のけ者たちの夜「やはり、阿箐を避難させて良かったですね」
窓の外を眺めていた薛洋は、暁星塵の言葉に振り向いた。
普段なら数えきれないほどの星が瞬く空も今は厚い雲に覆われ、一筋の明かりもない暗闇が広がっている。泥濘んだ地面を雨粒が強く叩き、断続的に吹きつける風が義荘の窓や壁を揺らし音を立てた。
「そうだな。まだかなり降りそうだ」
暁星塵、薛洋、阿箐の三人で暮らす義荘は古く、修復も完璧とは言い難い。このままさらに雨や風が強くなれば脆くなった壁の一枚くらいなら飛ばされるだろう。
仙師ではない普通の人間の阿箐が少しでも安全なところで過ごせるよう、高台にある寺院に避難させたのはまだ雨と風が強くなる前、一昨日の昼のことだった。
「さっさと帰ってきなさいよ!道長が雨が降るって言ったら今日は絶対に雨になるんだから!ちょっと!聞いてるの!?」と阿箐に捲し立てられたのはついこの前のことだ。薛洋が自分から買い出しを引き受けた日、暁星塵から早く帰ってくるように言われ珍しさに面白がっていたらいつものようにうるさく言われた。あの時はうんざりしたが、なにかと噛み付いてくる声がないというのは変な感じだ。
暁星塵の予想通り、雨が降り出したのはその日の夕刻からだった。
「降る前に帰ってきてくれて良かったです」と安心した表情の暁星塵に迎えられ、「あんたもちゃんと道長の言うことは聞くのね」と面白くなさそうな顔で竹杖を地面に突き刺していた阿箐に言われた。不服そうにしながらも暁星塵に付き合って薛洋が帰ってくるのを義荘の入り口で待っていたらしい。
そんな二人に薛洋はなんだか胸の中がむずむずするような居心地の悪さを感じたが、決して嫌ではなかったと思い返す。
薛洋は窓を閉めると、卓の前で竹籠の修繕をしている暁星塵の隣に腰を下ろした。
「どうしました?」
「……べつに?」
夏の夜だというのに、雨のせいか肌寒い。それを良いことにふたりの間にはほとんど距離がなく、暁星塵が動く度に白い衣と黒い衣が触れ合い衣擦れの音が響く。
こんな夜には寒さや飢えに震えていた幼かった頃を思い出しひどく鬱屈した気分を味わっていたのに、ここで暮らすようになってからだ。そんなことが減ったのは。
相変わらず外は強い雨と風が吹き付けているが不思議なくらいその音が遠くなった気がして、薛洋はあぐらをかいた膝に頬杖をつき隣りにいる暁星塵の顔を眺めた。
包帯で目元を覆っていても分かる美しい顔立ち。それを眺めていると、なんだか無性に彼のくれる飴が食べたくなってしまった。
いつもひとつかふたつ、枕元に置かれているあの飴が。
「なあ、道長」
「はい」
「なあ」
「どうしました?」
「べつに?なんか用がないと呼んだらいけないってことはないだろ?」
「ふふふ。そうですね」
薛洋が何度呼んでも暁星塵は嫌な顔をするどころか優しく笑むと薛洋の方へ顔を向けた。実際には見えていないのだがこちらを見る仕草をして話に耳を傾ける暁星塵に、なんだか少しわがままを言いたくなった。
「なあ、飴くれよ」
「今日の分はもう食べてしまいましたか?」
自然と甘えた声で強請れば、暁星塵に穏やかな声で尋ねられた。
「当たり前だろ。こんな天気でなんにもすることがないんだから。朝のうちに食っちまったよ」
暁星塵が明日も明後日も飴をくれるか、時々どうしても確かめたくなってしまう。
「そうですね。明日には止むといいのですが……。これは明日の分にと思っていたんですが、今食べても良いですよ」
暁星塵は懐を探り、いつもの飴を差し出した。
「……やっぱり、明日でいい」
期待した通りの暁星塵の言葉に十分満足したのに、続けられた言葉はそれ以上のものだった。
「今日でも明日でも。君が欲しいときに」
「毎日でも?」
「ええ」
「ふーん」
薛洋はこの言葉にひどく満足して、暁星塵の隣でごろりと寝転んだ。床が硬いと文句を言い、時折彼の衣の袖をいたずらに引っ張っては他愛もないことを話す。薛洋が何かを言うと暁星塵はいつものようにころころとよく笑った。
付近の住人も高台に避難しているものが多く、いつもはうるさいほどの虫の音さえ聞こえない。ここには暁星塵と自分のふたりだけだ。
厄介者として世間から爪弾きにされるのも独りにも慣れていて今更なんとも思わないが、こんな風にともに過ごす存在がいるのは案外悪くないと思った。
脅かしても怖がるどころかすぐに言い返してくる阿箐も含めて。
夜が明ける頃、三日間降り続けた雨が嘘のように止み、空は広くすっきりと晴れ渡っていた。
「さあ、阿箐を迎えに行きましょう」
「またうるさくなるな。俺はあと二、三日くらいこのままでもいいんだけど」
「ふふふ。またそんなことを言って」
暁星塵はつい笑ってしまう。この男は素直じゃないのだ。今だって自分よりも半歩前を歩き、機嫌の良い声で話しているというのに。
「さっさと行こうぜ、道長」
「はい」
「今日はなんかうまいもん食おう」
「はい。三人で食べましょう」
暁星塵は三人で過ごす穏やかな日々に満ち足りた気持ちで隣を歩く男に笑いかけた。