魔鬼 ※注意愛情に殺人欲が混ざっていったのはいつからだっただろう。
愛しい人の身体に、硬い刃を突き立てて肉と骨を断ち切る音が聞きたくて聞きたくて堪らなくて……。
『魔女』……環堵衛の肉体をチェーンソーで引き裂いた。でも、奇跡的に死ななかった彼はオレを責めることをしなかった。
それどころか「愛してくれてありがとう」などと……。違う、オレは別にそんなことをしたいんじゃない。あんなもの愛ではない、自分の欲望をぶつけているだけだ。
あの時はたまたま生きていたが、次同じことをしたら彼が生きている保証はない。
彼の命を削る音が聞きたい欲求を紛らわせる為依頼で人を殺し、いつもよりズタズタに引き裂いた。
それでも渇きは増すばかりだった。
違う、彼を引き裂いた時の感触は、音は、振動はこんなものじゃない。
一度あの極上の悦びを味わってしまったら、他人なんかで満足できるわけもなかった。
例えどんな美しい人であろうとも、彼の代わりになどなりはしないのだ。
思えば、最初に人を殺す前もこんな葛藤があった気がする。もうすっかり人を殺すことに慣れてしまったから忘れていたけれど。
でも、この世に腐るほどいる人間達と違って環堵衛は世界に1人しかいない。一度殺せば終わり。一度極上を味わった後、もう二度とそのご馳走を食べることはできない。
──また渇いたら、その時オレはどうなってしまうんだろうか。
朝7時
今オレはアジトの個室にいる。
いつもならとっくに起きて大部屋で幽霊くんなんかと話している時間だ。
それで、起きない『天使』を起こしてきてくれ、なんて言われて……。
でも、扉を開けることができない。
開けて誰かに会えば、この衝動をぶつけてしまう気がするから。
もうそこまでオレはおかしくなりかけていた。
8時
コンコン、と扉がノックされる。
「鬼くん、起きているのかい?起きているならもう朝食ができているから食べたまえ」
──魔女くんの声だ。
多分幽霊辺りに言われて様子を見に来てくれたのだろう。
ドクン、と強くなる衝動を必死に頭を抑えて鎮めようとする。
「──ぁ…」
「……鬼くん?ん、鍵がかかっているのか。おーい開けてくれないかい?お皿が片付けられなくて困ってしまうよ!」
……ドアを開ける?
扉を開けて、魔女くんを中に入れる?
──冗談じゃない。
そんなことになったら、オレは何をするか保証ができない。
こうしてひとりきりになって、頭を抱えることでかろうじて自分を抑えつけている。
だっていうのに、あんな……
「……うる、さい」
「……え?」
「うるさいっつってんだよ!いいから一人にしてくれ!」
「………。」
彼の足音が遠ざかっていく。
どうやら諦めてくれたようだ。
でも、彼の声を聞いて高まった衝動が中々沈んでくれない。収まって、くれない──…。
だから、部屋の物にその衝動を叩きつけた。
壁を殴って、家具を蹴って、自分の荷物から仕事で使っている小型のナイフを取り出して、カーテンを斬りつける。
壁を斬りつける、扉を斬りつける、ベッドを斬りつける、斬る、斬る、壊す、斬る、壊す壊す──…!
「はぁ、あ──…!」
物を切断した時に渇きは一時的に収まる、だがすぐにその渇きは倍化する。
だからまた斬らないといけない、壊さないといけない。
あぁ、でもやっぱり、あの極上の快感にはとても及ばない……!
「ちょっと何の音!?何やってるの朏魄!」
ドンドン、と扉の向こうから声が聞こえる。
暴れる音を聞きつけて、今度は幽霊くんが声をかけに来たようだ。聞き慣れた声は、何処か知らない異国のコトバのように聞こえた。
その言葉の意味が、どうしても理解できない。
頭に入ってこない。
だから、オレは何も答えなかった。
自分の中でオレではないオレが囁く
「認めてしまえ。本当は良心なんかとっくの昔に死んでいる、気が狂った殺人鬼なんだって」
違う、違う、違う……!
オレはおかしくない、オレは狂ってなんかいない。
せっかく父親だって戻って来てくれたのに、こんなところでイカれてなんかやるものか。
魔女くんを斬りつけてしまった時だって、裏切り者ではないと言ってくれたのだから……!
でも、でも……頭に浮かぶのは。
頭に、浮かぶのは。
込み上げる衝動のままに。
生き物(彼)を、殺したくて、殺したくて……
───喉を鳴らしている、自分の姿だけ。
「うわああああああーーー!!!!!」
頭を壁に打ち付ける。
何度も何度も、額が割れそうになるまで打ち付ける。
それでも──彼をズタズタにするイメージが頭から離れてくれない。
「朏魄!?ちょっと開けてったら!朏魄!!」
どんどん、ドアを叩く音がする。
開けるわけにはいかない。開けたら、それでオレは終わってしまう。
オレは少しでも衝動を抑えつける為に、ボロボロになったベッドに頭を抱えて丸くなる。
扉の向こうで幽霊くんが騒いでいるが無視した。
何もしない、何も考えないことで心を落ち着かせることに必死だった。
数時間おきに仲間たちが様子を見に来たが同じように全て無視した。
ずっとそんなことを続け、ついに夜になろうとしていた……。
トントン、扉が叩かれる。
「朏魄くん、夕飯を持って来たから開けてくれないかな?ずっと引きこもっていても身体に悪いだろう」
魔女くんだ、オレは何も答えない。
わざわざ彼に来させたのは、オレ達の仲を知る幽霊の気遣いだろうか。でも、これは逆効果だ。……衝動で頭が、痛む。
「ふむ、こうなったら意地でも食べてもらうからな!最後の手段、マスターキーの出番だぞ!!」
ガチャリ、という音がして突然扉が開かれる。
「──ぁ」
「……ちょっとこれ、どうしたらこんなことになるんだい!?」
酷い部屋の荒れ具合を見て、魔女くんが声を上げる。
「………」
俺を全く警戒していない、無防備すぎる姿。
生々しくも瑞々しい、平均よりも白い肌。
「イライラすることは誰にでもあるとは思うが、流石にこれはヤバいんじゃないかい?お父様に怒られても私は庇えないぞ!はっは!!」
躊躇いも、強張りもなかった。
環堵衛は部屋の惨状を目の当たりにしながら、普段通りに、慎重に、言葉を選んでくれていた。
……ああ。
なるほど、と殺人鬼としてのオレが笑っている。
この男は看病に慣れている。
相手を注意しながら叱らず、笑顔で優しく歩み寄ってくる。今までさぞ人の皮を被ったケダモノの相手をしてきたのだろう。
……ああ。
抑えられない、抑えなければ。
耐えられない、耐えなければ。
この信頼を、愛情を、
善いものとまだ感じられているのなら、俺は、自分を殺してでも、自分の殻に閉じこもって──。
「に──げ、ろ」
最後に残った理性を限界まで引き上げて、なんとかそういった意味合いの言葉を口にした。
つもりだった、のに。
「ん?すまないよく聞こえなかった!もう一度言ってくれないかい」
なのに、逆効果だ。
環堵衛は安心しきって、ベッドにうずくまるオレの、身体に、顔を、寄せて、来た。
ぽん、と白い指がオレの肩に触れた。
血の透き通った指、わずかな体温。
ばちん、と頭の中で火花が散った。
──もう歯止めは、効かなかった。
彼に駆け寄ろうとする両足に力を込める、その動きを止める為に。
……だけど、それは反対の動きにしか作用しなかった。
彼を押し倒そうとする両手に力を込める、その動きを止める為に。
……だけど、その勢いは増すばかりだった。
彼を護ろうと力を込める。
……でも、その力は彼を傷つけることしかしなかった。
左手は、彼の白くて細い首を締め付けて──、止めようと辛うじて自分の意思で動いてくれた右手を使いナイフを自身の左手に何度も突き立てる。
でも、左手は動きを止めてはくれない──。
───────────。
────────。
─────。
──。
「……ははは」
自分の狂った笑い声で、意識が浮上する。
血まみれの左手と、左手を止める為に使った右手をだらりとぶら下げる。
ナイフが音を立てて床に落ちた。
目の前には環堵衛が倒れている。
それが生きているのか死んでいるのかはわからない。
「あははははは…!」
狂っている。どうしようもなく狂っている。
オレには確固たる意志があった筈なのに、自分の意思で腕一本抑えることも出来なかった。
「あはははははは!!」
もういつまで自分の意識が保つかわからない。
このままでは彼の身体をバラバラに引き裂いてしまう。
……外に、出ないと。
誰もいない檻(ところ)
誰もいない檻に行かないと、またオレは狂ってしまう。
──だが。
その前にカリッと音がした。
床を爪が掻いた音。それが血に塗れた環堵衛の指から聞こえものだと気づいて顔を上げる。
──ああ、神様に感謝したい。
彼はまだちゃんと生きて──、
「よかった、魔女く──」
ソレは折れた首のまま、ガクン、と顔をあげた。
青白い肌、生気の欠けた眼、呼吸をしない口。
そこには。
生きていないのに、生きようとしている肉塊が───!
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「うわあああああああああああ!!」
がばり、と勢いよくベッドから飛び起きる。
「……はぁ、ゆ、夢…………。」
乱れた呼吸を整え状況を確認する。ぐっしょりと嫌な汗をかいているし喉はカラカラに乾いている。
ベッドの隣には環堵衛がいた。
ああ、そうか、昨日は一緒に寝たんだっけ……。
昨日、環堵衛が自分に愛を注いでくれたことを思い出す。なのに、自分はこんな夢を見て……。
彼を傷つけて、それでもいいと受け入れてくれたのに、やはり自分は彼を殺さない保証ができない。
今は一回彼を斬れば収まっても、段々と収まらなくなってきたら?もし彼を殺す行動を何度も続けてしまったら?……彼の幸運が尽きてしまうかもしれない。
オレはそれが恐ろしくて仕方なかった。
「朏魄くん、起きたのかい」
横で眠っていた彼に声をかけられる。先程の叫び声で起こしてしまったのだろうか。
「……ごめん、起こしちゃった?」
「まあ、結構な叫び声だったからね、悪い夢でも見たのかい?顔色も悪いぞ!」
「…………君を殺す、夢を見た。」
罪悪感でなんとなく彼の顔を見れなくて、視線を合わせないまま、告げる。
「……。」
彼は少し驚いたように目を見開いた後、オレのことをそっと抱きしめる。
ああ、まだこの温もりが残っていてくれてよかったと再確認する。だって、あんな青白い肌じゃ──。
「大丈夫、そんな簡単に死なないよ。しぶといのが私の数少ない長所だからね!」
「……でも、いつか本当に殺してしまうかもしれない。そうなったら、オレはきっと耐えられない。魔女くんを失うことが耐えられない。でも、衝動を止められる自信がない」
オレはきっと、人を愛してはいけなかったんだ。今まで興味がないと言ってそういったことから避けてきたのは、無意識にこうなることがわかっていたからなんだ。
どうしようもない自分の残虐性を、愛する人に向けてしまうことが──。
「それでも、私は君のことが好きだよ。だからこのまま私の恋人でいてね。」
「君が一人で抑えることができないなら、二人で抑えよう。大丈夫、君が殺さないように頑張るように、私も死なないように頑張るから」
ドロドロに甘やかすような声で囁きながら、彼はオレの頭を撫でた。
「……………、うん」
ああダメだ。本当は今すぐにでも離れて、オレは檻の中に戻るべきなのだろう。
でも、彼の優しさに甘えてしまうのだ。
鬼の暴力を魔法でなかったことにできるのも、魔女だけなのだから。