幸せと地獄の象徴『誕生日おめでとう』
チョコプレートにそう可愛らしく書かれたケーキがテーブルに鎮座している。
誰の目から見てもそれが誕生日ケーキであることがわかるだろう。
今日は息子……梅春葦切の11歳の誕生日、そのお祝いのケーキだ。
普通ならなんてことはない誕生日の光景だろう。だが俺たち親子にとってこの光景は重要な意味を含んでいた。
3年前、妻である梅春鈴と、娘であり葦切の姉である梅春つぐみが……俺の為に用意したという誕生日ケーキを受け取った帰りに交通事故で亡くなってからは。
「久しぶりだね〜こうやってケーキ食べるの!」
「そうだな……。写真撮ったか?じゃあ切るぞ」
目の前の葦切はケーキを食べれるのが嬉しいのか、純粋に笑う。その様子を見ていると、子供の成長は早いなと感心する……まだたった三年しか時は経っていないと言うのに。子供と大人は時間感覚が違うからだろうか。
2月9日、ケーキ屋に寄った帰りに車に轢かれた妻と娘。葦切は偶然歩道よりにいたので助かったが、頭を打って病院に運ばれた。
連絡を受け俺はすぐに病院に向かったが、そこに居たのは医師に死亡確認を済まされ、無惨な状態となった妻娘の遺体だった。
顔もタイヤで潰れていてまともに見られないような状態だったが、辛うじて髪型や衣服、持ち物などから妻と娘で間違いないと警察に本人確認を済ませた。
今もあの妻子の遺体の姿は目を閉じると浮かんでくるくらい目に焼きついている。
事故の原因は高齢者の運転ミスという事だった。
その後のことはあまり覚えていない。
警察とある程度の確認を済ませたあと、息子の病室に向かい、おそらく浴びたであろう返り血が拭われた顔や身体と、頭に包帯が巻かれた状態で眠る葦切を見て酷く安心したことくらいだろうか。
……あいつの身体はちゃんと、まだ温かかったから。
現場にあったという潰れた誕生日ケーキ。警察によって処分されたので、箱の中身は知らないケーキ。後日妻の財布のレシートを見ると苺のチョコケーキだったらしいが。
そういえば子供のは苺の生クリームケーキなので私達の時はチョコにしようかなんて話していたっけ。
そんなもの、買ってこなければ。もしくは自分の誕生日が別の日であれば、こんな悲劇は起こらなかったのではないかと自分に嫌気が差してしまう。
……あの日から、どうしても誕生日ケーキを買う気にはなれずにいた。
でも、凰 小雛の店前を通りかかった時に葦切が『今年は誕生日ケーキが食べたい』と言うので、気乗りはしないが3年振りにあの幸せの象徴を買ったのだ。
……葦切の中でちゃんと時計の針は進んでいる、俺の勝手であいつに我慢をさせる訳にはいかない。
「ふふ、やっぱり小雛ちゃんとこのケーキは美味しいね」
「……ん、見た目。綺麗だしな」
嬉しそうにケーキを口に運ぶ葦切。きっと美味しいのだろう、あの凰が中途半端な商品を出すはずがない。
……そう、あの凰 小雛が作ったものでも、自分にはやはり味のしないスポンジを食べているような感覚しかしなかった。
……が、バレないように口に突っ込んでは飲み込んだ。
注文時に随分と喜んでくれたし、きっと張り切って作ってくれたであろう凰には悪いが、とてもまともに味わえるような精神状態ではなかった。
「ね、次はパパの誕生日もケーキ頼もうよ。出前のお寿司も良いけどさ」
「いいよ、そんなの。もういい歳した大人の誕生日なんて別に祝わなくても」
「えー、僕はやりたいよ?」
正直、今日は我慢できるとしても自分の誕生日はキツい。自分の誕生日でもあるが、あいつらの命日でもある。そんな日を祝う気には、少なくとも今はなれなかった。
葦切は気にしていないのだろうか、それとも見ていないからダメージが薄いのか?
……あの悲惨な死体袋の中身を見ていないから。
アレを思い出すと想像してしまう。
眼球なんか潰れて存在していないのに、口なんかまともに形を成していないのに。
彼女らの助けを呼ぶ声が、そしてそれに応えられなかった自分。
ああ、嫌だ。絶対に嫌だ。
2月9日にあの地獄の象徴(ケーキ)を俺に見せないでくれ。
「……何が悲しくて自分で自分のケーキ買いに行くんだよ」
「うーん……じゃあ、僕がお小遣いで買うから!小さいやつにはなると思うけど!」
「そんなのに自分の小遣いを使うな。自分の為に使いなさい」
「僕が自分のお小遣いで、自分の意志で買いたいって言ってるんだから良いじゃん!」
「いらないって言ってるだろ!」
……つい、怒鳴ってしまってすぐに後悔した。
葦切は珍しく大声をあげた俺に驚いて固まっている。
「……悪い、でも、本当に……いらないから。せめて、お前と……つぐみの誕生日だけにさせてくれ」
勝手に謝罪の言葉だけ投げて、自室に逃げる。
同じ空間にいたくなかった、そうしないとまた当たってしまいそうだから。
ああ、良くない行動だ。
世の父親はこういう時一体どうするのだろうか。
せっかくの誕生日なのに、俺がまた台無しにしてしまった。
一人には広すぎるダブルベッドに寝転がり目を閉じる。
もう当然彼女の匂いもしない。少しずつ消えていく彼女や娘の痕跡。
「はぁ……」
忘れていくのが怖い、失っていくのが怖い。
歳をとる自分、成長する息子、写真の中でそのままでいる妻と娘。差が開いていくのが悲しい。
嘆いたところでどうしようもない、現状は何も変わらない。葦切のように、切り替えて前を向いて生きて行くのが正しいことなのはわかっている。
箱の蓋は既に開いてしまった。間違いなく彼女達の死は確定されたのだ。
ああ、それでも。親としての役目も全部捨てて今の感情を素直に言うことが許されるのならば。
「……やっぱり、寂しいよ。鈴」
──……遠くで、雀の囀りが聞こえた。