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    はいむ

    罪悪感のかたまり

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    はいむ

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    あすみは

    ゆく年くる年 塾講師に年末年始はあまり関係がないらしい。学校は冬休みに入ったけど──いや、入ったからこそか?──兄は遅くまで仕事をしている。元々遅い帰りが輪を掛けて遅くなっている。遠いところから通勤している講師もいると聞いたことがあるが、その人はいったい何時に帰宅できているのだろうか。
    「ただいま」という声が聞こえて慌てて玄関に向かう。
    「おかえり、兄さん。今日は早かったね」
    「うん。大晦日だから授業はなくて今日は大掃除だけだったんだ。明日も午前中はお休み」
     兄はにっこりと笑いながら手袋を外す。駐車場の少ない駅前通りのビルまで自転車で通う兄の指先は痛々しいほど赤く染まっている。
    「だから、明日香、初詣は一緒に行こうね」
    「うん」
     内心では小躍りしているくせにうまく喜びを表現できない。俺が頷けば綻ぶように笑う兄と全く似ていない点だ。
    「晩ご飯温めてくるから先に風呂入ってきたら」
    「お言葉に甘えてそうしようかな」
     ふふ、と嬉しそうに自室に向かっていく。軽やかな足音を聞きながら、手を取ることくらい躊躇しなくていいのに、と嘆息を漏らす。冷たそうだったから、と幼い言い訳で構わなかっただろうに。兄はきっと少しだけ目を丸くしてそれからゆっくりと微笑んでくれただろう。そういう人だ。
     素直に好意を示せない自分に溜息をついて、自分の言葉通り台所へ向かう。
     湯の落ちる音を遠くに聞きつつ鍋に火を入れる。大晦日だしそばのほうが良かっただろうか、なんて思いつつ台所に充満するカレーの匂いで腹の虫が鳴る。せっかくだから俺も食べよう。二人分の食器を用意していると兄が戻ってきた。
    「ん〜いい匂い。……あれ、明日香も晩ご飯まだだったの?」
    「いや、もう食べたんだけど用意してたら小腹が空いてきて」
    「わかるなあ。カレーの匂いって食欲そそられちゃうよね。一緒に食べよう」
    「うん」
     二度目の夕食はさすがに量を少なめにした。カレーの味なんて変わらないはずだけど、一緒に食べている今のほうが美味しいように感じる。
    「……年越しそばのほうがよかったかな」
     カレーを食べながら改めて口にすると兄は「そう?」と首を傾げた。
    「蕎麦もおせちも色んな願いが込められた縁起物だけど、私は明日香の気持ちが込もったカレーをこうして一緒に食べられるほうがいいな」
     そっちのほうが縁起も良さそう、と続けられてしまうと何も言い返せない。押し黙る俺をよそに、兄はカレーを食べ終わり手を合わせた。
    「ごちそうさまでした」
    「……ん」
    「皿は私が洗うね。明日香はお風呂に……ってとっくに入ってるよね」
    「俺も皿洗い手伝う」
     最後の一口を頬張り、席を立つ。そんなに慌てなくていいのに、と兄の言葉を背に受けて蛇口に手を伸ばす。一瞬迷ったがお湯のほうを捻った。
    「洗うのは私がやるから」
    「ありがと」
     兄に場所を譲り、水切りラックに放置されていた食器を棚に片付ける。手伝うとはいったものの、食器を片付けてしまうとすることがなくなった。なんとはなしに兄の隣に戻ると、食器を洗う兄の頭がぽすんと肩に着地した。
    「ねえ明日香、今日は一緒に寝ない?」
    「えっ」
    「早起きして初日の出を見るのもいいよね。どこかで日の出を待ってそのまま初詣に行くのも、部屋から見てそのまましちゃうのも、どっちも素敵! 明日香はどう思う?」
     まだ乾ききっていない兄の髪が首筋に触れる。孕んだ水気の冷たさが俺の体温で和らいでいく。
    「どっ……兄さんが、したいほうで……」
     心臓が早鐘のように鳴る。隣にいる兄に聞こえてしまうんじゃないだろうか。胸の痛みで何を聞かれたのかあやふやだ。
     キュッと蛇口が閉まる音が聞こえる。
     身体にかかる重みがなくなったかと思うと、しっとりとした温かい両手が俺の手を包んだ。
     明日香、と呼ばれた気がして兄の顔に視線を移す。
    「なにか、期待してる?」
     意味深な視線に絡め取られる。
     全身の血液が沸騰したと思えるくらいに身体が熱い。俺の手を握る兄の手がぬるく感じてしまうほどに。
     何か弁明しないと。何を? 期待、ってなんだ?
     意味を成さない音が唇の隙間から漏れる。
     兄は蠱惑的な笑みを浮かべる。すり、と俺の指の間を撫でる。
     俺、どうにかなっちゃうんじゃ──。
    「い、や……期待、とかじゃ……」
    「ん?」
    「……その……」
    「ふふ、意地悪しすぎちゃったね」
     パッと手を放し、兄さんは「どちらにしても日の出の時間調べなくちゃね」とスマートフォンを取り出した。
    「兄さん……」
    「なぁに?」
    「……なんでもない」
     敵わない、と溜息をつく。あわよくば、を考えなかったかと言われればそうではないが、手を出す度胸なんてない。いつまでも兄に手を引かれたままでいいわけもないが、甘えた弟のままですらぐずぐずに溶けそうなくらい居心地がいいのだ。
     遠くで鐘が鳴っている。人間の煩悩は本当に百八つで収まるのだろうか。
    「あ、除夜の鐘」
    「うん」
    「来年は撞きに行ってみる?」
    「もう来年の話するの」
     思わず笑いがこぼれてしまう。来年の今頃にはきっと忘れてる。
    「あと少しで『今年』になるからいいでしょう? 車で行ってそのまま海までドライブして初日の出を待つのはどう?」
    「よくそんなに思いつくね」
    「明日香と一緒にしたいこと、たくさんあるから」
     衒いもなく返され、俺のほうが言葉に詰まる。やっぱり、敵わないな。
    「日の出の時間は七時前みたいだから、出掛けるならもっと早く──」
     くるくるとアイデアを口にする兄の袖を思わず掴む。
    「兄さん、」
     話を遮られたというのに、怪訝な顔一つせず、兄は俺の言葉を待ってくれる。
    「初日の出は家で見ようよ。明日も午後から仕事なんでしょ」
     そこまでは言えたのに、ゆっくり休もうよ、は喉の奥でつっかえてしまった。俺の本心を知ってか知らずか、兄は「明日香は優しいね」と微笑んだ。
    「そうしようか。普段より早い時間だけど、もう寝ちゃおう」
     兄はスマートフォンをしまって、改めて俺の手を取った。
     叶うことなら、ずっとこの手が振り解かれませんように。
     ささやかな願いを込めて、兄の手をそっと握り返した。
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