50平米の箱庭 【Day.2】 瞼を開くと、清らかさ当社比200%を超えた聖女様の寝顔が吐息が当たるほど間近にあった。痺れた腕の中に、風早巽がいる。眩い朝日が降り注ぎ、透き通るような肌は白く輝いて。すうすう、と穏やかな寝息が擽ってくる。密着した身体はどこもかしこも蠱惑的に柔らかい。
頭を抱えた手で視界を覆い、胸の奥底から吐き出すように深く、それでいて音が極力立たないよう小さく細く嘆息する。
寝室は遮光カーテンにしない主義だ。朝日を取り込むことで、起床時の体内リズムを崩さないようにしている。巽はその点にこだわりがなかったのでこちらに合わせてもらったのだが……こんな恩恵と弊害があるとは。
「ん……」
間近から微かな声が聞こえた。起こしてしまったのだろうか。顔から手をどけてそろりと窺うと、ただでさえ近かったお綺麗な顔が、俺の頬に擦り寄ってくる。
他人と同じベッドで寝ることがこれ程までにおそろしいものなのだと、俺はこの女とこうなってから初めて知った。
露わになった肩にそっと手を添え、息を詰めながらおそるおそる離れていく。滑らかな肌の感触に意識をやったら負けだ。やっと離せたかと思えば、今度は巽の頭がころんと俺の胸元へと転がってきた。盛大な舌打ちを落としかけたところで、俺の鎖骨に埋まった頭がもぞりと小さく動いた。
「……巽、起きてますね?」
「ふふ、すみません」
ぱちり、と、眼前でアメジストの輝きを放つ瞳が開き、細められる。そのしたり顔から逃げるように身体を起こした。
「いつから起きていたのですか?」
「確か、30分程前に一度目が覚めたのですが。すぐ真横でHiMERUさんが寝ていて……なんだか起きるのが勿体なくて」
「これから毎日こうですよ」
「そう、なんですよね……」
巽はうっすら頬を薔薇色に染め、はにかむように微笑んだ。再度こぼれそうになる舌打ちをぐっと堪える。朝っぱらからそんな顔をしないでほしい。
「……起きます。今日も朝から忙しいですから」
自分を言いくるめるような言葉を吐いて、ベッドから起き出た。「そうですな」と巽も這い出ようとするのを、眼で制する。
「巽はまだゆっくりしていてください。足腰が立たないのでしょう?」
バレてましたか、と、巽が頬を掻く。目の毒過ぎる下着姿へ掛け布団をしっかりと掛け、無理やり寝かしつける。
「朝食はHiMERUが用意しましょう。巽のように凝った料理は作れませんから、あまり期待しないでください」
そう言って、駄々っ子を窘めるようにブランケットの上からポンポンと叩いた。巽は顔を半分布団に埋めながら「すみません」と申し訳なさそうに眉尻を下げた。
何が“すみません”だと言うのか。半分は自制の効かなかった俺のせいだというのに。「いえ」と一言放ち、己の口の端に笑みが保たれてる間に部屋を出る。何もかも抱え込みたがるこいつの悪癖は、何年経っても直りそうもない。
幼くして母が死に、年端もいかないうちに国を出て海外で暮らした。一通りの家事は自分でせざるをえなかったので、出来はともかくとして大概の事はこなせる。だから、ここ数年の間は意図的にキッチンに立たないようにしていた。“HiMERU”は、そう料理が得意でもないようだったから。
そうはいっても、栄養の偏った食事を摂るのは“HiMERU”として正しくない。美しく健康的な身体を作るのは、ビタミン、ミネラル、タンパク質、その他食物から摂取できる栄養素だ。特に朝食は、一日の基礎と言われるほどに重要。凝ったものを作る気はないが、身体が資本のアイドルである以上、きちんとした食事は必要だ。
真新しいエプロンを着て、冷蔵庫を開く。ベビーリーフ、サニーレタス、ミニトマト。迷いなく材料を手にし、シンクへと移す。もう作るものは決まっている。昨日、巽が仕事で出ているうちに材料を買っておいたのだ。
洗った野菜をざっくばらんに千切り、ザルで水分をきっておく。話題のブーランジェリーで買ったフォカッチャをトースターへ入れる。そして、食器棚からプレートを二つ取った。ラバーウッドの軽いものだ。その上にカマンベールチーズをひと欠片、コンビニで買ったサラダチキンを割いて、野菜サラダと共にプレートの端に盛る。既製品のドレッシングは油分と糖分が過剰に入っているため、かけるのは僅かに振った岩塩のみ。これで、ほとんど調理といえる作業は完了だ。
「美味しそうですな」
パンの焼ける香ばしい匂いにつられたのだろうか。巽が髪を束ね、よたよたと歩いてくる。
「もう少しで準備出来ますから待っていてください」
「私に何かお手伝い出来ることは……」
そんな世迷言が聞こえたので、エプロンを取ろうとする巽をジロリと睨んだ。
「ゆっくりしてろと言った筈ですが?」
「すみません。どうにもじっとしていられない性分でして」
「……それでは、お茶をお願い出来ますか?」
有無を言わせない笑顔に根負けする。巽は嬉しそうに「はい」とティーポットをカウンターから取った。昨日開けたダンボール箱から出していた、陶器製の丸みのあるものだ。これで淹れるとまろやかな味になるのだと、昨日もハーブティーを淹れてくれた。
紅茶の芳しい香りの立ち込める中、朝食の仕上げに入る。ブザー音と共にこんがりと焼けたフォカッチャをトースターから取り出し、プレートの上に乗せる。その傍らに、蜂蜜漬けのミックスナッツを添えて完成だ。
ほとんど調理らしい工程もなく、ただウッドプレートに並べただけ。ただ、見た目と栄養バランスは抜群だ。HiMERUの矜持を傷つけない完璧な朝食だと思う。
「すごい、綺麗ですね。お店みたいです」
プレートをテーブルに運んでいると、巽が感嘆の声をあげた。
「料理上手な巽が言うと嫌味にしか聞こえませんね。火どころか包丁すら使っていませんが」
「いえいえ、こういうのはセンスですから。私が盛り付けるとこうはなりません」
そうですか、と席につく。二人がけのダイニングテーブルは白く塗装されたパイン材で、一目惚れしたものだ。巽が『白いと汚れが目立つのでは?』だとか庶民臭い難癖をつけてきたが、なんとか言いくるめて購入した。
「それではいただきましょうか」
巽がカップに紅茶を注ぎ終わったのを見計らい、手を合わせる。いただきます、と言ってからフォカッチャを一片口に入れる。滋味深い味わいで、相変わらず旨い。眼前でいつまでも無駄に祈りを捧げてるのがいてどうにも食べづらいが、待ってやる道理はない。それに、以前「お気になさらず。せっかくの美味しい食事が冷めては勿体ないですからな」とかほざかれたので、お望み通り気にしてやらないと決めている。
蜂蜜まみれのナッツをフォカッチャに乗せて食べ、口をさっぱりさせる為にティーカップを取った。揺れる水面は薄赤いオレンジ色をしていて、湯気からはフルーティーな香りが漂っている。ひとくち啜って、あまりの芳しさに目が見開いた。
「ふふ、気に入りましたかな?」
いつからか、俺の顔を満足そうに眺めていた巽に問いかけられる。変なところで目ざとい奴だ。素直に認めるのは癪だが、誤魔化せるような状況でもない。微笑みを浮かべ、「ええ。爽やかな味で美味しいですね」と、褒めてやった。
「“紅茶のシャンパン”ともいわれているダージリンにしてみました。先日、英智さんが良い茶葉を分けてくれたんです」
「ダージリン、ですか。マスカットのような香りがしたのでフレーバーティーかと思ったのですが」
「そうなんです。セカンドフラッシュ、いわゆる夏摘みのダージリンは、マスカットに似た香りと味わいがするんですよ。マステカルフレーバーというそうです」
英智さんの受け売りですが、と、巽は何がそんなに楽しいのか妙に声を弾ませながら薀蓄を語った。適当な相槌を返しながら、サラダとも呼べない葉っぱの山にフォークを刺す。レタスは瑞々しいが、味付けが塩だけなのでどうにも青臭い。本当はオリーブオイルやビネガーくらいかけたかったところだけれど、あんまりこなれ感を出す訳にもいかない。
「そういえばHiMERUさん、今日の仕事は午後からでしたよね?」
唐突に尋ねられ、はい、と答えた。今日はCM撮影の仕事が入っている。専属契約をしている化粧品ブランドから新作のルージュが出るらしい。
「それでは、もしHiMERUさんがよければなのですが、午前中のうちに買い物に行きませんか? 先日、セゾンアヴェニューに新しくオシャレな雑貨屋が出来たそうなんです」
わざわざフォークを置いて、巽がそう尋ねてくる。期待に満ちた顔に見つめられながら、ゴクンと青臭い葉を飲み込んだ。そして、瞬時に申し訳なさそうな表情をつくりあげる。
「すみませんがまたの機会にしませんか? 今日は仕事の前に別件で用事もあるので……」
巽は「おや、そうなんですな」と言って、残念そうに眉尻を下げた。
「自分の引越しの際に休みを取ったうえ、昨日も一日オフにしていますからね。すみませんが、なかなか時間が取れそうにありません」
なんだか言い訳じみた言葉を重ねてしまう。余程行きたかったのか、巽があまりにしょげた顔をするからだ。
大体、不用心にも程がある。人気のショッピングモールに新しく出来た雑貨屋? 一体どれだけの人が集まると思っているのだろうか。しかも、今日は土曜日。世間様は休日だ。下手な騒ぎになるようなリスクを理解出来ないほど愚かではない筈だが。
どこか渋みが増したような気がする紅茶をぐいっと呷っていると、突然バイブ音が聞こえてくる。テーブルの上に置いてある巽のスマホからだった。
「もしもし……あぁ。おはようございます、ジュンさん」
通話相手は漣らしい。巽が“革命児”だった時代から慕われており、仕事プライベート問わず仲良くしているようだ。ここ最近、『Eve』の冠番組に準レギュラー出演が決まったらしく、密に連絡を取り合っている。今もその打ち合わせについて話しており、日程を確認した巽がメモを取った。
「あ、そういえば。もしそちらのご都合がよろしければ、今日お出かけしませんか? この間言ってた新しい店の……そうです、ジュンさんも気になっていましたよね?」
「……は?」
思わず、声が出た。
「それならよかったです。では、待ち合わせの時間ですが……っ!?」
突然、巽の楽しそうな声が止まった。電話を持っていたその腕を、俺が掴んでしまったからだ。
「HiMERUさん……?」
「漣と出かけるのですか?」
思わぬ低い声が出て、自分でも驚いた。咄嗟に口を押さえたものの、巽は気にも留めていないようで、
「はい。先日お誘いを受けていたのですが、お断りしてしまったので。今日はその埋め合わせに、とお誘いしました」
などと、臆面もなく言いのけた。
この女……何を考えてるんだ?
どんな神経をしていたら、恋人と同棲を始めて二日で他の男と出かけたりできるのだろうか。それとも、当てつけのつもりか? 私を放っておけば他所の男のところに行ってしまうわよ、という、そんなくだらない駆け引きをしているのだろうか。いや、この女はそんな浅ましい知略を巡らせるタイプではない。馬鹿馬鹿しい程に愚直で、真っ直ぐで、お人好しで、だが意外にしたたかな側面もあって、いや、それでも、しかし、
「…………明後日の夕方はいかがですか?」
考えるのが面倒になり、俺は嘆息ひとつ落としてそう尋ねた。「え?」と声を放ち、ロイヤルパープルの瞳がきょとんと丸くなる。
「明後日であれば、それくらいに仕事が終わりそうなので。巽も、確か午後からオフですよね?」
「でも、お忙しいんじゃ……」
「多忙の合間を縫ってあなたに付き合ってやると言っているのです。野暮なことを訊かないでください」
ぷいっと顔を背ければ、巽がくすりと声をたてて笑う。
「……ふふ、嬉しいです。是非ご一緒させてください」
『あの〜、もしも〜し? イチャつくんなら電話切ってからにしてくんないっすかねぇ?』
スピーカーから声がして、そういえば通話中のままだったことに気付く。慌てて巽から手を離し、電話に出させた。
「あぁ、すみませんジュンさん……ええ、私から誘っておいて申し訳ありませんが、お二人とはまたの機会に。日和さんにもよろしくお伝えください」
そう言って電話を終え、何食わぬ顔で食事に戻る巽をぽかんと見つめた。
「……二人?」
「はい。この間、お二人にウィンドウショッピングに誘われたんです。日和さんが私との買い物を望まれてると、ジュンさんに電話をもらいまして……ですが、あいにくその日は仕事が入っていて、お断りしてしまったんです」
“日和さん”とは、漣のユニットの相棒兼彼女だ。漣が懐いている巽を、彼女も甚く気に入っているらしく。オフが重なっては、やれお茶会だショッピングだと連れ回しているようだ。
「なので今回、この間のお詫びにもなるかと思い、お誘いしようかと。セゾンアヴェニューには日和さんといつも行く紅茶専門店もありますし、きっと喜ばれるだろうと思いまして」
それなら最初からそう言えよクソ聖女が!
頭の中で咆哮するけれど、勿論口に出せる筈もなく。能天気にフォカッチャを頬張る間抜け面から目を反らし、残りの朝食を腹に詰め込んだ。
まぁ、いい。本当に隠したかった底企みは暴かれずに済んだのだから。無駄な詮索をしないところが、俺が好ましく思うこの女の一番の美徳だ。
『私の引越しの手伝いに仕事にと忙しい筈なのに、別件の用事って一体何なんですか?』
そう訊かずにいてくれる女で、本当によかった。
くたびれた自動ドアをくぐって、受付へと向かう。白いタイルに革靴の音をコツコツと規則的に響かせながら、変装用のマスクを取った。俺の顔をひと目見て、受付の看護師が「ああ、どうぞ」と促してくれる。会釈を返して、もう目を瞑ってでも行ける程に慣れた廊下を歩く。
隔離病棟の、最上階。“十条”と書かれた角部屋の前で立ち止まり、一呼吸する。軽くノックをすれば、中から「どうぞ」と女性の声がした。
「こんにちは」
病室の中に入り、アルカイックスマイルを繕う。担当の看護師が、ベッドの前でカルテに何かを書き込んでいた。
「あ、こんにちは! 要さん、お兄さんが来てくれましたよ〜」
寝ている要に、看護師が笑顔で語りかける。
病院には、俺は要の双子の兄だと伝えている。ここまで容姿が同じなのだから、そう説明するのが自然だ。何より、警備が厳重な隔離病棟の中、顔パスで済むのが楽でいい。
「要の様子はどうですか?」
「今日は調子良さそうですよ。出された朝食をほとんど召し上がってました。やっと今日流動食から固形食に変わったので、食事が美味しいと感動していましたよ」
そうですか、と、要のベッドに歩み寄る。確かに、今日は一段と顔色がいい。
「リハビリの状況は?」
「車椅子での外気浴の回数を増やしました。近いうちに座位での運動も増やしていく予定ですが、両脚の関節拘縮が酷いので、長い目で見ることが必要でしょうね」
まだそんなところか。焦れるけれど、一番尊重すべきは要の心身の健康なのだから仕方ない。
アクアグレイの跳ねた前髪をつう、と掬う。糸くずのようにコシも張りもなかった頃とは違い、随分と身体の端々に生気が戻っているのが分かる。
「今さっき寝入ったところなんですけど、起こします?」
「いえ、大丈夫です。消化にも体力を使いますし、寝かせてあげてください」
元より、今日は仕事前に少し顔を出すだけの心算だった。長く話せるならともかく、たった数分の為にわざわざ起こす必要はない。
「それより……」
前置きして、看護師に目配せする。察した看護師は小さく頷き、病室を出る俺に着いてくる。
「……要にテレビは見せていませんね?」
声を潜めて言えば、にんまりと笑った看護師が深く頷いた。
「勿論です。言われた通り要さんの目に触れるような場所からは完全撤去してますし、まだ他所に出歩ける程筋力も回復出来てませんから、雑誌もネットも見る機会すらありませんよ」
ありがとうございますと言って、いつも通り金を握らせた。要をこの病室に入れた時と同じように。
「引き続き、よろしくお願いしますね。また来ます」
そう言って、早々と醜悪な笑顔に背を向けて病院を立ち去る。自身も同じ顔をしているのだと、自覚する前に。
要の意識が戻ったのは、二ヶ月前のことだった。
長年廃人状態だった要に、医師も匙を投げかけていた。金なら積んであるから病床を追い出される心配はなかったが、それだけだ。医者も、看護師も、まるで壊れた人形でも相手にしているかのように要に接していた。
「うぅう……あぁ……ああぁあ!」
その日も、要は変わらず苦痛の牢獄の中で呻いていた。しばらく頭を抱えて喚き散らせば、事切れるように倒れて眠ってしまう。それを数十回、数百回と繰り返しているのを見てきた。看護師たちに羽交い締めにされては薬で眠らされ、ベッドに磔にされる要を、もう何も感じなくなってしまう程、幾度となく、見てきた。
「……あ、れ」
そんな絶望の日々の中、唐突にそれはやってきた。
「お、にい……ちゃん?」
「要……!?」
うっすら開いた琥珀色の瞳が、俺を映していた。かさついた指が震えながら俺に伸ばされる。
「おにいちゃん、ですよね……?」
「そうだ! 俺だ、要……要……!」
実際に会ったことすら数回、電話でのやりとりをしていたのもたった数カ月のことだ。要が入院してからというもの、ずっと壊れたスピーカーのように耳障りな呻き声しか聞いていなかったから。この声さえ、記憶にしがみつくように反芻していなければ忘れてしまいそうだった。6年間、ずっとずっと、そうやって生きていた。けれど、これが唯一無二の存在だと、その時鮮烈に思い知った。
「ぼく、ぼくは……」
「無理に喋るな! すぐに先生を呼ぶから」
「おにい、ちゃん……ぼく、は……ぁああ、あ」
要は、そこで再び気を失った。カチカチカチカチと、俺がナースコールを連打する音だけが室内に響く。
刹那の間だった。それでも、確かに要は正気を取り戻し、俺を呼んだ。
後から来た医者の診察によると、ようやく要の自我が戻ってきた、とのことだった。脳波も安定しており、これから起きる回数も増えていくだろう、と。筋肉が衰えきっているため、動けるようになるにはかなりの時間が必要だが、今後リハビリを進めていけばいずれ元の生活に戻れると説明された。歌もダンスも、アイドル活動を諦めなくてもいい、と。
医者が病室を出て二人きりになった途端、眠る要を見ながら涙が溢れた。
ようやくだ、と、俺は泣いた。
革張りのソファーに腰掛け、ふぅと一息つく。セットの用意が出来るまでの、しばしの休息。クライアントが大手化粧品メーカーだからか、豪華な控室だ。広々としていて、姿見まであるのがいい。ケータリングの缶コーヒーを開けて一口だけ啜り、スマホを見やる。スタイリストが来るまで、あと三十分はあるか。
衣装に着替える前に、クラッチバッグから香水を取り出した。いつも“HiMERU”が使っているのよりも強めの、グリーン系のオードトワレ。足元から上に向けて軽く吹きかける。トップノートのマンダリンリーフが爽やかに香った。
隔離病棟は、得も言えない独特な匂いがするのだ。消毒用アルコールの硬質な匂いと、寝たきりの患者たちが発する体臭。そのカモフラージュとして、いつもより僅かに強い香りの香水をつけている。
頻繁に演技の仕事が入るようになってから、役ごとに纏う香りを変えるようにしている。“HiMERU”になる前から使っていたテクニックだ。人が意識している以上に、匂いは記憶と結びついている。存在を隠す為にも、逆に意識づける為にも、嗅覚を意識することが重要なのだ。
『HiMERUさんの匂いがします』
だから、昨日巽にそう言われて背筋に氷水を垂らされたような心地がした。
女性は男性よりも嗅覚に優れ、匂いに敏感なのだと生物学上の知識として理解はしていた。女性は、なるべく自分と異なる遺伝子配列を持つ相手と交配することで、より強い生命力を持った子孫を残そうとする傾向がある。その遺伝子を見分ける方法が“匂い”だという。
人の匂いというのは、生活環境や身体状況によって異なり、個体差のあるものだ。だから、気をつけていた。香水を纏い、身体を清潔にし、体臭を極力嗅ぎ分けられよう尽力していた。
いつから俺は、“俺”を消すことを怠っていたのだろうか。
俺が“HiMERU”になって、もう五年以上もの年月が経った。かつての自分を捨ててからというもの、こんなにも同じ人物でいることは初めてだ。だから……というのは、さすがに言い訳がましいだろうか。
何にせよ、遺伝子が男女の相性を証明してくれるのならありがたい。俺と遺伝子の相性が良いのであれば、きっと──
『ほら、とろけるように甘いでしょう? 今宵……甘美な夢を貴女に』
瀟洒な洋館の一室を模した、黒が基調の空間。大窓に腰掛けた美しい少女に血のような紅いルージュを塗り、吸血鬼さながらの妖艶さで笑う──そういうシーンだ。
「はい、カット! チェック入りま〜す!」
カチンコが鳴らされ、現場の空気が緩む。セットから下りて、共演する新人女優とひとつふたつ世間話をこなしながらモニターの前へと移動する。演じている時から分かってはいたが、まずまずの出来だ。おそらくOKが出るだろう。
吸血鬼に扮している、透き通る程に青白い肌。こうやって、酷い顔色のこの顔を見ると嫌でも思い出す。乾涸びかけ、死体のように眠っていた要を。
要は6年もの間、あの病院でずっと眠り続けていた。ただ昏睡状態だった訳ではない。稀に起きたかと思えば、壊れたまま支離滅裂に叫びだす。喉の奥から血ヘドでも吐くように叫び、ボロボロの爪が欠けるほど強く頭を掻きむしった。脳幹にへばりついた悪夢を引き剥がそうとするかのように。
要だけがずっと、あの凄惨な現場に囚われたままだった。一緒に壊れてしまえればと、何度願ったか分からない。
──要。
「あぁああああ……!」
あんなに凛と通っていた声は、まるで獣の鳴き声のように濁り、掠れていて。
──要、落ち着きなさい。
「こわいぃ……いたいっ、だずげでぇえええ……!!」
“完璧なアイドル”を目指し、どれだけ過酷なレッスンを受けても夢の為に泣き言を漏らさなかった要が。真実を偽ってまで、俺との電話で気丈に強がっていたあの要が、この世の全てに怯えていて。
──要、もう怖いことなどないからこっちを向いて
「ぼくのせいじゃない! ぼくの、せいじゃ……ぼくは、かぜはやせんぱいに、かんぺきな、アイドルに……あぁああああぁあああああああああああ」
心臓が張り裂けそうだった。見ているだけで辛くて、辛くて、辛すぎて、それでも俺には要しかいなくて。
あの頃──父親も自らの顔や名前まで捨てて、虚無の人生を生きていた頃と同じように、要も捨てられたらよかったのに。耳も目も塞いで、俺の人生になかった事のように出来たらよかったのに。
出来なかった。出来る訳がなかった。テレビ、雑誌、ラジオ、SNS、ライブ。たった一年の間で、どのメディアからも“HiMERU”が消えたというのに、世の中は何も変わらなくて。まるで最初からアイドル“HiMERU”なんていなかったかのように、他のアイドル共がのさばっていて。俺まで見捨ててしまったら、本当に“HiMERU”がこの世から消えてしまう……そう、思った。
「はい、チェック終わりました〜! OKです!」
「お疲れ様でした〜! 一発OK、さすがHiMERUさんですね!」
だから俺は今日も、完璧なアイドル“HiMERU”として生きている。十条要が人生の何もかもを費やして創り上げたHiMERUを、この世に存在させるために。それがどれだけ悍しいことなのか、正しく自覚している。こんなこと、要は望んでもいないだろう。取り繕うつもりはない。これは、ただの自己満足だ。それでも、これが要の、“要の夢”の為にもなると信じている。
『ぼくは、何を犠牲にしてでも、ぼくの居場所を守り抜く』
そう真っ直ぐに告げてくれた要の覚悟を忘れたことはない。だから誓った。俺もそうしなければならない、と。
──大丈夫、準備は既に万端なのだから。
「おかえりなさい、HiMERUさん」
玄関ドアを開くと、家の中に醤油の匂いが立ち込めていた。キッチンからエプロン姿の巽がパタパタとスリッパを鳴らして近寄ってくる。
帰宅の挨拶と共に、大きな花束を巽に差し出した。白いガーベラやカサブランカを中心にまとめられた、清楚と華やかさが共存する見事な
「わあ、綺麗ですね」
「CMの撮影後に頂きました。花瓶、明日買いに行きましょうか」
はい、と嬉しそうに返事をして、巽の顔がふわりと綻ぶ。本当に、腹が立つくらい美しい女だ。
「撮影はいかがでした?」
「勿論、すべて一発OKを貰って滞りなく終えましたよ」
「さすがですな」
巽の賞賛に、笑顔で礼を返す。“HiMERU”はこの女に『さすがだ』と言われる程のアイドルなのだと、要が知ったらどんな顔をするだろうか。要がなりたかった、いや、俺たち二人で創り上げた“HiMERU”が完璧なアイドルになったことを、少しくらい誇ってもいいのだろうか。
なあ? 要が“特待生の看板”という輝かしい地位と、俺の信頼を放り捨ててまで隣にいることを望んだ女──風早巽?
「HiMERUさん、どうされました?」
じっと巽を見据えたまま動かない俺を、巽が小首を傾げて覗き込んでくる。
「いえ……良い匂いがしますね。何を作ったのですか?」
「カレイの煮付けと肉じゃがです。お口に合えばいいのですが」
「楽しみです」
にこりと笑ってみせながら、後ろ手で鍵を閉めた。五十平米の箱庭の中を、巽と並んで歩く。
これが俺の贖罪なのだ。今度こそ、俺は要の居場所を整え、あいつが幸せになれるように守り通してみせる。要が──“HiMERU”が再び歩き始め、戻ってくるその時まで。
たとえ、何を犠牲にしてでも。