白夜問答【白夜問答】
グランサイファーの食堂の一角にある小さな扉はいつも灯りがついている。
そこは眠れない乗組員たちの小さな憩いの場にもなっている。
今、グランサイファーはファータ・グランデ空域の厳冬の島に来ていた。ハルヴァーダ──ナル・グランデ空域の亡国となったトリッド王家の末裔、ハルの住む島、ノース・ヴァストである。
珍しく今日は昼からの強い風が止み、空が澄んで見えるほどの静かな夜だった。だが、この季節は太陽が水平線に沈まない為、この島は一時的に夜のない季節──白夜となるのであった。
暗くならない日が続くと、身体は休む為の機会を逃し、眠れなくなる乗組員が増える。そんな時に酒でいっときの睡りに逃げることもできるが、毎日飲むわけにもいかず、頼みの綱であるラードゥガは店主がジュエルリゾートへと興行へ出ている為に不在であった。
居場所がない乗組員は、食堂へと赴いたり、諦めて島にある小さな街、グリーフランドに繰り出したりもしていた。
しかし食堂も積載されている食料には限りがあるので夜食を毎日出すわけにもいかない。それに専任料理番といえど同じ人間である。彼らにも休日は存在するのだ。
今日はローアイン・エルセム・トモイらグランサイファーの筆頭料理番がハルと一緒にグリーフランドの食堂で炊き出しをすると言うので、一時的にだが艇を降りていた。
そんな偶然が重なり合い、ロベリアはなんとなく足が向いて食堂脇の小さな喫茶室に一人、本を読もうと訪れたのだった。
「……君か。いつもの青い外套はどうした」
「あれは仕事着さ。いつも着ているわけじゃない。それにオレは今日は非番だからな。ムシュ・サンダルフォン、軽めのやつを一杯頼む」
「眠れないのか?」
「──こういう景色というか、夜も昼もずっと変わらないと……なんだか感傷的になるね。思い出したくないことも思い出してしまう」
「……ヒトというのは、なかなか複雑なんだな」
「感情と記憶は二重螺旋のように絡み合っているからね。こういう日は割り切って起きているのもひとつの手かと思って、さ」
ロベリアがそう言うと、目を擦りながら、淡い灯りのなかに鳶色のふわふわと揺れる髪の毛が現れた。
どうやらグランは厨房の掃除を終わらせてきたところのようだ。無言でロベリアが座る椅子の隣に腰掛けると、青いシャツを着たロベリアの肩にグランが頭を載せた。
「グラン、風邪を引いてしまうぜ」
「……」
もはや限界だったのだろう。グランはロベリアの制止も聞かず、目を閉じると、すうすうと静かな寝息を立て始めた。
ロベリアは、自分にもたれ掛かりながら寝入ってしまった少年をどうしようかと、上を向いてため息をつく。
するとロベリアの目の前に、サンダルフォンの淹れたカフェ・オ・レが静かに一杯サーブされた。
「この一杯分を飲み干すまで、眠らせてやってくれないか」
「オレは構わないよ。けど、珈琲じゃなくていいのかい」
「君が眠る時に困るだろう。団長のは、目が覚めたら淹れるさ」
サンダルフォンはそう言うと、ロベリアの肩に頭を載せたまま眠るグランを見て、静かに言った。
「君には随分と甘えるんだな」
「甘えているのかな、これで」
「彼はいつも気を張っているからな。団長という殻を脱いだ素のままの彼はなかなか見られるものじゃない。君は団長にわりと手荒いスキンシップを受けているようにも見えるが?」
この喫茶室の店主は星晶獣ではあるが、様々な乗組員や客がこの小さな部屋に引きも切らず訪れるために、ヒトの感情には無縁なはずの星晶獣でありながら、色々な感情を目の当たりにしてきた。
自らも感情をグランたちとの交流によって少しずつ獲得しているサンダルフォンだが、ロベリアとグランの関係性は星晶獣にとってなかなか理解し得ないものであった。
「オレはこの子の飼い犬だからね、躾は甘んじて受け入れるさ。もちろん愛のある躾だからな、そうじゃなかったらとっくに手を噛んでいるさ」
「……君は被虐的な快楽を得たいという人間なのか?」
「この子だけにならマゾヒスティックに振る舞うのも悪くはないけども、他の人間はごめんだね」
「のらりくらりと掴みどころのない人間だな君は」
サンダルフォンはロベリアのにやりと笑った顔を眉根を寄せた表情で眺めていたが、ロベリアのグランに向ける眼差しを見て、不思議そうにカウンターの椅子に腰を掛けた。
「飼い犬というわりに、君は団長に対してそんな表情を良くしているな」
「自分ではあまりわからないけど」
「団長だけに向ける君の表情は──なんというか、俺の語彙では表すことが難しい。その表情を言語化できないというか」
「真面目だなあ、キミは」
「……俺を作った御方の意向なんだ。色々なものを自分の目で見て学べと」
「なるほど」
「君の表情は、愛情を持つものがする目線に近い。それが全く同じというわけではないし、俺にだって人間の愛情というものは個々人によっても違うことくらいわかっているが──そうだな、慈しみ、という感情が発露した時の目線によく似ている──俺の記憶もだいぶ古いけども」
「慈しみ、か。言い得て妙だな。確かにそういう感情に近いかもね」
「気を悪くさせたか?」
「いいや?──むしろ、腑に落ちた気分だ」
「君は──団長に愛情を抱いているのか?」
「何をもって愛情と言うのかは定義が難しいけど、そうだね……オレは、それに近い感情を持っているかな」
「そうか」
「オレはこの子の存在が全てだ。喜びも悲しみも怒りもオレが与えてやりたい、その感情が織りなす音を余すところなくこの耳で聴きたい……グランの感情が動くのはオレの為であって欲しい──オレは我儘だからな、時々そんなことを思ってしまう」
「確かに我儘だな、その感情は」
「だろう?けれども、オレはこの感情を誇りに思っているよ。こうしてこの子がひとときの止まり木にオレを選んでくれたことが、全てを物語っていると思わないか?ムシュ・サンダルフォン?」
そういうとロベリアはカフェ・オ・レを飲み干すと、まだ眠りのなかにいるグランを優しく揺すって起こそうとした。
だが、むずがる幼児のように、寝ぼけたままのグランは起きたくないというようにロベリアの分厚い胸板に深く身体を預けてくる。
「オー・ラ・ラ(おやおや)。そうか、まだ眠いかな……『空も未だ目覚めず、ただ白白と冴えゆくばかり』ってとこかな」
「それは、何かの詩か?」
「いいや?オレのアンプロンプチュ(即興詩)だよ。まあ、素人ということで出来には目をつぶってくれ。ムシュ・サンダルフォン、美味しいカフェ・オ・レをありがとう。ボン・ニュイ(いい夜を)」
そういうとロベリアは席を立ち、支えを失って崩れ落ちそうになるグランの身体を軽々と抱き上げた。
グランは無意識なのだろうか、ロベリアの温かい体温が隣から無くなったことに手を伸ばして探すが、ロベリアの太く逞しい両腕に抱き上げられたことで、ようやく自身の望む温かさを見つけたとばかりに、ロベリアの肩に自分の頭を載せて、再び深く深く眠ってしまった。
『Hush-a-bye, baby,on the tree top,(ねんねんころりよ、木の梢)
When the wind blows the cradle will rock;(風が吹いたらゆりかご揺れる)
When the bough breaks the cradle will fall,(枝が折れたらゆりかご落ちる)
Down will come baby,cradle,and all.(赤ちゃん、ゆりかご、何もかも)』
ロベリアの低く囁くような歌声とともに、背中に回された手で心音のリズムに倣い、とん、とん、と優しく叩かれながら、グランは彼に抱かれたままどんどんと遠ざかっていく。
サンダルフォンはこの風変わりな客の後ろ姿と、水平線に白く残る残光のような夜の空を見ながら、すっかり冷えたカップを黙々と片付けるのであった。