みそしるまバックストーリー(修正版) 俺の家は教会だった。
物心ついた頃から、真っ赤なステンドグラスの前で、教書を読み上げる父さんを見ていた。
「お前たちは、私の希望だよ」
知曲と一緒に、よくそう言われていたのを覚えている。
父さんの信じる宗教というのは、仏教やキリスト教といったものではなく、解凍院家が独自に信仰し、受け継いでいる、いわゆる新興宗教ってやつだった。
神がいて、教えってのがあって───俺と知曲は生まれたときからその価値観の中で育てられ、教えに反すれば鞭を打たれたり、儀式だとか言って煮え湯を飲まされたりした。家の敷地の外に出ることは決して許されなかったので、その仕打ちを疑うこともなかった。
俺たちが自分たちの人生に違和感を持ったのは、12歳の頃だったと思う。
その日は快晴で、風が気持ちいい春の日だった。
庭で知曲と読書をしていた昼下がり、背の高い柵の向こう、深い森の中で聴き慣れない声がした。
それは女の子の泣き声のようだった。
うちの信者以外、誰も訪れないはずの森で鳴り響く声が気になり、俺は知曲が静止するのも聞かずに柵に近づいて向こう側を伺った。そこにいたのは、白く輝く銀髪を長く伸ばした、綺麗な女の子。
「なあ、どうしたんだ?」
気がついたらそう声をかけていた。俺たちに、父さんの許可なく他人と会話することは許されていなかったはずなのに、その時はなぜか自然と声が出ていた。
少女は俺に気がつき、真っ黒な瞳を瞬かせ、しゃくりあげながら話してくれた。
「わ、わたし、迷子になって……おうちが、わからなくて……」
「家がわからないのか」
「うん……おかあさんに、会いたいよお………」
ぽろぽろと涙をこぼしながら呟く彼女がひどく哀れに思えて、俺は助けてあげたいと思った。あとで殴られても構わないから、彼女の涙を止めてやりたいと思った。
だから、高い柵をよじ登って外へ出た。知曲がずっと「兄さん!」と泣きそうな声で俺を呼んでいたけれど、「お前はここにいろ」とだけ伝え、彼女と一緒に、森を彷徨った。
結果的に、その子は母親と会えた。木の枝葉で傷だらけになりながら歩いていたら、ひらけた道に出て、そこで少女の母親が、悲痛な声で少女の名前を呼んでいた。
で、肝心の俺は───引き返している最中に鬼の形相の父親に捕まった。モノのように引き摺られて帰った家では、知曲がぶるぶると震えてうずくまっていた。
その夜、背中の皮膚がびりびりに破けるほど鞭打たれながら、ぼんやりと、昼見た少女と、その母親の姿を思い出していた。
飛び跳ねて縋り付く少女を、強く抱きしめていた母親。
綺麗な色のワンピースに泥がついても、「無事でよかった」とそれだけを繰り返していた母親。
自分よりずっと背の低い俺に深く深く頭を下げて、お礼を言ってきた母親。
そんな母親の姿を真似てぺこりと頭を下げ、とうに涙の乾いた、花の咲き誇るような笑顔で「ありがとう!」と言った少女。
果たしてあれは、俺のしたことは、こうも罰されるほど酷い罪だったのだろうか。
俺は初めて父親に口答えをした。
「父さん、俺は、本当に間違いを犯したのか」
「なんだと?」
「俺のしたことは……そんなに酷いことだったのか?」
「貴様………醜い獣たちに手を貸しただけでは飽き足らず、神の与える報いにまで……」
「父さん、俺は」
「誰かがお前を唆したんだろう。でなくてはこうはならない。カガミか?あの女、やはり堕したか?」
「やめろ!!母さんは関係ないだろ!!」
「誰に向かってそんな口を……」
そのあとは本当に、思い出したくもないくらい殴られた。本当に死ぬかもしれないと思ったけど、でも、こんなことで死んでたまるかとも思っていた。
俺があんなに殴られるのを目の前で見ていた知曲は、それ以来ひどく塞ぎ込むようになってしまったし、俺だって心と身体にひどい傷を負ったけれど───いちど外を知ってしまったからには、もう、何も知らない鳥籠の中の鳥ではいられなかったんだ。
以来、俺と父さんの戦争が始まった。
といったって、ほとんど俺が一方的に殴られるだけだ。口答えをして殴られ、殴られるたびに口答えをして、母さんからは何度も「やめて」と懇願された。
だけども、許せなかった。俺が人生で初めて貰った、あの「ありがとう」を、踏み躙られたくなかった。
「父さん、こんなこともうやめろ!!神なんかに時間も身体も捧げて、何が幸せだってんだよ!!」
「ああ、折る歯が増えたな、異端者め!貴様如きが……■■■様を愚弄するな!!」
「折ってみろよ!!何されたって俺は信じない!!知曲と母さんを傷つけてまで信じる神なんかな…!!」
「黙れ!!」
俺が口答えをするたびに、父さんからは余裕と、理性が無くなっていくように思えた。
俺はそれを喜んでいた。
このままいけば勝てる。あの父親の信心を叩き折って、自分が間違っていた、お前が正しいのだと認めさせることができる。
そのためなら命だって惜しくない。俺が家族を守るんだ。俺が、救うんだと。
そう思っていた14歳の、ある日。
その日も戦争が起こって、誰もいない教会、真っ赤なステンドグラスの前でぼんやりと床に転がっていた俺の目の前に───いつのまにか、ひとりの少女が立っていた。銀色の髪が、かつて俺が助けた、あの少女に似ていた。
「少年。私を信仰する気はないか?」
それがあいつとの出会いだった。
「私の名は、メテオ。少年、君の名前を教えてくれ」
「…………俺は…………三十。解凍院、三十」
「ふむ。三十くん」
「下の名前で呼ぶな。………嫌いなんだ」
「失礼した。解凍院くん。……私は、君に力を貸したい」
メテオ。そう名乗った少女は、自分を『宇宙から飛来した悪魔』だといった。
勿論、神とか悪魔とか、そんなのは当時の俺が一番嫌いな話だったから、最初はとにかく冷たく当たって教会から追い出した。
でも、何度追い返しても、俺の目の前にそいつは現れた。庭、寝室、トイレ、階段の踊り場。何度ありったけの罵詈雑言をぶつけても、顔色ひとつ変えず、いつだって同じ薄ら笑いで見つめてくる瞳が不気味で───とうとう根負けしてしまって、話を聞くことになってしまった。
「私はここから遥か遠くにある星で暮らしていたのさ。けれど、ある日、天使に星を滅ぼされてな。私だけが生き延びることができて、この地球に辿り着いたんだが……」
「滅ぼされるって、なんだよ……」
「それで降り立ったのが、たまたまこの教会の近くだったのさ。それで彷徨いていれば、君と君の父親の怒鳴り声が聞こえてな。話を聞いているうち、君の助けになりたいと思った。それだけのことといえば、それだけのことなんだがな」
俺はまた怒った。
デタラメみたいな経緯説明にではない。メテオの淡々とした、全てを俯瞰して見ているような毅然とした態度にだ。
俺を見下しているように感じた。哀れまれているように感じた。そんな同情なんかで助けられたくない。俺は俺一人の力で、弟を守る。母を守る。父を正気に帰してやるのだと、捲し立てた。
そしたらメテオは、こう言った。
「しかし、今のお前と、お前の父親の、何が違うというのだ」
あまりに残酷な言葉だった。何が残酷かって、ただただ正しいことが残酷だった。
だから、目の前の少女にしか見えない何かを、本当の悪魔なんだと信じることができた。
それから俺は、メテオとの対話を重ねるにつれ、少しずつ自分自身を律することが出来るようになっていた気がする。
「君から見れば、父親は間違っているのかもしれない。だが、父親から見れば、間違っているのは君だろう。誰だって自分が正しいと思っているから、戦争は起こる。そして、どちらかが滅ぶまで終わらない」
「滅ぼしたいなら、滅びたいなら、そうするべきだが……君がしたい事は、そのどちらでもないだろう」
メテオの言葉で、俺はようやく、自分が父さんを負かしたいわけじゃなくて、ただ父さんのことを分かりたかったのだと知った。
■■■様の何が父さんをああさせるのか。俺たちはなぜ、こんな目に遭わなくてはいけなかったのか。
痛い目に遭いたいわけでも、遭わせたいわけでもない。ただ、あの家族のように抱きしめあってみたかった。それができない理由が知りたかった。
ただそれだけだったのだと。
15歳になったとき。
俺の身体の傷が少しずつ塞がってきた頃、父さんに教会に呼び出された。
父さんはどこか、諦めたような表情をしていた。
「三十。私がなぜ、■■■様を信仰するか分かるか?」
「……分からないよ」
「……私も、その理由を考えた事はなかった。だが、考えてみたんだ」
「………」
「分からなかった」
やけに穏やかな声を聞きながら、父さんは、こんなに小さかったっけ?と、ぼんやり考えていた。
「■■■様の前でこんなことを言うなど、赦されないことだ。三十。最近お前は、教えに反することが減ったが………そろそろ分かってきたか?」
首を横に振った。
「そうか」
この人もまた、俺のように、爺さんから『■■■様を信仰するためだけの存在』として
育てられてきたんだろうか。
父さんには、守らなきゃいけない双子の弟はいないし、助けることのできた少女はいないし、正しいことだけを言う悪魔もいない。
俺だって、独りきりだったなら、父さんと同じになっていたんだろう。
そう考えると、恐ろしかった。それ以上に、ひどく悲しかった。
そのとき、地面がひどく揺れた。
地鳴りがするほどの強く、激しい揺れ。俺は咄嗟に、父さんの腕を掴んだ。そのときの父さんは先ほどより少し、笑みを浮かべているように見えた。
バキバキバキ、と何かが割れる音が響き、危険を感じた俺はそのまま父さんと共に、外に脱出しようとしたが───父さんは、決してそこから動こうとしなかった。
それどころか、俺の腕を強く掴み返して、離そうとしなかった。
「……父さん!?」
「行くな」
壁に亀裂が走る。ステンドグラスが割れ、まるで血飛沫のように飛散する。今すぐに父さんを振り解かなければ、俺はこの教会の下敷きになって死ぬ。死んでしまうんだ。分かっていたのに、頬から冷や汗が滴り落ちても、父さんの手を振り解くことだけはどうしてもできなかった。
「ああ、神というのは本当に理不尽なようだな」
天井に押しつぶされる寸前、どこからか、メテオの声が聞こえた気がした。
気がつくと、俺は白い部屋にいて、どうやら左手と左足を骨折したようだった。
原因不明の地震に見舞われた教会はほとんど崩れてしまい、中にいた俺がただの骨折で済んだのは奇跡だと、初めて見る医者は言った。
父さんは───なんとか一命は取り留めたものの、脳を大きく損傷し、植物状態となってしまったらしい。
放心状態の俺の前に、メテオが現れた。
「すまない。君を守ってやれなかった」
「……………父さんは」
「私の力不足だ。私はこのようなやり方は気に食わない。しかし、止められなかった」
メテオが何を言っているのかはよく分からなかった。
自分が外の世界に当たり前に居ることと、父さんが目覚めなくなってしまったこと。受け入れ難い現実をまともに直視できず、ただ、母さんと知曲が無事だったことへの安堵だけで心を満たしていた。
「………兄さんが無事で、本当に良かった。父さんは……僕は、自業自得だって…………思うよ」
マトモに歩けない俺を支えながら、知曲が呟いた。
チューブを繋がれ、ベッドに横たわる父さんを見て、思い出す。
あのとき一緒に逃げようとする俺を、父さんは引き留めて離さなかった。
俺と、死ぬつもりだったのだろうか。■■■様を冒涜した自分と息子に、罰を与えるつもりだったのだろうか。それとも。
何にしたって、父さんにあんなふうに自分を求められたことは、人生で初めてだった。
「………父さんのこと、好きに、なれてたらなぁ……」
なにか、この感情の意味も分かったんだろうか。
入院中、メテオは言った。
「先導者を失った信者たちはどうするのだろうか」
ときどき教会に訪れていた、父さん曰く『賢者』らしい大勢の人間。
彼らは父さんと同じように■■■様を信仰し、父さんの話をありがたそうに聞いては、様々な捧げ物をしていた。
「………教会も壊れちまったし、できれば、ウチから離れて欲しい……けど」
「ひとりの神に、時間も金も身体すら捧げることを厭わない人々だ。信じる物ものを失えば、崩れるのみだろう」
父さんを見てきた俺に、それを否定する事は全くできなかった。
黙り込んだ俺を、メテオはいつもの薄ら笑いで見下ろして、そしていつもの静かな口調で囁いてくる。悪魔の囁きを。
「お前は、どうしたいんだ?」
ある日、俺は知曲を屋上に呼んだ。前までは父さんに鍵をかけられ、出ることを禁じられていた場所だった。
そこから見る空は快晴で、雲ひとつなく、澄み切った青が美しかった。
「兄さん。話って…?」
「なあ、知曲……」
「俺は、父さんの仕事を継ごうと思ってる」
その時の知曲は、今まで見たことのない表情をしていたと思う。
ひどく驚いている様子だったが、それだけではない顔だった。でも、それ以上は分からなかった。
「……どう、…して?だって……僕たちは」
「分かってる………でも、このまま、あそこに来てた『賢者』どもを野放しにするわけにいかないだろ」
「だ、だからって…兄さんが……」
「俺が、1から教えを作り直す。血を捧げるとか、家族を鞭打つとか、そんなもんは無くす。それでも■■■様のことは否定しない。アイツらは、それだけが救いなんだ。……救いまで奪うわけにはいかない。だからせめて……誰も傷つけないように。救われてほしいから」
「……………」
知曲は少しの間目を伏せて───笑った。
「……そっか。兄さんは、本当に優しいんだね。………応援するよ」
「…………ああ。ありがとう」
それから、知曲はずっと笑っていた。
母さんに同じことを説明すると、最初はひどく狼狽していた。けれど、話をするうち、何か決め込んだみたいにため息をついて、微笑んだ。
「………そうね。貴方は勇気があって、賢くて、とても優しい子だものね」
母さんは、俺と知曲に、「貴方たちをこんな目に遭わせて、本当にごめんなさい」と謝った。
身体が弱く、俺たちと同じように父さんから厳しく監視されていた身だ。食事を作り、勉強を教えてくれただけでも充分感謝している。
母さんは、俺たちを学校に通わせたい、と言った。
「あの人と、家のことは……しばらく、私が預かるから………お願い。外の……いいえ、この世界を、見てきてほしいの。きっと……楽しいと思うわ」
断ることはできなかった。
かくして、俺と知曲は、16歳にしてはじめて学校に通うことが決まったのだ。
「学校か。教養を得るのは大切なことだな」
「………というか、お前、いつまで俺の近くにいるんだ?これからどうするとかないのか?」
「特にない。行く場所もないし……とりあえずはこの星の文化を見て回るのも、まあ悪くないだろう。私も学校に連れて行ってくれ」
「………いいけど、見つからないようにしろよ?お前のこと、知曲にも言ってないんだからな?」
「勿論だとも」
ちなみに、俺が通うことになった西ノ陽高等学校は、かなり校則がゆるく、自由な雰囲気が魅力的な学校らしかったが───まさか、校舎に寝泊まりしている人間がいるとは、俺もメテオも思ってなかったな。
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僕の家は教会だった。
父親に、■■■様とかいう訳のわからない何かを崇拝し、それのためなら何でもするように教えられて生きていた。
僕には双子の兄がいる。
双子と言っても、二卵性双生児だから、あまり似ていない。血の繋がりを感じられるのは、同じ髪の色でくらいだ。
兄さんはとても優しい人だった。幼い頃から、僕が泣けばすぐに駆けつけ、母さんの体調が良くない時は積極的に家事を手伝い、父親の話もよく聞いていた。
12の時だった。
柵の向こうで女の子が泣いていた。女の子は道に迷って家族と逸れてしまったらしかった。でも、『外』に出ることは僕たちには許されていなかった。だから僕は、可哀想だけど何もできないな、と思った。
そしたら兄さんは、柵をよじ登って少女とどこかへ消えてしまった。僕は何度も止めたんだ。父さんが怒る、父さんにまた殴られてしまう、やめようと。
しばらくして帰ってきた兄さんは全身傷だらけで、これから父親にどんな目に遭わされるか分かっているはずなのに───どこか遠くを見るような目をしていた。それが何だか怖かった。兄さんが、僕の知らない兄さんになってしまった気がして。
その予感は本当だった。兄さんは、父親に口答えをしたのだ。
何度殴られても、鞭打たれても、それでも父親に逆らい続けた。
どんどん血だらけになっていく兄さんに、僕は何度も「やめて」と思った。殴る父親にではなく、兄さんに。「これ以上逆らわないで」と、そう思っていた。僕たちは何をしたってこの地獄から出られないんだから、何をしたって無駄なんだから。
それなのに、兄さんは次の日も、その次の日も抗い続けた。
全身にあざを作ろうが、裂けた皮膚から血が滲もうが、自分や僕、母さんを傷つける父親と、■■■様の教えを否定し続けた。
ボロボロの兄さんを見ながら、僕は父親を憎むことで精一杯だった。いや、きっと精一杯なんかじゃなかったのだ。会話の通じない父親に反抗して、殴られることだけが怖かったのだ。
父親の怒鳴り声から毛布をかぶって逃げる僕を、兄さんは優しく撫でた。
「怖かったよな。ごめん」
穏やかに謝る兄さんの方が、よっぽど怖くて、痛いのだろうに。
兄さんは、父親に復讐がしたいわけじゃないようだった。最初はそういうふうに見えたけれど、時が経つにつれ、戦争ではなく、対話をしようと努力するようになった気がする。自分を、出来損ないの機械みたいに扱ってくるあの父親とだ。
兄さんは、あんな父親にすら、優しくするんだ。
そう気がつく頃、僕は15歳になっていた。
忘れもしない日だ。
大きな地震があって、家の教会が崩れて、そこにいた父親と兄さんが下敷きになった。
僕と母さんがそこに駆けつけたとき、穴の空いた天井からは曇り空が見えていて、そこらじゅうにガラスか血か区別のつかない赤色が散らばっていた。
母さんが大きな悲鳴をあげて誰かを呼びに行ったあと、僕はその静かな場所で、ぼんやりと赤い水溜りを見ていた。
「………兄さん」
そして僕は思った。
これは、■■■様の呪いなんじゃないか?って。
絶望した。
潰れている兄さんの前で、大嫌いな父親の信仰する、大嫌いな神の名前を思い出してしまった。あまつさえ、呪いなどと思ってしまった。ほんの一瞬だけでも、自業自得なのだと思ってしまった。
僕は耐えきれなくなって、その場から逃げ出した。
いつだって逃げることには戸惑いがなかった。
遠くから聞こえてくる何かのサイレンから逃げた。呼び止めてくる母さんから逃げた。父親からも逃げた。兄さんからも逃げた。
何もない方へ、僕はただ、逃れようと走り続けた。
兄さんは腕と足を骨折。父親は植物状態になり、意識の回復は相当困難。
そう聞かされたとき、心底安心した。兄さんの命に別状がないことより、父親がきっともう2度と目覚めないであろうことに。
ベッドに横たわり、管に繋がれ、そのくせどこか幸せそうに眠る父親。
兄さんにそれを見せたとき、僕はつい溢してしまった。
「自業自得だって思うよ」
どの口が言うのだ。
兄さんに自業自得だと思ってしまったのを、それを、父親に言ったことにしたかっただけだった。
自分を守ってくれる兄を突き放した僕より、暴力を振るう父親を憎んだ真っ当な僕になりたかっただけだった。
そんな僕の横で、兄さんは、心底悔しそうに、目を伏せて呟いた。
「父さんのこと、好きに、なれてたらなぁ」
頭が真っ白になった。
どうしてだろう。
どうして僕らは双子なのに、兄さんだけがそんなことを言うんだろう。
自分のことすら自分で守れない僕。
守ってくれる兄すら愛せない僕。
父親に哀れみの目を向ける僕。
父親を憎むことで、やっと自分を正当化しようとする僕の隣で。
僕を守って、母さんを守って、そして父親を愛したかった兄さんが、ただ眩しく輝く眼差しで、眠る父親を見つめていた。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして────!
「俺は、父さんの仕事を継ごうと思ってる」
それがとどめだった。
ある日兄さんに屋上に呼ばれて、告げられたその言葉が、ヒビだらけになった僕の何かを粉々に打ち砕いた。
それは、兄さんが僕と同じ人間であることへの期待だったのかもしれないし、僕の存在意義だったのかもしれないが───今となってはもう思い出せない。
そのあと、何を言われたのかは覚えているが、自分がどんな顔をして、どんなふうに言葉を返したのかは全く覚えていない。
ただ、きっと、笑っていたのだろう。
泣く資格も、怒る資格も、僕には何もなかったのだから。
あのときの綺麗な青空と、バツが悪そうに笑う兄さんの笑顔が、今も、ずっと瞼に焼き付いて離れない。
空っぽになった僕は、高校生になる前に、天使に出会った。
歩道橋に突っ立って、きらきらと光る道路へと飛び込むタイミングを窺っていた僕に、天使が囁いた。
「死ぬのですか?」
僕は首を横に振る。
「そんな勇気があったら良かったんだけど」
「そうですか」
天使は面白おかしいものを見るような青い目で、じいっと僕を見据えていた。
「……なんなんだ、あなたは?」
「グラス、と申します」
「……僕は死ねないんだから、放っておいてくれないか」
「おや、まるで死ななくてはならないような口ぶりですね」
「…………」
薄闇の中の天使は、わざとらしく胸に手を当て、もう片方の手を僕に差し出した。
「貴方は『解凍院 知曲』だ。解凍院 盲知の息子でも───もちろん、『解凍院 三十の双子の弟』でもなくね」
それが、週末部への入り口だった。