50平米の箱庭 【Day.1】 建物を出る時、一歩目を踏み出した瞬間のなんともいえない多幸感。そんな、麗らかな陽気が心地良い季節。
「……いつの間にやら、すっかり春ですねぇ」
やわらかなそよ風を胸いっぱいに吸い込む。地上10階にあるミーティングルームでのこもった硬質な空気とは違う、お日様と新緑の匂い。干したてのブランケットに包まれたかのような気持ちよさに、自然と足取りも軽やかになる。胸がすく程の青空を見上げながらコットンフレアのスカートをひらめかせ、横断歩道を渡ろうとした、その時だった。
「あの……すみません」
背後の声に振り返る。ESビルからちょうど出てきたばかりの私を、青年が呼び止めた。救いを求めているような弱々しい声音だ。確か、今年度から入ってきたコズプロ所属の新人アイドルの方だっただろうか。前に藍良さんがそれはそれは楽しそうに新人チェックとやらに励まれていた際、見かけた記憶がある。
「如何されましたかな?」
「えっ、あっ、もしかして『ALKALOID』の風早巽さんですか!?」
私の顔を見捉えた瞬間、青年のアーモンドアイが大きく丸みを帯びた。ひと目で同業だと分かる、幾分あどけなさの残る精悍な顔に、はい、と微笑みながら頷き返す。
「うわ〜……俺、ファンなんですよ。あっ、俺も一応アイドルなのにこういうミーハーなの駄目なんですかね?」
「いえいえ。確かに、いわゆるベテラン勢とされるアイドルの方々の前では眉を顰められる言動なのかもしれませんが。私としては、とても光栄に思いますよ」
対アイドルのこういう反応は藍良さんで慣れているし、純粋な好意を向けられるのは素直に喜ばしい。私の微笑みに、青年は「よかった……」と胸を撫でおろす。
「それで、何かお困りですかな?」
「あっ、そうだった……! ええと、俺今日から入寮なんですけど、星奏館への行き道ってこっちで合ってますか?」
青年が、整然と茂る木々に囲まれた道を指さす。
「はい、星奏館はそちらです。そのまま道なりに進んで行けば辿り着きますよ」
「で、ですよね……! ありがとうございます……」
青年は笑顔を強張らせ、ぎこちないお礼を返した。夢膨らむアイドル生活を駆け出したばかりとは思えない、曇り顔。直感で、青年はただ道を聞きたかった訳ではないんだと察した。
「あ、あの……お忙しいと思うんで、結構なダメ元で言うんですけど……」
「星奏館の案内であれば、君が私で構わないのなら喜んでお受けしますよ」
だから、青年が伸ばした縋る手を取るように、そう言った。
「えっ……!? な、なんで分かったんですか!?」
「この時期、そういう方は珍しくないんですよ。私達も最初、案内どころかほとんど何の説明もなしに放り込まれましたしね」
「そ、そうなんです! 事務所のスタッフさんに寮に行くよう言われたはいいんですけど、何も分からないままこの後ひとりでどうすればいいのか……」
「不安になるのも仕方ありません。ESは優秀なスタッフ揃いだというのに、些か説明不足な点は否めませんからね」
ESの遣り口……もとい運営方法は、創立当初からそうだった。説明や案内はホールハンズに任せきりで、ベテラン新人問わずさっさと野に放ってしまう。あんずさんを始め優秀なスタッフを有してはいるものの、その数と比較してアイドルの割合が圧倒的に多いが故、全員に手が及ぶ訳ではない。他社では当たり前のように配置される専属マネージャーもいないうえ、有能なアイドル達が本業そっちのけで事務所の運営に大きく関わっている程に人手不足な現状だから、仕方ないとは言えるけれど。
ここESでは、アイドルとしての自由が保障されているように見えて、実情のそれは放任に近い。ホールハンズである程度の行動指針を示してはくれるものの、仕事を取るのも、寮での生活も、全てのマネージメントが個々アイドルの自由意思かつ自己責任で成り立っている。アイドルの自主性を重んじてか、はたまた効率重視の方針からかは知らないが。右も左も分からない新人にとっては過酷この上ないだろう。
自分達『ALKALOID』もそうだった。五年前、唐突に“リストラ”宣告をされて旧館で暮らすよう言われた時。ほとんど説明も無しに慣れない共同生活を強要され、日々手探り状態で生活していた。首の皮一枚繋がって本館に移る際も、部屋割りその他諸々の要望を訊かれる事はなく。他人と関わることを極端に怖れるマヨイさんや、ESが誇るカリスマアイドルを二人も同部屋にもつことになった藍良さんが震えあがっていたことを思い出す。
それゆえに、その苦労を誰より知るひとりだからこそ。私は、路頭に迷う子羊をひとりでも救いたいと思うのだ。
「それでは、早速行きましょうか」
私が歩み出すと、青年は「はい!」と溌剌な返事で着いてくる。
「本当に助かります……偉大な先輩方と共同生活ってだけで緊張するのに、何もかも分かんねえってもう震えあがっちゃって……あっ、でも本当にいいんですか?」
青年が、申し訳なさそうに私の顔を覗いた。
「何がです?」
「その、風早さんみたいな人気アイドルのお時間を奪ってしまって大丈夫かなって……すごくお忙しいんじゃないですか?」
人気アイドル。その言葉に、思わずふっと笑みが洩れた。
「いえ、大丈夫ですよ。もう今日の仕事は終わりましたので。あとは帰宅するだけなんです」
「そうなんですね、よかった〜」
青年の安堵顔から、視線を春空へと移す。綿毛のような雲の浮かぶ、穏やかな春空。五年前──私がこれを見上げていた、彼のように“新人”と呼ばれていた頃。一年越しにやっと退院し、リハビリを繰り返しながらも春にはアイドルとして復帰を果たした。過去の栄光と経験を見込まれ、ごくたまに仕事が入ってくることもあったけれど。昔のように仕事をしようとしては足の不調に苛まれ、燻ったままあの転換期の夏を迎えた。事務所から“落ちこぼれ”の烙印を捺され、あわやクビ寸前まで陥った。しかし、あの転落があったからこそ、私は愛する仲間達に巡り逢うことが出来た。人気アイドルだなんて不相応に呼ばれる今があるのは、そのおかげだ。
『玲明の革命児』という異名が消えることはないし、過去を消したいなどと憂いている訳では決してない。けれど、人様が私を“『ALKALOID』の風早巽”と認識してくれることを、何よりも嬉しく思う。
「こちらが共用キッチンです。冷蔵庫も寮生なら誰でも自由に使用出来ます。たまにサークルで育てた野菜なども入ってますが、早いもの勝ちなので是非食べてみてください。新鮮で美味しいですよ」
なるほど、と、青年がスマホに目にも止まらぬ早さで文字を打ち込んでいる。メモアプリ、というらしい。メモと一緒に写真や図も残せて便利なんだとか。若い人は機器も柔軟に使いこなせて羨ましい。今でこそ私もホールハンズを人並に使いこなせるようになったけれど、ユニット結成当初、藍良さんやマヨイさん達に散々お世話になったのを思い出す。
「早いもの勝ちっていっても、先輩方の好物は残しといた方がいいとかありますよね?」
「いえいえ、新人だからといって先輩アイドルへ過度に配慮する必要はありませんよ。そういうのを求める狭量な方は、そもそも共有の冷蔵庫など使いませんしね」
大型冷蔵庫の重たい扉を開く。ところ狭しと並んでいる食材たち。漫画に出てくるような大きい肉塊に新鮮な魚介類、有名店のキッシュや和スイーツ──それらには大体、手書きで名前が書かれていた。
「こうやって記名されている物は各個人で用意されたものです。それさえ食べなければ大丈夫ですよ。特に、このフライパンのサインが書かれている物は量も多いので見逃さないよう気をつけてください。ニキズキッチンの活動日なんかは特に多くなるので、私用の食材と混ざらないように注意が必要ですな」
「ニキズキッチンって、椎名ニキさんのサークルですよね? や、やっぱり『Crazy:B』の皆さんもこの寮に住んでるんですね……」
サインの入った袋を食い入るように見つめ、青年は小さく身震いしていた。『Crazy:B』──五年前こそ業界から干され、言動の過激さから敬遠されていたが、それも過去の事。ここ数年で彼らは持ち前のスペックの高さや胆力でこの業界を駆け上がり、ESの中でもかなりの人気を確立されている。見た目は確かに誤解されやすいにしても、無闇に後輩に恐れられるような人たちではないのだけれど……
「心配なさらずとも、あの人達はああ見えてとても優しい方々ですよ。以前こそ破天荒グループとして悪名を轟かせておりましたが、実際接してみると非常に気のいい方ばかりで……」
「あっ、勘違いさせてたらすみません……! 別に怖いとかそういうんじゃなくて!」
私の言葉を遮り、青年が大きくかぶりを振る。そして、照れくさそうに頬を掻きながらこう言った。
「実は俺、『Crazy:B』のHiMERUさんに憧れてESに入ったんです」
「……そうなんですか」
未熟にも、そう返事をするまでに数秒の間を空けてしまった。
「はい! めちゃくちゃカッコいいですよね! 歌もダンスも上手いし、粒揃いのESの中でもトップクラスの演技力をもってて! しかも、それをなんでもないことみたいにクールにこなしてて!」
分かります、と同じ熱量で返したい感情を抑えながらも「そうですな」と微笑んだ。人気アイドルを多く擁するコズプロの中でも、『Crazy:B』は比較的男性ファンが多いユニットだ。とりわけ、HiMERUさんはドラマでも華々しく活躍している分メディア露出も多く、憧れる後輩も多いのだとか。昔から口癖のようだった、自他共に認める“完璧なアイドル”になったのだと、とても眩しく思う。
「だから、ですね……今からHiMERUさんをはじめ偉大な先輩方と一緒の寮で暮らすなんてって思うと、余計にめちゃくちゃ緊張しちゃって……」
「なるほど。しかし、幸か不幸か……HiMERUさんはつい半月程前に退寮されたんですよ」
「えっ!? で、でもESのアイドルは基本的に寮で生活するって説明されたんですけど……」
「基本的にはそうですな。ですが、あくまで強制的に、という訳ではないんですよ。他にも実家で暮らしてらっしゃる方もいらっしゃいますし、拠点を海外にしつつも寮部屋をホテル代わりに使ってるような方もいらっしゃいますね」
そうなんですか、と、青年はほっとしたような、残念そうにも見えるような、複雑な顔で溜息をついた。
「さて、そうこうしてる内にここが男子寮の最端です。ここからは女子寮となりますので、男子禁制となっています」
「なるほど……! うっかり迷いこまないよう気をつけます」
スマホに映された館内図に、赤い×マークが打ち込まれる。青年がスマホをポケットにしまったところで、パンと軽く手を叩いた。
「さて、これで案内すべきところは一通り回ったかと思います。何か他に聞きたいことなどありますかな?」
「いえ、大丈夫です! 本当にありがとうございました! お陰様でどうにか暮らしていけそうです」
「お役に立てたならばこれ以上の幸甚はありませんな」
お辞儀をする青年に微笑んだところで、彼のポケットからけたたましく着信音が響いた。懐かしい、『指先のアリアドネ』だ。HiMERUさんファンの間では神曲扱いされ、未だに根強い人気があるというのは本当らしい。
青年は「すみません!」と慌てて電話に出ると、二言三言話してスマホをタップした。
「ちょうど引っ越し業者が着いたみたいです」
「いいタイミングですな。それでは一緒に下りましょうか」
「えっ、悪いですよ……! 女子寮はすぐそこですし、風早さんは部屋に戻られてください」
どうぞ、と女子寮の方へ促され、どう説明したものかと頬を掻いた。
「いえ……実は、私もちょうど寮を出て引っ越したところなんです」
「そ、そうなんですか!? すみませんでした、俺、巽さんは寮に帰るついでに俺に付き合ってくれてるものだとばかり……!」
「いえいえ、私もつい昨日まで生活していた勝手知ったる場所ですし。新しい住処もそうここから離れていませんので、どうかお気になさらず」
頭を上げさせると、ちょうどよくエレベーターが上がってくる。これ幸いと、開いたエレベーターに青年を押し込みながら「さあ、行きましょう」と微笑んだ。
引越業者のトラックは門の前で停まっていた。それを遠目に、見事に整備された庭園を横切っていく。
「けど、こんな立派な寮を出るなんてさすが人気アイドルは違いますね。ESビルからもめちゃくちゃ近いうえに衣食住ここまでのレベルを格安で保障してくれますし、出る理由が見つからないっていうか」
そこで青年は口を押さえ、ばつが悪そうに私をちらりと見やった。
「あっ、いえ、別にどこに住むかなんて個人の自由なんですけど!」
「……どうしても、貫きたい想いを抱いてしまいまして」
「え?」
「いえ、なんでも。それでは、私はこれで失礼します」
「はい! お忙しい中、付き合わせてすみませんでした! 本当にありがとうございました!」
「これからのご活躍をお祈りしています。あなたに神の御加護があらんことを……Amen」
軽く手を振りながらそう言えば、青年は「聖女様の生Amen……!」と大袈裟に感激した様子で、何故だかお礼の言葉を叫びながらもう一度頭が地に着いてしまうのではないかという程に深々とお辞儀をしていた。
ESビルの前からバスに乗って、三つ目のバス停で降りる。住宅街の中をしばらく歩くと、周囲の建物から頭ひとつ抜けた高層マンションがそびえ立っていた。大理石調のタイルに、背の高く重厚な扉が印象的なエントランス。あらかじめ貰っていたカードキーをかざしてロックを解除する。オートロック付きで高層階──それが、“彼”が示した数ある条件のうちの一部だ。エレベーターの浮遊感を数十秒ほど感じれば、14の数字が電光盤に浮かび上がる。未だふわふわとする足を運ばせ、掃除が行き届いているのか築年数にしては綺麗な廊下を歩く。その間に鞄の中から真新しい鍵を取り、木目調の大きなハイドアを開ける。
「ただいま帰りました」
こんにちは、と言いそうになって、そう言い直した。ワックスのきいた廊下を歩いていると、ギュリギュリギュリ、とリビングから聞こえていた激しい物音が止まる。
「おかえりなさい、巽」
ダンボールの奥にいたHiMERUさんが、顔を上げた。ビスとドライバーを床に置き、ふぅと額の汗を拭っている。今はどうやら棚を組み立ててくれていたらしい。先日HiMERUさんが自分の棚と色を合わせて購入してくれた、私の新しい収納棚だ。
「遅かったですね。今日は打ち合わせと書類提出だけだったのでしょう? 何か問題でもありましたか?」
「いえ、打ち合わせは滞りなく終わったのですが。帰り途中、ちょうど困っていたらしい新人の方と会いまして、星奏館を案内していたんです」
HiMERUさんが「ああ……」とため息混じりの声をあげた。またお節介を焼いていたのか、という心の声が聞こえてくるようだ。
「確か、コズプロの新人さんだったと思うのですが。黒髪で、大学生くらいの……見た目でどうこう言うのはあまり良くありませんが、ワイルドな容姿からは少々意外なほど謙虚でいい子でしたよ」
「それはおそらく、今年新しく組まれたユニットのひとりですね。引き抜きで久々に良い素材を仕入れられたと、副所長が期待しているユニットです」
「なるほど、確かに精悍な顔立ちをされていましたな。人当たりもよく礼儀正しかったですし、さぞかし人気が出ることでしょう」
「……そうですね。うちの後輩を気にかけてくださってありがとうございます」
HiMERUさんは僅かに棘ばった声でそう言って、にこやかに張り付けたような笑みを浮かべた。そして、間髪入れずに工具を手に取り、作業へと戻ってしまった。
おや……少々不機嫌ですな。
HiMERUさんはいつも、何故だか怒気を隠そうとする。なので、五年余りの間にこうやって彼の機微を学んでいったのだ。
人に引っ越し準備をさせておいて何油を売っているんだ、とお怒りなのだろうか。確かに作業も業者の対応も任せきりになってしまったことは申し訳なく思うけれど、だからといって青年を見捨てる事など出来なかったのだから仕方がない。
「そういえばその方、HiMERUさんに憧れてアイドルになったそうですよ」
工具の音に負けないよう、少し声を張りながら言った。すると、ビスどめの音がピタリと止む。
「ほう……それはなかなかに見込みがある人物のようですね」
微かに弾んだ声が返ってきた。今度あらためて挨拶でもしておきましょうか、と、含みのある笑みさえ浮かべている。
機嫌が幾分戻ったようで安心しつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。ドアポケットに並んでいるコーラ缶も一本取って「一息つきませんか?」とHiMERUさんに差し出す。アクアグレイの髪を束ねているため、露わになった首筋に汗が伝っている。
「ええ、いただきます」
指がじんとする程に冷たい缶のプルタブを開け、HiMERUさんがコーラを呷る。喉を鳴らして美味しそうに飲む姿は見ていて気持ちがいい。あんなに甘味料の多い炭酸飲料を好むなんて、周囲には“意外だ”、“らしくない”と評されることも多いけれど。好きな人が好きなものを愛おしむことこそが全てだと、私は思う。
「そういえば、私の荷物は届いてますか?」
「はい、午前中のうちに。一旦寝室に移動させてもらったので、確認してください」
分かりましたと頷いて、食器棚を開けた。今朝叱られたばかりなので「どれを使ったらいいですか?」などと訊かない。棚の中で整列している見慣れない食器は、どれもピカピカで洗練されたデザインだ。しばし指をさまよわせ、ステンレス製の青いタンブラーを取った。ミネラルウォーターを注いでこくりと飲めば、まるで氷水のようにキリリと冷たい。
「いい風が入ってきますね」
胸に染み込むような声が聞こえ、私もレースカーテンが靡く大窓を見つめた。オフホワイトから透ける澄晴は冴えざえと青く、吸い込まれてしまいそうな程に綺麗だ。
「本当、気持ちのいい青空です。引っ越し日和ですな」
「業者の人たちは暑そうでしたけどね。まぁ、巽の荷物はどれもコンパクトかつ少量だったので、エレベーターを使えただけマシでしょうけど」
肩をすくめるHiMERUさんに苦笑した。私の荷物がHiMERUさんの時の半分ほどだったので驚いたのだろう。仕事の合間を縫って手伝いに行った時の、箱の山。そして、どう見てもエレベーターに入らない大型家電を前に、焦点を失くした業者のお兄さんの顔を思い出す。
HiMERUさんは、一ヶ月程前から一足先にこのマンションに引っ越していた。同時に引っ越しをすると怪しまれるだろうという、HiMERUさんからの提案だ。
「立地もいいですし、とても好いマンションですが……正直意外でした」
「何がです?」
「立地が良すぎるといいますか……ESからあまりに近いので」
ESビル周辺の中でも最も直近にあたる、閑静な住宅街。この辺り一帯の住宅地は、開拓当初に天祥院財閥が買い占めている筈だ。ということは、英智さんには私たちの住まい事情……つまり、同棲している事を既に知られているのだろう。まぁ、彼なら余程目立つことをしない限りお目こぼしをしてくれそうではあるけれど。
そもそも、仲睦まじい恋人同士が共に住むと決めただけのこと。別に犯罪をおかしている訳でもなければ、誰に迷惑をかけている訳でもないのだ。勿論世間に知られたらそれなりの騒ぎにはなるだろうから、節度は守るべきだと思う。ただ、周囲にまで関係をひた隠すつもりはなかった。実際、互いのユニットの仲間たちにはもう一緒に暮らすことを伝えてある。だからこそ問題なのだが。
「確かに、天城たちにここがバレたら厄介でしょうね。シナモンで打ち合わせと称して麻雀などで遊べた新人時代と違い、今は事務所等で集っていますから。天城を筆頭に、息がつまると皆不満を漏らしているのですよ」
「はい。だからこそ、そういう面倒なリスクを避けるだろうと思っていました」
忙しくされているので、数年前のカフェシナモンのように溜まり場にするような時間はないだろうけれど。あの『Crazy:B』の皆さんのことだ。打ち上げ、忘年会、誕生会等々折あらば、この家に押しかけてきてはHiMERUさんの眉間に皺を作ってしまうのではないかと推察したのだ。
「確かにあれらは神出鬼没ですし、諸々の危険性は否定出来ませんが……日々を考えればやむを得ない選択だったかと」
「と、言いますと?」
「世はタイムイズマネーですから。寮からの生活に慣れていた我々にとって、通勤時間は結構なストレスになる危険性があります」
確かに、と相槌を打つ。今朝も打ち合わせに出る際、どれだけかかるか分からないからとかなり早めに出てはみたけれど。マンションの前のバス停についてからものの数分でバスが来て、10分足らずでESビルに着いてしまった。時刻表によると、一日に何便もバスが通っているらしい。おまけに、私が通っている病院からも一駅の距離だ。
「それに、事務所から遠ざかれば遠ざかるほど、記者等のよからぬ輩に尾けられる危険も増しますから。ESの管理が行き届いている近場に構えていた方が最善だと、様々な視点から熟慮を重ねて判断したのですよ」
「さすがですな」
HiMERUさんの御高説に小さく拍手をする。HiMERUさんは照れ隠しをするように、咳払いをひとつ落として工具を手に取った。どうやらもう作業を再開するらしい。私も残りの水を一気に飲み干す。タンブラーの水は、最後の一滴まで冷たく喉を滑っていった。
「さて、私は寝室の荷物を片付けてきます」
「はい、お願いします」
ギュリギュリ、という作業音を背に寝室へと向かう。キッチンに隣接する部屋が寝室だ。HiMERUさんが引っ越しをされた時に一度見て、それ以来入っていない。
失礼しますと言いかけたのを飲み込んで、ガチャリと焦げ茶色のドアを開けた。開いた瞬間、部屋のほとんどを陣取っている大きなダブルベッドに目がいった。二人で休みを合わせ、ちゃんと寝心地を確認して買ったものだ。ベッドの上で薄手の掛け布団が雑然と丸まっており、HiMERUさんの気配が生々しく留まっている。
だから、なのだろうか。この部屋の空気に包まれた途端、抱きすくめられたかのような心地がして胸が震えた。これは……HiMERUさんの匂いだ。彼が纏う香水もとても素敵だとは思うけれど、そういう匂いとも違う。このまま溺れてしまえそうな程にあまくて、意識さえ奪われそ──
「どうしたのですか?」
「えっ……あ」
立ち尽くす私の後ろから、HiMERUさんが声をかけてくる。片付けする気配を一向に感じないから不審に思ったのだろう。いたたまれなさに肌を刺されながらも、えっと、と眼を泳がせて言い訳を探し、
「その……HiMERUさんの匂いがして……」
結局、素直に唇からこぼしてしまった。
「それはどういう……まさか、臭いますか?」
「いえ、そういうわけではなく」
臭いだなんてとんでもない。思えば、この家に入ってからずっとそうだった。香水に紛れていた、遅効性の劇薬のようだ。一歩あとずさって、HiMERUさんの肩口に顔をうずめる。
「っ……! たつ」
「好きですよ」
真上から、息を呑む音が聞こえた。
「HiMERUさんの匂い、好きです。身体に染み渡っていくように優しくて、いい匂いがします」
「……よくそんな恥ずかしいことを平然と言えますね」
熱いため息に額をくすぐられながら、HiMERUさんのシャツに頬ずりをする。安心感と恍惚感で包まれるような、おそろしくなる程の心地良さ。
きっとこの部屋と同様、そう経たないうちに、私もHiMERUさんで満たされていくのだろう。
結局、寝室の片付けが終わったのは夜も更けてからだった。晩ご飯はデリバリーで軽いものを頼んで済ませ、どうにか寝る前にダンボール箱を四つ空けたのだ。
「HiMERUさん、お風呂あがりましたのでどうぞ」
「あぁ、ありがとうございます」
リビングで台本を読んでいたHiMERUさんに声をかける。疲れたでしょう、と一番風呂を譲ってくれたのだ。さっきシャワーを浴びたから後でもいい、と。HiMERUさんこそ、私の引っ越しに付き合ってくれて疲れているだろうに。
タンブラーに水を注いで、テーブルに向かう。HiMERUさんが座っていた椅子の向かいの席に。別に取り決めをした訳ではないけれど、なんとなく暗黙の了解で席が決まってしまった。HiMERUさんがキッチン側で、私が壁側だ。
テーブルに置いておいたスマホを取り、ホールハンズを開いた。スケジュール画面には、今月の予定がびっしりと並んでいる。明日の仕事は夕方からだ。引っ越し作業があるから、あえて日中は空けておいた。もしHiMERUさんの予定が合えば、午前中にでも足りない生活雑貨の買い出しに行くのもいいかもしれない。
スマホの画面を真っ暗に落としたところで、ザア、と水音が聞こえてきた。HiMERUさんがシャワーを浴びている音、だ。もう何度聞いたかも分からないのに、何度聞いてもいたたまれない。ひとりで気まずくなってしまって、寝室へ逃げ込むように移った。
明日の着替えの準備。ダンボールの片付け。台本読みやインタビュー内容の確認。もう一度ホールハンズのチェック。思いつくことを全てやって、それでもやることがなくなってしまった。
ちらり、と、ダブルベッドを横見る。先に寝ておけばいいのは分かっているし、きっとそうするべきなのだろう。身体が資本の私たちにとって睡眠がどれだけ大事か、プロ意識の高いHiMERUさんなら滔々と諭してくれそうだ。分かってはいるのだけれど、まだこれが自分の寝るベッドだという感覚がなくて、どうにも踏ん切りがつかない。
なんというか、未だに夢を見ているみたいで落ち着かないのだ。ふわふわと浮き立つような感覚の中で、どうにもならない焦燥感が身体の底に巣食っている。このまま寝て起きたら、全てがなくなってしまいそうで。
ふぅ、とため息をパジャマに零す。そんな仕様もない私の思考を、HiMERUさんの足音が散らした。どうやら、もうお風呂を出てしまわれたらしい。途端に現実感が襲ってくる。また寝室の真ん中で立ちすくんでいるのかと呆れられそうで、ベッドの縁に座った。
「おや、まだ起きていたのですか」
ドアが開いて、セットアップの黒いスウェットを着たHiMERUさんが入ってくる。はい、と、微笑んで返した。
「今日は疲れたでしょうし、早く寝た方がいいですよ。明日の仕事に障りますから」
予想通りの反応が返ってきて、ふっと笑みがこぼれる。そんな私を不審そうに見ながらも、HiMERUさんはミネラルウォーターをぐいっと呷った。
「それとも、何か今日中に済まさなきゃいけないことでも?」
「いえ、そういう訳では」
苦笑で誤魔化し、箱から出しておいた自分の枕を抱える。
「ちなみに、HiMERUさんは奥と手前、どちら側がよろしいですかな?」
「今日まではどちらかというと手前側で寝ていたので、巽が構わなければ手前側で」
分かりました、と枕を奥の壁際へ置いた。覚悟を決めてベッドに入り込む。掛け布団を身体に纏わせたところで、ベッドがぎしりと軋んだ。HiMERUさんも、掛け布団を捲って入ってくる。そして、私に背中を見せるかたちでごろりと寝転がった。数センチの、直接触れないもどかしい距離。すぐ真横にHiMERUさんの頭があって。HiMERUさんの匂いにシャンプーの香りが混ざり合い、意識を揺さぶってくる。
HiMERUさんが「電気、消しますよ」と言ってリモコンを操作した。薄闇に視界が閉ざされると、よりHiMERUさんの気配を感じてたまらなくなってしまう。
「なにやら緊張しますな」
「……一緒に寝るのは初めてでもないでしょう?」
口をついて出た私の言葉に、HiMERUさんは溜息まじりに言った。自分自身に言い聞かせるような響きだと思った。
「今日はもう何もしませんよ。明日も朝から引っ越し作業で忙しいですし、お互い仕事もありますしね」
「……はい」
思わず、叱られた子どものような声が出てしまう。恥ずかしさに顔を半分掛け布団にうずめ、息をひそめた。静寂が、うるさい。時計の秒針が動く音と、互いの息遣い、ブランケットの衣擦れの音。
「あの……」
自覚するより先に、手が勝手に動いていた。掛け布団の中でスウェットをくい、と引っ張った途端、HiMERUさんがぴくりと身体を震わせる。
「……何ですか?」
「その……せめて、背中にくっついてもいいですか?」
「背中に?」
「はい」
だんだんと夜目がきいてきて、うっすらとHiMERUさんの顰め面が見えた。困らせてしまっただろうか、と手を離しかけたその時、渋々といった様子の「構いませんよ」が聞こえてくる。
まさか許されるとは思わず、恥ずかしくなるほどに弾んだ声で「ありがとうございます」と返した。すす、と身体を寄せて、HiMERUさんの背中にぴとりとくっつく。身体がとろけそうなくらいに安らぐのに、聞こえてしまうんじゃないかというくらいに心臓が高鳴っている。身体から伝わるHiMERUさんの鼓動も、心持ち跳ねているように感じた。
「……もう付き合って半年にもなるのに知りませんでした。巽は随分甘え上手なのですね」
「だって、HiMERUさんがこんなに近くにいるのに、なんだか勿体ないような気がして……」
勿体ない、とは。口に出してから、それが何を要求しているかを自覚し、顔が熱くなる。私は何を言ってるんだろうか。
「いえ……ありがとうございました。我儘を言ってすみません」
そう言って、HiMERUさんからぱっと身体を離す。これ以上はきっと迷惑だろう。壁の方へ寝返りをうち、HiMERUさんと背中合わせになる。
「それではおやすみな……ッ」
突然、後ろから腕が伸びてきた。抱き寄せられたかと思えば、唇を塞がれてしまう。
「ひ、めるさ……っ、あ」
名前すら呼ばせないとでも言うように、激しく舌を絡め取られる。呼吸すらままならないような、荒々しいキス。肺が悲鳴をあげ始めた頃にやっとHiMERUさんの唇が離れ、舌打ちが聞こえた。
「……たちが悪すぎる」
「え?」
何か呟いたかと思えば、HiMERUさんが私の上に伸しかかってくる。え、あの、と痺れた舌が言葉にならない声を発する。そんな私の顎を掬いながら、熱のはらんだ瞳が降ってきて。
「煽ったのは巽ですからね」