生日快乐!『君に色とりどりの祝福を』 (魏無羨誕生日)
花の匂いがする。
甘いもの、清々しいもの、纏わりつくほど濃密なもの。咲き誇る花々の多種多様に入り混じった香りは、雲深不知処ではあまり馴染みのないものだった。
不思議に思いながら魏無羨は自室の扉を開く。その瞬間、百花繚乱の香りが部屋から溢れてきた。
それと同時に、視界を埋め尽くす花、花、花!
薄紅、紅蓮、山吹、鶸、浅葱、縹、紫紺、そして白。色とりどりの花が部屋いっぱいに飾られ、頭上からもはらはらと舞い落ちてくる。
予想外の出来事に魏無羨が茫然と立ちすくんでいると、暗がりから現れた黒い影が魏無羨に向けてふわりと花を投げかけてきた。
その影に腕を掴まれて、魏無羨は部屋の中へと引きずり込まれる。
「……!」
ぱたんと背後で扉が閉じられ、魏無羨は目の前に立つ黒衣の男──藍忘機と至近距離で向き合うことになった。
「誕生日おめでとう、魏嬰」
なんのつもりだと詰問する前に告げられた言葉に、魏無羨は息を呑む。
姑蘇藍氏の親類縁者でもないのに家紋入りの抹額を身に着け、内弟子として扱われている魏無羨への風当たりは強い。当然、生誕を祝い合うような同輩はおらず、祝いの言葉をかけてくれるのは藍啓仁と藍曦臣だけだった。
じわりと胸の奥が暖かくなるのを感じつつも、魏無羨はなんとも言えない表情で藍忘機を見つめた。
彼に、真実を告げるべきだろうか……?
「……俺の誕生日は明日だ」
「うん、知ってる」
申し訳なさが飛来して、思わず声が小さくなる。しかし藍忘機は拍子抜けするほどあっさりと笑い、魏無羨の髪に花を挿した。
「明日の朝、君が目覚めた瞬間から花で彩りたかった。夜中に忍び込んで飾りつけようかとも思ったけれど、君の驚く顔も見たかったから」
それに、と言いかけて、藍忘機は扉との間に魏無羨を閉じ込めたまま、何かを待つように両腕を広げる。
「藍湛?」
「人は突然の贈り物に感極まると、抱きついて口づけを返すものだと教わった」
「……?!」
そんな話は聞いたことがない。いや、自分がそういったしきたりに疎いだけなのだろうか。いやいや、そうだとしても有り得ない!
「それとも、やはり花なんて迷惑だった……?」
しかし、寂しそうな笑顔を浮かべて自嘲気味に漏らす藍忘機に、魏無羨の胸がきゅっと痛む。
(……迷惑?)
違う。驚きはしたものの、嬉しかった。確かに、嬉しいと感じてしまったのだ。
吐き出した溜息の代わりに部屋に満ちた祝花の香りを吸い込んで、魏無羨は覚悟を決めて小さく踏み出す。
もともと触れ合うほど近かった二人の距離は、もう無いに等しく。
「……ありがとう、藍湛」
掠れた声で微かに呟くと、魏無羨は藍忘機の白磁のような頬に軽く唇を押し当てた。
そしてすぐに限界まで身体を引いて背後の扉にぺたりと張りつく。
心臓が嵐のように高鳴ってうるさい。藍忘機の顔を見る勇気はないが、彼がふっと笑う気配がした。
その直後、腰に藍忘機の腕が巻きつき、精いっぱい離した身体が一瞬で引き戻される。
「……っ」
あっと思う間もなく、顎を掴まれ口づけられた。
肩口を叩いて抗議をすれば、ぬるりと入り込んできた舌に咎めるように上顎を舐め上げられ、それだけで震えるような痺れに膝が崩れそうになった。
自分を抱きしめる藍忘機の身体からも花の香りが溢れ、頭がくらくらする。
「待て……藍、湛っ……突然なにを……っ」
わずかに解放された隙に、魏無羨は荒くなった呼吸の下からどうにか言葉を絞り出した。
藍忘機はそんな彼をさらにきつく抱きしめると、耳もとで囁く。
「突然の贈り物に感極まった。だから……」
その礼だと、恐ろしいほどに美しい笑みを浮かべて、藍忘機は花よりも鮮やかに色づいた魏無羨に再び口づけた。
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『この身ひとつの饗応を』 (藍忘機誕生日)
その日、魏無羨は朝から非常に悩んでいた。いや、正確には二ヶ月と二十二日前から悩み続けている。
そして、なんの答えも得ないまま二十三日目の朝を迎え、昼を迎え、日暮れまで迎えてしまった。
今日は藍忘機の誕生日だ。
祝ってもらったからには、相手のことも祝うべきと、生真面目に考えた魏無羨が藍曦臣のもとを訪れたのは、自身の誕生日の翌日のことだった。
「お前の誕生日はいつなんだ」などと藍忘機本人に尋ねれば、どんな揶揄が待っているかわからない。実兄である藍曦臣ならば弟の生誕日も知っているだろう。
そうして素早くかつ、さり気なく欲しい情報を手に入れた魏無羨の脳裏には、その日からいったい何を贈ろうかという悩み事が棲みついた。
天子笑?……家規に反する。論外。
部屋いっぱいの花?……季節柄難しい。
好きな食べ物?……あいつは何が好きなのだろう。
兎の置き物?……これは一考の余地あり。
他には?他には?
思考はぐるぐると堂々巡りを繰り返し繰り返し……今日に至る。
(本当にどうしよう)
せめて祝いの言葉だけでもと思ったが、常に人の輪の中心にいる男の誕生日とあっては、人垣はいつもの倍以上に膨れ上がり、自分が声をかける隙など到底なかった。
魏無羨はひとまず自室に戻ると、「はぁ」と大きな溜息を吐き出した。何か贈り物に相応しいものはあるだろうかと室内をぐるりと見回したその眼に、文机の上の書物が映る。少し色褪せた深緑の表紙のそれは、誰かが蔵書閣から持ち出して蘭室に置きっぱなしにしていた仏教の説話集だった。
蔵書閣に戻す前に傷みや汚れなどないか確認していたのだが、その中に今の自分とよく似た状況の説話があったのを思い出した。
(いっそあの話の兎みたいに……)
背中で揺れる抹額の両端をたぐり寄せ、こそりと胸の前で蝶々結びを作ってみる。
はんなりと柔らかく揺れるそれは、贈り物を彩るのにうってつけ……なわけがない!
「何をしてるんだ、俺は!」
我に返った魏無羨が慌てて胸もとの蝶結びを解こうとした、その時。
「ひどいな、羨兄は人の贈り物を勝手に開けるのか?」
外気を取り込むために細く開けていた窓から、詰るような揶揄うような声が飛び込んでくる。
心の臓が止まりそうなほど驚いて窓辺に目を向ければ、隙間から玻璃のような輝きがふたつ、魏無羨を見つめていた。
「藍湛?!どうしてここに?」
「今日は私の誕生日なのに、君ときたら思わせぶりな視線ばかりで、ちっとも贈り物をくれないから取りに来た」
ひらりと窓枠を乗り越えて藍忘機が部屋の中に入ってくる。そして未だに動けないでいる魏無羨の前に立つと、含みのある笑みを浮かべてみせた。
「それ、は私への贈り物だろう?」
視線で指し示された蝶々結びを魏無羨は両手でぎゅっと握りしめる。
「違うっ…、これは……長かったから……!結んでみただけで!」
決して他の意図などないと慌てて弁明してみても、藍忘機の笑みは増すばかり。隠しきれずにひらひらと指の間から垂れた抹額の端をくん、と引っ張られた。
「本当に?捧げ物が見つからずに己の身を差し出したあの兎のように、君自身を贈ってくれるのではないの?」
彼と共に流れ込んできた冬の空気がひやりと部屋の温度を下げているにも拘わらず、魏無羨は全身が熱を帯びていくのを感じていた。
「ちが……」
かろうじて絞り出した言葉を遮るように、蝶々結びを隠した手の甲をやんわりと撫でられる。
「魏嬰。違うのなら、希わせて」
囁く藍忘機の声から不意に揶揄の響きが消えた。
「魏嬰。私は今とても飢えている。だから、どうかあの高潔な兎のように……」
飢え渇いた哀れな私に、君を、与えて欲しい。
欲を孕んだ声音に背筋がゾクリと震える。
藍忘機の唇が魏無羨の唇を食むように寄せられ、しかし触れるか触れないかの距離で動きを止めた。甘く火照った吐息だけが唇をくすぐる。
その熱はまるで兎が自ら飛び込んだ炎のようで。
誘うように薄く開いた唇は、その炎に焦がれた兎が飛び込むのをただただじっと待っていた。
やわやわと撫でられていた手の中から、いつの間にか白い蝶は奪われて、藍忘機の指先がしゅるりとそれを解き放つ。同時に彼のもう片方の手が後頭に伸ばされ、固く結んであったはずの抹額の結び目を解く。
はらりと額から鼻梁に沿って滑り落ちた抹額は、魏無羨を戒めるように二人の唇の間隙に一瞬留まったが、すぐに重力に引かれて落ちていった。
(ああ……)
贈り物の包みは開けられてしまった。
ならば、差し出せるものはこの身ひとつ。
唇をくすぐる吐息に、手背を撫でる指先に、じっくり焦がされ、骨の髄まで溶かされて、気つけば準備万端整えられている。
もう選択肢はないのだ。
「……誕生日おめでとう、藍湛」
魏無羨は祝いの言葉を乗せた舌先で、藍忘機の唇にそっと触れる。おずおずとその身を差し出した兎の舌は、すぐさま絡め取られ、待ち構えていた熱い口腔内に引きずり込まれた。
「……あっ……あぁ、……んっ」
じゅっと吸い上げられて、指先まで痺れが走る。
説話の中のあの兎は実際には食べられはしなかったのに。
非難めいた視線を藍忘機に向けてみたが、あまりにも嬉しそうな様子の彼が美しく笑うから何も言えなくなった。
「んんっ……ふ……」
貪られるたびに湿った水音が響く。水音が響くたびに頭の芯が霞んでいく。
やがて、細く開いていた窓がパタンと閉じられ、部屋の明かりが大きく揺らめいて、消えた。
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『沢蕪君は「あにうえ」と呼ばれたい③』
「忘機」
にこにこと楽しげな笑みを浮かべた藍曦臣が手招きをしている。この人はいつも笑っているが、この笑顔は魏無羨絡みの話があるときだ。
弟のように可愛がっている魏無羨について、気兼ねなく語り合える相手ができたことが嬉しいらしい。
これが噂に聞く「兄馬鹿」というやつだろうか。もし自分がこの人の弟という立場に戻ることになったら、同じように行動を逐一報告されてしまうのかもしれない。自分について楽しそうに誰かと歓談する「兄」の姿を思い浮かべると、何やら寒気がした。
しかし、そんな態度は噯にも出さずに、藍忘機は招かれるまま藍曦臣のもとへと近づく。
「無羨の誕生日を祝ってくれたそうだね」
予想外の言葉に、藍忘機は内心で首をかしげた。
なぜ知っているのだろう。彼がわざわざ報告するとは思えない。もっとも家規で義務付けられているのなら話は別だが、そうではないとしたら、彼がそれを告げる理由はおそらく。
「魏嬰に私の誕生日を訊かれましたか」
おや、と藍曦臣は驚いたように片眉を上げる。どうやら図星のようだ。
「困ったな。無羨に君には内緒にしてほしいと頼まれていたのに」
祝いの礼を述べるだけのつもりが、その一言で秘密を暴露されてしまうとは。
「どうやら無羨の計画を台無しにしてしまったみたいだ。すまないが、当日は何も知らなかったふりをしてもらえるかい?」
頭を下げようとする藍曦臣を押し留めて、藍忘機は「大丈夫ですよ」と笑う。
彼の性格では、自分を驚かせる計画を立てられたとしても実行には移せないだろう。贈り物すら用意してもらえるか怪しいものだ。
それでも、祝おうと思ってくれたことが嬉しい。
それは嘘偽りない本心。
しかし、あわよくば祝ってほしい。
これもまた嘘偽りない本心だった。
さりげなく彼を促すにはどうしたら良いだろうか、と藍忘機は考えを巡らせる。
そして、失態に意気消沈している藍曦臣に今度は自分が頭を下げた。
「兄上。貸していただきたい本があるのですが」
蘭室に放置された深緑色の表紙の本を魏無羨が見つけるのは、この数日後のことである。