梶の七葉 蝉が鳴き始めてきたこの頃。蔵から取ってきた本を両手に抱えながら、本丸の庭を歩く。じりじりと照りつける太陽が、暑いを通り越して肌を焼き痛い。
――早く戻って麦茶を飲もう。
そんなことを思いながら、ふと横にやった視線の先。そこに見えたのは、緑の中に埋もれる藤色の髪だった。
「五月雨?」
「……頭」
近寄って声をかければ、やはりそれは五月雨江で。振り返り、私を確認しては立ち上がる。
「どうされたのですか?」
「ううん。五月雨っぽい髪色が見えたから、もしかしたらと思って。何してたの?」
「私は……梶の葉を見に来ていました」
「梶の葉?」
そう問えば、手に持った葉を見せてくれた。周りにも同じものが生えていることから、これが梶の葉かと理解出来た。
「その葉っぱは何に使うの?」
「もうすぐ七夕ですから。願い事を書くのに探していました」
「……短冊じゃなくて?」
七夕と言えば、短冊のイメージが強い。それも願い事を書くのだから尚の事。だから、“葉に書く”というのもいまいちピンと来ずに、ただただ五月雨を見つめる。見ていれば、変わらない表情でまた一枚、梶の葉を千切る。
「“梶の七葉”、というものがあります。七夕祭に、七枚の梶の葉に歌などを書き、供えるのです」
「へぇー。それじゃあ、今の七夕の元みたいなものなのかな」
「そうかもしれませんね」
私と話しながら彼はちらりと後ろを向き、また程良い大きさの葉を千切る。今、彼の手にあるのは六枚。あともう一枚で願い事を書けるのだろう。
「五月雨は何てお願いするの?」
「そうですね……。梶の七葉は、芸能の向上などの祈願を行う風習だと聞いています。篭手切の夢が叶うよう、歌を詠んでみようかと」
そう言いながら、ふっと優しげに微笑む彼は目が奪われそうな程に綺麗で。胸が締め付けられた時、何故かこれ以上見てはいけない気がして、そっと視線を反らした。
「そっ……か。うん、良いんじゃないかな。きっと…喜ぶよ、篭手切」
「そうだと良いのですが……」
「じゃ、じゃあ……私、そろそろ行くね!本もあるし……!」
「あ、頭!」
なんとも挙動不審なことだろう。未だに容赦なく照る太陽による暑さのせいか、自分自身の心情か。火照る顔の原因もわからず、早く離れようと足を動かし、自分が出せる精一杯の速さで駆けていく。息をするにも苦しく思ってしまうのは、先程きゅっと締め付けられたような、あの感覚のせいだ。何かに溺れているかのように苦しい。なのに、何処か心地が良い気もする。
自室に着き、本を持ちながら崩れ落ちる。ぽたぽたと止めどなく汗が顔を、首筋を、腕を伝って滴り落ちた。それを拭うという考えが浮かぶよりも、今頭の中を占めているのは、あの五月雨の微笑んだ顔だ。
「……そんなこと、思ってなかったのに」
振り払うかのように思考を変えようとしても、浮かぶのは彼の表情なのだから、自覚せざるを得ない。彼に目を――心を奪われてしまったのだと。
「どうしよう……」
来週である七夕の週は、彼に近侍を頼んでいた。こんな時に限ってと思わざるを得ないが、考えていたって仕方がない。時は、私の都合と関係なくやってきては過ぎてしまうのだから。五月雨と来週は挙動不審にならず、少しでもマシに話せるように。心の準備くらいは、しておかなければと思った。
「頭。終わりました」
「うん、ありがとう。そこに置いといてくれる?」
「はい」
やってきた近侍の週。気付けば、今夜は七夕だ。そう思うほどに日が早く巡り、特に困ることなく過ごせている。この間、走り去ったことに関しても、気を使ってくれているのだろう。五月雨は聞かずにそっとしてくれていたし、普段通りに接してくれている。それでも、時々勝手に高鳴る自分の鼓動に、『早く鎮まってくれ』と思うことはあったけれど。
「……そういえば、お願い事は書けた?」
ある程度仕事に片が付き、作業の終わり支度をする五月雨。もう少し、一緒にいたかったから――だろうか。手元にある、刀剣男士みんなに配った短冊を見ながら、ぽつりと零した。それに、彼が触れずにいてくれたとはいえ、気になっていたお願い事の話は聞いてみたかった。
「あ、はい。それはしっかりと……。今日の夜に供える予定です」
「そっか。それは良かった」
ちゃんと梶の葉のお願い事は出来るのか。話を知っていたから、どこか嬉しく思った。
――五月雨の願いが叶うと良いな。
そんな思いを馳せながら。
「頭。今日の夜、見て頂きたいものがあるのですが……」
「ん?何?」
「……また夜に。では、ひとまずこれにて」
瞬きの間に、音もなく消えた五月雨。流石、忍。
それにしても、見てもらいたいものとは何か。幾らか仮説を立てては消し、消去法の形を取ってみたけれど、どれも納得いかずに選択肢は残らなかった。
「夜になれば、わかるんだし……」
赤みが増した橙色の外を見ながら、黒に染まる数時間後を待つ。また、その時に五月雨と会えるのかと思えば、少なからず心は踊る。
「おう、主!もうすぐ飯だってよ!」
「……豊前、もうちょっと静かに入ってきてほしかったかも」
「ん?何でだ?」
「……いいや、何でもない」
豊前の元気の良さは、彼の長所。私の情緒の問題でとやかく言うことでもないと、一人結論付けて共に食堂へ向かった。
歌仙の作った美味しいご飯を食べ、お風呂を済ませ、ゆったりと過ごす宵の時間。窓からふと空を見上げれば、普段は曇り空が多い印象な七夕は、今日は星が見えるほどに快晴だ。『珍しいなぁ』などと思い耽っていた。
「頭」
「……あぁ、五月雨?言っていた見せたいものかな?」
「はい」
障子が閉まったまま、声をかけてきたのは五月雨。招き入れようと障子を開ければ、そこには軽装姿の五月雨がいた。お風呂上がりなのだろうか。どこか色っぽく、何故か照れてしまっては真っ直ぐ見つめられずに視線を彼から外す。先の行動とは裏腹に、今は彼を招き入れてはいけない気がした。
「……それで、見せたいものって?」
「……これです」
普段であれば、部屋へ通すところを廊下で会話しているのだ。少しばかり、五月雨も不思議に思ったのだろう。首を傾げた後、納得していないらしいまま、五月雨は懐へと手をやった。そして、渡されたのは一枚の梶の葉。
「これって、この間の?」
「はい。見て頂けますか?」
受け取った梶の葉を見れば、緑に浮かぶ黒の達筆な文字。何が書かれているのかと見てみれば、それは短歌のようで。
『わが恋は 虹にもまして 美しき
いなづまとこそ 似むと願ひむ 』
「ねぇ、これ……」
「意味は……ご存知のようですね」
驚いて思わず見遣った五月雨は、私の反応にとても嬉しそうにしている。まさか、こんな歌を渡されるなんて思っておらず、じわじわと顔が熱を持つ。たまたま、置かれていた本を読んだときにこの歌が載っていて、素敵だと笑みが溢れたのを覚えている。
「私の気持ちですが、わかってもらえましたか?」
「……十分です。でも、何で今日?」
「お伝えしていませんでしたか?梶の七葉は芸能だけでなく、恋の思いを遂げることを祈るものでもあるのですよ」
「……聞いてないよ」
“恋の思いを遂げる”だなんて、改めて言われると今の状況を実感してどんどん声が小さくなる。真正面から、七夕の日にこんな贈り物――。
「落ちるに決まってる……」
「では、更に私に落ちて頂けますか?」
こてんと首を傾げる姿は可愛らしく、柔らかく包んでくれそうなほど声色は優しいのに。私の手首を掴んだと思えば、そのまま手の平を通り、ここから逃がさないとでも言うように指を絡め取っていく様は力強く、艶めかしくて色めかしい。どうやら、ここまでの出来事に頭の中はキャパオーバーらしく、もう思考など巡ってはくれない。
「頭の為に、私自身も歌を詠んできました。部屋で、聞いて頂けますか?」
「う、うん……」
「嬉しいです、頭……」
考えることを放棄した頭で頷いた答えに、とても嬉しそうに私の髪に口付けて笑うから。『それで良いか』なんて、五月雨が後ろ手で閉めた障子をただ見ていた。
その後のことは、窓の向こうで煌めいた星だけが知っている。