光合成 小高い丘の上にあるアパートは二階の部屋からでも景色が一望できた。坂道の上にある住宅地は通勤するだけでも良い運動になった。アルフェンはベランダの窓に寄りかかり、折り畳み椅子に座って外を眺めていた。両膝を抱えて、裸足の指を丸めては開く。ワイシャツ一枚をひっかけた姿で寒さを感じながら、鼻先で建物を数える。あそこが駅で、あそこがフィットネスクラブで、あそこが居酒屋で、あそこが前に借りていた部屋。少し開いた窓から冷たい風が流れてくる。カーテンが揺れる。濃い金木犀の匂いがした。去年の今頃は何をしていたっけ。ジルファに会いに行く前の生活が、とんと思い出せない。
「ジルファ、去年の今頃ってあんた何してた?」
ジルファは片付けていた手を止めると少し考えて
「…何も無かった気がするな。ロウの受験があったくらいか。どうした、突然」
「金木犀が咲いてるなと思って。そういえば高校の正門近くにもあったな」
「よく覚えているな」
「金木犀は結構好きなんだ」
ジルファが窓辺に来ると、冷たい風に少し驚いたようだった。太陽も弱い朝と昼の間だった。アルフェンが見上げると、ジルファは目を逸らして外を眺めた。
「もちろん、金木犀なんかよりあんたの匂いの方が好きだよ」
「…草花と同列なのか、俺は」
「金木犀じゃ気持ちよくなれないってことだ」
アルフェンは足を解くと両手を広げて、その腹を晒した。新しい痣と瘡蓋になった切り傷が痛々しい。ジルファは屈んでアルフェンの首に顔を埋めて抱き締めたが
「違うよ」
と言われ、ため息を漏らして、ようやくその腹へ額を押し当てた。髭や呼吸がくすぐったい。ジルファの短い髪をくしゃくしゃと撫で回して、ジルファの頬を突いた。腹を丸めて顔を近づけると、彼の匂いで鼻腔がいっぱいになった。それから冷たい風が吹き込んで、アルフェンの腕に鳥肌が立つと、金木犀が少し混じった。しばらくそうしていたが、腹に鼻を擦り付けるジルファがいじらしく思えてきて
「来てくれ」
と許可を出した。彼の厚い唇が開かれて、温かいザラつきが臍を覆う。ジルファの手のひらが背中を登ると、急に欲を思い出して、アルフェンの雄が勃ち上がり始めた。唇が鍛えられた胸部に辿り着くと、恥ずかしくなってジルファの肩を押しのけようとする。
「胸は嫌だ」
「腹はいいのにか?」
「あんた腹の方が好きだろ」
「強いて言えばの話だ」
「…出もしないのに吸われると変な感じがするんだよ…」
「それはやれと言っているのか」
「違う……、はぁ…ん…」
背中を押さえて乳頭を咥えてやると、アルフェンは背筋を反らせて喘いだ。
「ははっ…んっ、ふッ…ふふ…、ジルファ、赤ちゃんみたいだ…あッ、…怒るなよ…っ」
アルフェンの顔の高さまで上りきると、後頸部を鷲掴みにして、口の端を唇で甘噛みする。
「泣き疲れ、たいのか?」
「いいかも、しれないな、それ…。…ジルファの、赤ちゃんに、なろうかな」
浅いキスを繰り返して、引っ掛けていただけのワイシャツを脱ぎ捨てる。アルフェンの下腹部は興奮に震えて窮屈そうにしていた。すぐ横のベッドに抱き合って沈み込むと、ジルファのポロシャツを脱がせながらアルフェンは天井を見てぽつりと言った。
「ロウは赤ちゃんだったんだよな」
「…これからするのに、倅の名前を出すな」
「その気が無くなるか?」
「当然だ」
「…でも羨ましいな」
「何が」
「俺もあんたの一番になりたかった」
ジルファの肩越しに脱がせたポロシャツを口に含んで咀嚼する。布の味がする。ジルファの腰に長い両足を回し、厚い肉体を抱きしめる。
「…倅とこんなことはしない」
「でも、俺とロウに何かあったら、あんたはあいつを選ぶだろう?」
それが父親ってやつだから。
アルフェンは悲しさも悔しさも、未練の欠片も無く言い捨てた。
「俺はそういうあんたのことを愛してるから、それでいいんだよ。夜だけでいい、一番にして欲しい」