隣では渡辺が人目も憚らず、止め処もなく溢れる涙をその双眸から流していた。
「だってェッ……金城さんとっ……甲子園、行けなかっ……」
渡辺はしゃくりあげながら金城に取り縋り、肩の辺りに顔を埋めて何度も首を横に振った。
「俺は終わったけど、まァこんなもんだ。……引退しても卒業までは時々様子見に行くからさ。泣くなって」
髪を撫でてやろうと掲げかけた手をそっと下ろして、赤子をあやすように背中を優しく叩いてやると、渡辺はもっと泣いたのであった。
金城は野球部を引退すると、大学への進学に向けて本格的に学業に勤しんだ。それでも時々は部へ足を運び、新チームの活動を見守っていた。
金城には引退までに、どうしてもやっておきたかったことがあった。春からの三ヵ月程度では、到底間に合いようもなかったのだが。
進級を控えた年明けに、そのことを渡辺に打ち明けると、渡辺は悄然と肩を落とし、しばらく鬱いだ。
その春、金城は三年生になった。
前年の秋季都大会では、夏以降渡辺の球速や制球にも磨きがかかり、また強豪校の主力三年生選手が軒並み引退したことも助けて、新設都立校ながら善戦することができたのだが、彼らの駒は神宮までも、進めることは叶わなかった。順って、泣いても笑っても、彼が聖地に立つ契機があるとすれば、その夏が最後であった。
残されている時間の少ない中で、金城は決して目指す聖地へと続くか細き道の歩みを止めてはいなかった。然りとても、気掛かりであったのは彼とバッテリーを組む渡辺のことであった。
同じ年の春、渡辺は二年生になった。
金城がやっておきたかったことというのは、自分の後継を渡辺のために見つけてやることであった。
三年生の自分は、二年生の渡辺を残して先に引退してしまう。ずっと傍についていてやれたならばどれだけ心安かったであろうかと栓なきことに胸を痛めても、手を離す時は、日一日と迫っていた。渡辺の残りの一年を、持てる力を尽くせるように、一任できる捕手を彼の隣に引き据えてやりたかった。活動内容や練習メニューなどについて助言することを、引退してからは控えていた彼も、このことにだけはよく口を出した。
当の渡辺はといえば、金城以外の捕手を相手にして投げることに、最後まで納得がいかないらしかった。金城が「俺だって本当はお前の球を他の奴になんて捕らせたくないよ」などと宥めすかして、どうにか事を納めさせたのであった。
結局正捕手の後継となる選手を渡辺と組ませて調整を始めたのは、金城の野球部引退より少し後のことであった。
青春の短き日々は瞬く間に移ろい、まだ寒さの残る三月半ば、晴れて金城は花木高校を卒業した。
彼の卒業後の進路は、都内の大学へ春からの進学が決まっていた。その名を聞けば大抵が一目置くような難関校であった。
卒業式を終えて、青い春を部活動に打ち込んで時を過ごした多くの卒業生がそうであるように、金城もまた校庭で彼を慕う後輩部員達に囲まれてその出立を惜しまれていた。
中でも一際声をあげて泣いたのは、やはり渡辺であった。彼が宝谷シニアの門を叩いてからおよそ五年間に亘り続いていた金城との繋がりが今まさに解かれようとしているために、渡辺はまた金城の黒い詰襟の肩に取り縋って、滂沱の涙を冬服の厚い布地に染み込ませた。
「別れを惜しんでくれるのは嬉しいけど……お前がそんなに泣いてちゃあ後輩達に示しがつかないだろう」
金城は苦笑しながら、幼児のようにわんわん泣く渡辺の背中を優しく叩いてやった。
ふと金城の目に、夏を終えたあの日の光景が、渡辺の姿に重なって見えた。あの時に躊躇った手で、渡辺の頭の後ろをそっと撫でた。名残惜しい指を通した渡辺の黒髪はさらさらと乾いていて冷たかったので、金城は胸の奥が小さく締め付けられるような心持ちがした。
何か冷たいものが、金城の頬にちくりと触れた。顔を上げると、三月だというのに細かな雪が、白昼の明るい空に天気雨のように降り始めていた。
クラスの打ち上げもそこそこに帰宅すると、金城は部屋の照明を点けて、段ボール箱を積んだ部屋を暫し眺めた。
春からの新生活に必要な物は、もう殆ど箱の中に収めてしまっていた。少しだけ広くなった部屋のドアを開ける度、そこに広がるのは見慣れない光景で金城は変な感じがしていた。
書棚の前で足を止めると、その上のキャッチャーミットに迷い無く手を伸ばした。
「……連れて行くつもりなんか、もう無かったんだけどな」
優しく撫でてやると、LEDの明かりを受けて、指先に払われた細かな埃の宙を舞うのがチラチラと金城の目に映った。苦楽を共にした愛しい相棒が視界の中で歪んでぼやけた時に、金城は自分の目に湛えた温かなものに気が付いた。
あの夏の日にも、母校の仲間達との別れにも涙を流さなかった金城は今日、大切だったものたちがその手を離れてから、初めて泣いたのである。
眼鏡を押し上げて袖で涙を拭うと、制服のまま学習机に向かった。もし間に合うならば、叶うならば、もう一度、もう少しだけ、続けたいと思った。
続けていればいつかまた、お前に届くだろうか――瞬きをした金城の瞼の裏で、マウンドに立った細身が笑った気がした。