白粥 赤い顔をした猪野が、自宅のベッドで横になっている。春めいてきた気候とはいえ、一人の部屋は広くて、寒々しい気がする。
体は、熱くて、寒い。
繰り返す波の合間で、猪野の意識は今、少し浮上している。
ぼんやりしているうちに、ガチャ、と小さな小さな音が玄関先から聞こえ、猪野は耳をそばだてた。キィ、パタン、と、これも微かな音のあとで、静かな足音が、近づいてくる。
「…琢真」
密やかな低音の囁き声は、七海だ。なんとなく、そう、なんとなく、猪野はそのまま目を瞑り、寝たふりを続ける。
七海は無言のまま、猪野の額へ手を当て、熱を測る。ふむ、と小声を漏らすと、アイスジェルシートを貼りつけた。
「…んぅ、冷た…」
思わず猪野は声を漏らし、七海の困った声が、問いかける。
「すみません、起こしてしまいましたか」
「ん…大丈夫、ッス…。入ってくるの、聞こえてた、んで」
「…そう、ですか。なにか、食べましたか」
猪野は記憶を手繰り寄せながら、壁の時計を見る。
「多分…半日ぐらい、食べて、ないっス」
「薬は」
「痛み止めだけ、寝る前に」
「わかりました。…何か作りますが、先に薬を」
猪野は頷き、体を起こした。七海は、持参したミネラルウォーターのペットボトルを開け、薬と共に渡す。そして猪野が飲み下すのを見届け、ペットボトルを受け取りながら、再び横になった彼に優しく告げる。
「少し時間がかかるので、もうひと眠りしているといい」
大きく手が優しく、茶色の髪を撫で、猪野はまた微睡の淵へと戻るため、瞳を閉じる。
…七海はキッチンへ立ち、米を研ぎ始める。手早く洗い、目分量で水の量を測りながら、塩も一緒に片手鍋へと入れ、火を付けた。沸騰するまでの間に、買って来たものを冷蔵庫に納めたりして、彼は過ごす。可能な限り、音を立てないように、静かに、静かに、動く。
鍋の蓋が、カタカタと音を立てる。少し面倒を見て火を弱め、七海はリビングのソファーへと腰を下ろした。腕時計を確認し、持ってきた荷物から文庫本を取り出すと、時間を潰し始める。
そのまま数十分を過ごし、そろそろか、と、七海は時間のあたりをつけ、文庫本を閉じてキッチンへと戻った。粥の様子を確認し、問題ないことを確かめ、火を消す。
さて猪野の様子はどうかとベッドまで足を運ぶと、猪野がうっすらと、目を開けた。
「すみません、また、起こしてしまいましたか」
「…いや、大丈夫っス。だいぶ楽に、なってきたんで。っていうか、米の匂いが」
「ええ。今お粥が炊けたところですが、食べれそうですか」
「食べます」
猪野は即答し、ギシギシと軋む体を起こす。七海はベッドに腰かけ、猪野の髪を撫でる。
「持ってきましょうか」
「あー…あっち行きます。こぼしたらヤだし」
「では、あちらに用意しましょう。急がなくて、いいですから」
ふにゃり、と猪野は笑って頷き、七海は離れていく。
カチャカチャと、食器の出される音を聞きながら、猪野はベッドから降りる。先ほど飲んだ薬が効いているのか、少し熱が下がっているような、気配がする。それでも少しふらつく体で向かった食卓には、湯気の上がる鍋と椀、水の入ったグラス、小皿に入った梅干しと佃煮が並んでいた。
湯気に混じるのは、炊き立ての飯の香りだ。くぅ、と腹が鳴り、七海が小さく笑いながら、体温計を渡す。
「食べる前に」
「…七海サン、もしかして」
「ええ、買ってきました」
「本当にすンません…」
いえ、と七海は答えながら、椀へ白粥をよそう。上に梅干しを乗せたとき、体温計が音を鳴らして計測の終了を告げ、猪野は取り出して眺めてから七海へと見せる。
「来た時より、下がったようですね。…さ、食べれるうちに食べて、しっかり治しましょう」
「っスね。いただきます」
「いただきます」
まずは何も乗せない白粥を、れんげで掬ってからふうふうと冷まし、口へと運ぶ。とろりとして少しの塩味と優しい甘さが、胃の腑まで沁みていくような感覚を猪野は覚えて、共に食べる七海へと話しかける。
「このお粥、美味しいです」
「米から炊くと、やはり美味しいですね」
「インスタントとは違うんスね。なんかこう、すげー優しくて七海サンみたい」
「なんです、それ」
急な例えに七海は苦笑しながら、小皿に視線を移した。
「梅干しも、佃煮も、ありますから、無理しない程度に、食べてください」
「はい!…あの、七海サン」
梅干しを粥に乗せながら、猪野が遠慮がちに、問いかけた。
「この後、もう帰っちゃいますか」
「いえ、今日はもうオフです」
「あの、ええと。…やっぱいいです」
「なんです、歯切れの悪い。私にできることなら、なんでも言ってください」
「うう…じゃあ」
猪野は少し唇を尖らせ、小さな声で言う。
「少しの時間でもいいんで、一緒に寝て欲しいっス…」
七海が、びっくりしたような顔になり、答える。
「ええ、構いませんよ。…なぜ、言い渋ったんですか」
「なんか…。ガキっぽいなと、思って」
とうとうそっぽを向いた猪野の耳が、少し赤い。可愛いものだ、と七海は思いながら、優しい笑顔を見せた。