Wedding Anniversary 鮮やかな紫色の花は圭介を驚かせた。真っ赤な花束を抱えてくるものとばかり思っていたのだ。
特徴的な花の形は愛らしく、しかしこの色はあまり馴染みがない。圭介は不思議に思った。
「チューリップ?」
「おう、可愛いだろ」
圭介は靴を履いたままの真一郎から紫の花束を受け取った。手元には金色のリボンが巻かれ、花は薄ピンクの包装紙と透明なセロファンに包まれる。花束は顔が埋められそうなほど大きかった。
「でけぇ」圭介は言った。
「他には?」
「きれい、かわいい、でかい」
「雑に扱うなよ」
花束を抱えて廊下を行く圭介の背を、スニーカーを脱ぎ捨てた真一郎は仕事終わりの疲れた表情で追いかける。
花の中に名刺大のカードが差し込んであった。飾られたアルファベットが並んでいる。圭介は背後で上着を放る真一郎に見えないよう、カードにそっとキスをし、それをまたチューリップの中へ戻した。
「すげえな。これ、全部ケースケが作ったのか」
キッチン兼リビングの食卓に並ぶ品々は圭介作にしては珍しく気合いが入っているように見えた。真一郎の感心混じりの問いかけに、圭介はたまらなく嬉しくなる。
「今日くらいは」
得意げに返した圭介は花束を料理の横に並べ、冷蔵庫から冷えたビールを二本取り出した。
「うまそうだ」真一郎が言う。
「結婚記念日の料理って調べた」
「こういうのが出てきたのか? 贅沢なグラタンみたいな? ポテトサラダをとんがり帽みたいにしろって?」
「うん」
「ケーキもあるのか」
真一郎は見慣れない紙袋が折り畳まれているのを横目で見た。
「それは買った」
「連絡くれたらなんとかいう店の買ってきてやったのに。高ぇやつ」
「こんな花抱えちゃ買えねーじゃん」
「好きだっつってなかったか? チョコのやつ」
「これで十分」
圭介は食卓の端に伏せた花束を指した。
「おいバカ、横にすんなよ、水出んだろ」
「水?」
「花屋で何か巻いてたんだ。濡らしてた」
真一郎はそっと紫の束を抱え上げた。食事中、チューリップの花束はまるで席に着いた一人のように、食卓の椅子に存在感を持って立て掛けられていた。
食事の後は性急だった。圭介は真一郎が浴室に行くのも許さなかった。早くしなければ愛らしいチューリップの花が枯れてしまうと思ったのだ。
真一郎を寝室まで引っ張って行くと、さっさと服を脱がせ、自分も脱いだ。ベッドの上で肌を擦りつける。
「触って」圭介は言った。
真一郎はその通りにした。圭介が先を急いているのがわかった。二人はすでに互いの汗がすっかり肌に染みついてしまったのではないかと思われるほど同じことをしてきたが、圭介が飽くことはなかった。
「あ、あっ」
幾度か体位を変えた後、真一郎は挿入したまま圭介を組み敷く。圭介が最後に望むのは正常位でキスをしながら果てることで、真一郎は圭介が全てを晒し感じ入って、その胎で咥えたものをきゅうと絞る様が好きだった。
絡めた指、真一郎の左薬指には銀の指輪が光る。圭介は生理的な涙に濡れる視界でぼんやりとそれを見た。自分は今日金の指輪をつけている。真一郎は気付いただろうか。
果てた後にごろりと並んで横になると、肌身離さず持ち歩く煙草にも目もくれず、真一郎はすぐに圭介の左手を取り、見慣れない金の輪をじっと見つめた。
「誰かにもらったのか?」真一郎は言った。
「おー、かっけぇっしょ」圭介はわざとらしく楽しげに声を弾ませた。
「誰?」
「えー、俺のこと好きなやつ、みたいな?」
「へえ、よかったな」
圭介は答えず、無理に開かされた股関節が軋むのを感じながらベッドを降り、服を着た。尻の間の濡れていたのは下着で拭った。
リビングへ行くと可愛らしいチューリップの束を抱えた。寝室から髪を乱したままの真一郎が、来たときと比べればいくらかだらしなくなった姿で出てくる。彼が格好を整え、上着を羽織り、玄関で靴を履くまで圭介は花束を抱えて待ってやった。
「なんでチューリップなんだ? しかも紫って。チューリップも、バラも、赤だろ」圭介は言った。
「花言葉を教えてもらったんだ」真一郎は言った。「紫のチューリップは、永遠の愛って言うんだと。結婚記念日にはちょうどいいって」
「ふうん」
じゃあ、ほら、俺から、真一郎くんに永遠の愛。圭介は目の前の真一郎に紫の花束を差し出した。真一郎はほんの少し眉を顰めたが、結局は何も言わずにそれを受け取った。
「曜日変える?」圭介は聞いた。「毎週同じ日じゃん」
「今日は木曜だろ」真一郎はもう背を向けていた。玄関の鍵が外される。
「じゃあ、明日は来ないん? 来週の金曜は?」
「その指輪、変な奴にもらったんじゃないだろうな」
「来ないなら来ないって連絡して」
「前はんなこと言わなかったのになあ」真一郎は振り返って、圭介を見やった。「指輪、女? その子を呼ぶのか?」
「俺にも予定があんの」
「ったく」
「嫁さんによろしく」
圭介は片手を振った。真一郎はため息混じりに笑うと、紫色の永遠の愛を抱えて彼の家へと帰って行った。
真一郎の帰った後はいつも脚の間から垂れてくる死にかけた精子くらいしか残らない。圭介が一人になった部屋でぼんやりと二人分の皿を洗っていると、携帯が鳴った。何か忘れ物でもしたのだろうか。
しかし、画面には別の番号が表示されていた。
『別れ話、終わりました?』男は言った。
「また今度だ」
圭介は言って、水を止め、花束が置かれていた椅子に座った。座面が少し濡れているように感じたが、花束から漏れた水のせいだか、自分の下着のせいだかわからなかった。
『今日話すって言ってましたよね』
「そういう雰囲気じゃなかった」
『本当に別れる気あるんスか』
「そうまでしなくてもいい気がしてきたっつーか」
『場地さんが言うから、お揃いで買ったのに』
「こんなもの」
圭介は携帯を耳に当てたまま顎と肩で固定すると、左手薬指からそれを抜き取り、冷蔵庫に投げつけた。金の指輪はつまらない小石のような音を立て、ころころとフローリングを転がった。
『いらねーっつうんなら、傷のないうちに返してください』
「もう遅いわ」指輪は床に落ちたままだった。圭介は続けた。「いいこと教えてやるよ。紫のチューリップを贈るといい。本命の女にはやるなよ。花言葉は一晩だけの恋って言うらしい」
男は黙って聞いていた。圭介は段々と虚しくなってきた。この電話が続くうちに真一郎が戻ってくればいいのに。だが、その気配はなかった。
「女にそれをやって、喜ばせて、でも帰ってその意味を調べて女は泣くだろうな。一夜の夢だったなんて」
『今調べましたけど、紫色のチューリップの花言葉は永遠の愛、不滅の愛って出てきましたよ』
「ばーか」早く電話を切ってしまいたかった。圭介は言った。「つまんねーことすんなよ」
男の最後の言葉は可哀想、だった。
果たして自分は『可哀想』なのだろうか。週に一度は好きな男と寝られるし、自分のことをこうして健気に好いてくれる相手もいて、毎晩安全に眠る場所がある。これ以上のことがあるだろうか。圭介は立ち上がり、落ちた指輪を拾ってまた同じ指にはめた。不安定な心が和らぐ。
これを見咎めた時の少しばかり驚いた、とでも呼べる顔を思い出せば、まだしばらく自分が『可哀想』であることに気づかないでいられるだろう。圭介は思った。