黒い猫「あいたっ」
腕と胴に布が巻かれた小さな黒い猫に手を引っ掻かれて晴明は思わず声を上げた。
「いきなり手を出すからそんな目にあうのですよ」
赤い線が引かれた手の甲をさすりながら眉を顰めれば面白そうに道満が笑った。
いきなりも何も、猫相手に「撫でますよ」と了解をとって撫でるなど普通無いだろうと言いかけてやめた。
そんな言い訳は無意味だ。
「なんでこの猫はこんなに私が嫌いなんですかね」
そんな事を言いながらどうでも良さそうな晴明は自分が狐の血を引いてる事を思い出していた。
狐と猫は仲が悪い。というのは事実なのだろうか。
「ンンン。それはあれだけの事をしたらそうなるのでは」
それは数日前。
ある貴族の男に怪異を払うように頼まれて、道満はその邸を訪ねた。
邸は随分淀んだ空気に包まれていた。ひどく呪われているのは明らかで道満は思わず眉根を寄せた。
たまたま怪異に見舞われてしまったというより、呪われるような事をしたのだろう。
道満に頼みに来たときに男は心あたりがないと言ったがこの様子では嘘だと分かる。
―― 怪異に人間の理屈なぞ関係ないですしねぇ。一概には言えませんが ――
「入らないのかい?」
門の前で立っていた道満は聞き覚えのあるその声に驚いて思わず振り返った。
「晴明殿!? なぜここに」
「お前が怪異退治を頼まれたと聞いてね。見にきました」
「ンンン、意味が分からないのですが」
「大丈夫邪魔はしません」
「何しに来たというのです」
「だから見に来たと」
見るだけならわざわざ来なくても出来るだろうと言いかけたが、それを口にしたら見ていてもよいと言った事になる気がして言葉を飲み込んだ。
晴明は居ないものとしようと道満は小さく息をついて、邸の門をくぐる。
片足で敷地内に踏み入ったとたん、あまりの圧に動きを止めた。
目を見開いて動かない道満の横をするりと抜けて晴明が敷地に入る。
「これはこれはなかなか」
聞こえた鷹揚とした声に道満は我に返り敷地内へと進んだ。
重くのし掛かってくる怨念に道満は渋い顔をする。
払えない程ではないがかなり手強そうだ。
何をしたらこんなに恨まれるのか。
邸に辿り着くと、中から顔を引きつらせた男が飛び出してきた。
「お待ちしておりました」
道満の顔をみて表情を緩めたが、その横に立っている男をみて
「晴明殿!?」
と頓狂な声を上げた。
「道満法師だけでなく晴明殿まで来て下さるとは」
あからさまに嬉しそうにする男に道満は思わず目を細めた。
「私はただの居るだけですから何もしません」
「は?」
何を言われたのか分からないといった風情で立ち尽くす男に
「その方は放っておきなされ」
と面倒くさそうに道満は言った。
「それより、怪異を払いましょう」
男の返事も待たず道満が邸に入る。邸の空気はより重く淀んでいた。案内も待たずに進んでいく道満の後ろを男が慌ててついてきた。
行き着いた先、廊下から臨む庭に大きな黒い影が揺らめいて。
「夜になるとその庭に化け物が現れるのです」
男は眉尻を下げる。
今は男には見えないらしい。
「いますね」
「えっ」
庭の一点をまっすぐ見ている二人に男は目を向けた。
「あれはなかなか厄介そうだ。どうする道満」
「どうするも何も、あれを払うのが拙僧の役目」
「まぁそうだね」
晴明は薄くわらって簀の子の上に座り込む。
高みの見物かと内心舌打ちした。
「さて、拙僧、あれを払いはしましょう。ですがその前に。貴方はあれが何かわかっておいでですね」
冷たい目を向けられて、男うは後退り口をぱくぱくとさせた。
「知らない、私は何もしらないし、していない」
声を震わせながらそう言うと、影は一層濃くなり男に飛びかかってくる。
「ひっ」
男にも見えるようになったらしい。腕を顔にやって男が身を竦めると影との間に割って入った道満が札を持った手を差し出した。
はじけた音がして影が後方へ飛ぶ。
「ンン、あれは違うと言っているようですが」
影を見つめたまま崩れていく札を払うと、どこから出したか新しい札を手に構える。
睨み合っている影と道満の顔を交互にみてから男は震えながら
「猫の一匹や二匹……」
と、忌々しげに呟いた。
「一匹や二匹……?」
男の言葉に影を見つめながら道満は眉根を寄せる。
「一匹や二匹ですか。また随分と数が合わないね」
晴明の声には感情が乗っていなかった。
「たかが猫じゃ無いか」
二人から感じる冷たい気配に気付いて男は必死に言い募る。
「命に貴賤はありはしないでしょう。これほどに恨まれてもまだ『たかが』とおっしゃるので?」
男は今にも泣き出しそうな顔をしたが何も言わず道満の後ろ姿をみている。
男が猫と認めた為か、影は猫のような形をとる。六尺を超える道満より遙かに大きいそれを猫のようだと評して良いものかと思わないでないが。
じりじりと距離を縮めようとする怨霊を睨み付け隙を伺う。
払うのは易い。けれどただ払うだけでは猫たちが受けた非道な仕打ちは葬り去られてしまう。
―― だが、人に手を掛けてしまえば猫たちは罪を負ってしまう ――
結局払ってやることしかできない。
目色をきつくして道満は札を投げつける。札は影に接した途端爆発して身体の一部を吹き飛ばす。悲痛な叫びを上げる化け猫に道満は続けて札を投げようとして、その叫びの中に微かに混じるか細い鳴き声を聞いて思わず手を止めた。その隙をついて化け猫は土を蹴った。
「しまっ……」
身構えた道満の前面に無数の札が盾のように現れて化け猫の鋭い爪を受け止める。バチバチとはじける音。爪と札の障壁の間に火花が散る。
「晴明!」
「払いなさい道満」
「……っ!」
「他に方法はないよ」
晴明の言葉に道満が目を見開いたと同時に
「ひぃ」
動けなくなっていたはずの男が背を向けて逃げようとしたが、震えた足をもつれさせて倒れ込んだ。
化け猫は透かさず男に襲いかかろうとしたが、道満を守っていた札が猫をぐるりと囲み、そのまま輪を縮め拘束する。
縛られもがきながら恨めしげに吠える。
締められ身体を軋ませる巨大な黒い猫に道満はどうしても躊躇ってしまう。
不意に晴明が小さく息をついた。それに弾かれるように振り返ると、晴明が何か唱え二本の指をそろえた手を突き出した。
「晴明! やめっ」
勢い化け猫に手を伸ばそうとしたがその手が届くより先に、体中に張り付いていた札が一斉に燃え上がり黒い身体を吹き飛ばした。
びちゃりと四方八方に散り、庭の土を黒く汚していく数え切れない猫の骸に道満は唇を噛んだ。
―― みゃぁ…… ――
消え入りそうな細い細い小さな声に、道満は駆け寄って数匹の猫の亡骸をそっと避けると、微かに震える黒い子猫が横たわっていた。
拾い上げるとぬるりと何かが手を濡らす。見ればそれは道満の手を真っ赤に染めていた。道満の手の中で子猫は呻くように鳴いた。
「間に合ったようだね」
そう言って晴明は鷹揚に立ち上がり逃げようとしていた男の直衣の袖を踏みつけた。
「もう少しやりようがあったのでは?」
「完全に取り込まれてしまっては元も子もないだろう」
晴明の言うとおり子猫はほとんど取り込まれていた。すでに一刻を争う状況で、無傷で救い出してやることは難しいのは分かっていたが、晴明なら或いはと思ってしまった。
自分が出来ないことをこの男ならなすのでは無いかと縋ってしまったことに気付いて道満は渋い顔をした。
分かっているけれど、認めたくない。
「晴明殿」
「なんだい」
「結局何しにきたのですか」
「見に来たんだよ」
「拙僧を、ではありますまい」
怒りを抑え込もうとしている道満に晴明は一瞬視線を外して戻す。
「この家からひどい呪詛を感じてね。そのくせはっきり視ることも出来ない。この男にそんなことが出来るわけでも無し、眺めているだけでははっきりしないか直に見に来たんだよ」
「さようで」
「まさかお前が払うように頼まれてくるとは思わなかったよ」
「さ、よ、う、で」
「ははは」
「ンンン、なにも面白いことなぞありませんが」
「さて」
晴明は怯えている邸の主を見下ろしてしげしげと見つめる。
「誰ぞに頼まれた……と言うことではなさそうか」
口調の素っ気なさと反して目色はひどく威圧的だった。男はすっかり血の気が引いた顔で頭を上下に振った。
「偶然が重なった結果とは……ンンン、にわかに信じがたい」
惨たらしくズタズタにされた無数の猫たちの死体は煮詰まったかのような深く暗く重い怨念に塗れている。
まるで蠱毒のような邪悪さ。
「だが、この男があれだけの怪異を作れる技量はないね」
納得できないが納得するしかないのかと道満は唸った。
手の平にのるほど小さな猫に道満は止血の為に札を貼ってやる。
「帰りますか」
踏んでいた直衣の袖から足をどけると這々の体で晴明から離れた。
「晴明殿、後始末がまだです」
「え、私がするの」
「払ったのは貴方でしょう、最後までどうぞ」
「早くその猫の手当をしないと」
「それは拙僧がいたします」
「今なら私の邸にいい傷薬があるんだよ」
「……」
「珍しい薬草が手に入ってね」
「……」
弾む声で懐からヒトガタの札を取り出し庭へ向かって放り投げると、そこには人の姿が二人。
「後始末を」
晴明の言葉に二人は頷いて場を清めていく。
「道満、戻りますよ」
不服そうな道満に気付いていないように晴明は歩き出した。その後ろを黙ってついてくる道満の気配に、晴明は薄く笑った。
大きな手が、そっと子猫の頭を撫でた。
にゃーんと小さく啼いて目を閉じ、されるがままの様子に道満は微笑む。
飼い主にはなつかない傷だらけの猫。
喉を鳴らし道満の手に頭を擦りつけるのを見ながら晴明は
「やれやれ」
とわざとらしくそう言いながら脇息に腕を置く。
道満は子猫を引き取るつもりだったが、この猫は呪いの中死した母より生まれたのだろう。呪いに染まった傷を癒やすのは思ったより厄介で。助けた責任をと晴明が面倒を見ている、呪で編んだ布に傷薬を塗りそれを体中に巻き付けられた猫は道満の手の平に収まっていた。
「ほら」
式神に持ってこさせた重湯を匙に乗せて猫の口元に運ぶと顔を背けられた。
「まいったな。食べないと傷の治りが遅くなるばかりなんですが」
口ばかりの言葉に道満は呆れつつ晴明の手から器と匙を取り上げ子猫の口元に運ぶ。子猫は素直にそれを口にした。
微笑みながら、せっせと子猫に重湯を食べさせる道満を晴明は黙って見ていた。
空になった器に匙を入れ床に置く。
「全部食べましたね。お前は賢い猫ですね」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ撫でると猫は甘えた声で小さく鳴いた。
不意に道満の顔に影が落ちる。見上げると、いつの間にか晴明が覗き込んでいた。
晴明の手が顎に宛がわれ、近づいてくる顔に目を細める。触れるか触れないかの距離になった頃。シャーと威嚇しながら飛びかかってくる子猫をすんでで躱す。猫は床に落ちる前に道満が大きな手で受け止めた。
「よく避けられましたな」
面白そうな道満に晴明は息をついた。
「私を嫌うだけでなく、お前に近づくなとはひどい猫だ」
「私に近づかなければよいだけのことでは」
その言葉に珍しく眉根を寄せる晴明。それをみて道満は笑う。
「そういえば、この子にはまだ名前をつけてないので?」
「ここまで嫌われているのに私が名前をつけては可愛そうだ」
「さようで」
「……」
「なんです?」
「いや、何でも無い。ああ、そうだ。名前はお前がつけておあげ」
「拙僧がですか」
「お前にそれだけ懐いているんだ、その方が良いだろう」
「ンンン、名前……名前ですか」
しばらく考え込んでからおもむろに晴明を見る。
目が合ったのを確認して道満がにやりと笑う。
その様子にこれは何か悪い子とでも思いついたなと。
まぁどんな名前でも、この男が気に入ればいいと晴明は口の端をあげた。
猫のおかげで道満が自分の邸にくる言い訳ができたのだからそれでいい。
人差し指で猫の頭に触れると、案の上爪を出した手が襲ってくる。
「おっと」
白々しく言って手を引く。
そんな趣味の悪い遊びに道満は呆れて目を細めた。 黒い猫
「あいたっ」
腕と胴に布が巻かれた小さな黒い猫に手を引っ掻かれて晴明は思わず声を上げた。
「いきなり手を出すからそんな目にあうのですよ」
赤い線が引かれた手の甲をさすりながら眉を顰めれば面白そうに道満が笑った。
いきなりも何も、猫相手に「撫でますよ」と了解をとって撫でるなど普通無いだろうと言いかけてやめた。
そんな言い訳は無意味だ。
「なんでこの猫はこんなに私が嫌いなんですかね」
そんな事を言いながらどうでも良さそうな晴明は自分が狐の血を引いてる事を思い出していた。
狐と猫は仲が悪い。というのは事実なのだろうか。
「ンンン。それはあれだけの事をしたらそうなるのでは」
それは数日前。
ある貴族の男に怪異を払うように頼まれて、道満はその邸を訪ねた。
邸は随分淀んだ空気に包まれていた。ひどく呪われているのは明らかで道満は思わず眉根を寄せた。
たまたま怪異に見舞われてしまったというより、呪われるような事をしたのだろう。
道満に頼みに来たときに男は心あたりがないと言ったがこの様子では嘘だと分かる。
―― 怪異に人間の理屈なぞ関係ないですしねぇ。一概には言えませんが ――
「入らないのかい?」
門の前で立っていた道満は聞き覚えのあるその声に驚いて思わず振り返った。
「晴明殿!? なぜここに」
「お前が怪異退治を頼まれたと聞いてね。見にきました」
「ンンン、意味が分からないのですが」
「大丈夫邪魔はしません」
「何しに来たというのです」
「だから見に来たと」
見るだけならわざわざ来なくても出来るだろうと言いかけたが、それを口にしたら見ていてもよいと言った事になる気がして言葉を飲み込んだ。
晴明は居ないものとしようと道満は小さく息をついて、邸の門をくぐる。
片足で敷地内に踏み入ったとたん、あまりの圧に動きを止めた。
目を見開いて動かない道満の横をするりと抜けて晴明が敷地に入る。
「これはこれはなかなか」
聞こえた鷹揚とした声に道満は我に返り敷地内へと進んだ。
重くのし掛かってくる怨念に道満は渋い顔をする。
払えない程ではないがかなり手強そうだ。
何をしたらこんなに恨まれるのか。
邸に辿り着くと、中から顔を引きつらせた男が飛び出してきた。
「お待ちしておりました」
道満の顔をみて表情を緩めたが、その横に立っている男をみて
「晴明殿!?」
と頓狂な声を上げた。
「道満法師だけでなく晴明殿まで来て下さるとは」
あからさまに嬉しそうにする男に道満は思わず目を細めた。
「私はただの居るだけですから何もしません」
「は?」
何を言われたのか分からないといった風情で立ち尽くす男に
「その方は放っておきなされ」
と面倒くさそうに道満は言った。
「それより、怪異を払いましょう」
男の返事も待たず道満が邸に入る。邸の空気はより重く淀んでいた。案内も待たずに進んでいく道満の後ろを男が慌ててついてきた。
行き着いた先、廊下から臨む庭に大きな黒い影が揺らめいて。
「夜になるとその庭に化け物が現れるのです」
男は眉尻を下げる。
今は男には見えないらしい。
「いますね」
「えっ」
庭の一点をまっすぐ見ている二人に男は目を向けた。
「あれはなかなか厄介そうだ。どうする道満」
「どうするも何も、あれを払うのが拙僧の役目」
「まぁそうだね」
晴明は薄くわらって簀の子の上に座り込む。
高みの見物かと内心舌打ちした。
「さて、拙僧、あれを払いはしましょう。ですがその前に。貴方はあれが何かわかっておいでですね」
冷たい目を向けられて、男うは後退り口をぱくぱくとさせた。
「知らない、私は何もしらないし、していない」
声を震わせながらそう言うと、影は一層濃くなり男に飛びかかってくる。
「ひっ」
男にも見えるようになったらしい。腕を顔にやって男が身を竦めると影との間に割って入った道満が札を持った手を差し出した。
はじけた音がして影が後方へ飛ぶ。
「ンン、あれは違うと言っているようですが」
影を見つめたまま崩れていく札を払うと、どこから出したか新しい札を手に構える。
睨み合っている影と道満の顔を交互にみてから男は震えながら
「猫の一匹や二匹……」
と、忌々しげに呟いた。
「一匹や二匹……?」
男の言葉に影を見つめながら道満は眉根を寄せる。
「一匹や二匹ですか。また随分と数が合わないね」
晴明の声には感情が乗っていなかった。
「たかが猫じゃ無いか」
二人から感じる冷たい気配に気付いて男は必死に言い募る。
「命に貴賤はありはしないでしょう。これほどに恨まれてもまだ『たかが』とおっしゃるので?」
男は今にも泣き出しそうな顔をしたが何も言わず道満の後ろ姿をみている。
男が猫と認めた為か、影は猫のような形をとる。六尺を超える道満より遙かに大きいそれを猫のようだと評して良いものかと思わないでないが。
じりじりと距離を縮めようとする怨霊を睨み付け隙を伺う。
払うのは易い。けれどただ払うだけでは猫たちが受けた非道な仕打ちは葬り去られてしまう。
―― だが、人に手を掛けてしまえば猫たちは罪を負ってしまう ――
結局払ってやることしかできない。
目色をきつくして道満は札を投げつける。札は影に接した途端爆発して身体の一部を吹き飛ばす。悲痛な叫びを上げる化け猫に道満は続けて札を投げようとして、その叫びの中に微かに混じるか細い鳴き声を聞いて思わず手を止めた。その隙をついて化け猫は土を蹴った。
「しまっ……」
身構えた道満の前面に無数の札が盾のように現れて化け猫の鋭い爪を受け止める。バチバチとはじける音。爪と札の障壁の間に火花が散る。
「晴明!」
「払いなさい道満」
「……っ!」
「他に方法はないよ」
晴明の言葉に道満が目を見開いたと同時に
「ひぃ」
動けなくなっていたはずの男が背を向けて逃げようとしたが、震えた足をもつれさせて倒れ込んだ。
化け猫は透かさず男に襲いかかろうとしたが、道満を守っていた札が猫をぐるりと囲み、そのまま輪を縮め拘束する。
縛られもがきながら恨めしげに吠える。
締められ身体を軋ませる巨大な黒い猫に道満はどうしても躊躇ってしまう。
不意に晴明が小さく息をついた。それに弾かれるように振り返ると、晴明が何か唱え二本の指をそろえた手を突き出した。
「晴明! やめっ」
勢い化け猫に手を伸ばそうとしたがその手が届くより先に、体中に張り付いていた札が一斉に燃え上がり黒い身体を吹き飛ばした。
びちゃりと四方八方に散り、庭の土を黒く汚していく数え切れない猫の骸に道満は唇を噛んだ。
―― みゃぁ…… ――
消え入りそうな細い細い小さな声に、道満は駆け寄って数匹の猫の亡骸をそっと避けると、微かに震える黒い子猫が横たわっていた。
拾い上げるとぬるりと何かが手を濡らす。見ればそれは道満の手を真っ赤に染めていた。道満の手の中で子猫は呻くように鳴いた。
「間に合ったようだね」
そう言って晴明は鷹揚に立ち上がり逃げようとしていた男の直衣の袖を踏みつけた。
「もう少しやりようがあったのでは?」
「完全に取り込まれてしまっては元も子もないだろう」
晴明の言うとおり子猫はほとんど取り込まれていた。すでに一刻を争う状況で、無傷で救い出してやることは難しいのは分かっていたが、晴明なら或いはと思ってしまった。
自分が出来ないことをこの男ならなすのでは無いかと縋ってしまったことに気付いて道満は渋い顔をした。
分かっているけれど、認めたくない。
「晴明殿」
「なんだい」
「結局何しにきたのですか」
「見に来たんだよ」
「拙僧を、ではありますまい」
怒りを抑え込もうとしている道満に晴明は一瞬視線を外して戻す。
「この家からひどい呪詛を感じてね。そのくせはっきり視ることも出来ない。この男にそんなことが出来るわけでも無し、眺めているだけでははっきりしないか直に見に来たんだよ」
「さようで」
「まさかお前が払うように頼まれてくるとは思わなかったよ」
「さ、よ、う、で」
「ははは」
「ンンン、なにも面白いことなぞありませんが」
「さて」
晴明は怯えている邸の主を見下ろしてしげしげと見つめる。
「誰ぞに頼まれた……と言うことではなさそうか」
口調の素っ気なさと反して目色はひどく威圧的だった。男はすっかり血の気が引いた顔で頭を上下に振った。
「偶然が重なった結果とは……ンンン、にわかに信じがたい」
惨たらしくズタズタにされた無数の猫たちの死体は煮詰まったかのような深く暗く重い怨念に塗れている。
まるで蠱毒のような邪悪さ。
「だが、この男があれだけの怪異を作れる技量はないね」
納得できないが納得するしかないのかと道満は唸った。
手の平にのるほど小さな猫に道満は止血の為に札を貼ってやる。
「帰りますか」
踏んでいた直衣の袖から足をどけると這々の体で晴明から離れた。
「晴明殿、後始末がまだです」
「え、私がするの」
「払ったのは貴方でしょう、最後までどうぞ」
「早くその猫の手当をしないと」
「それは拙僧がいたします」
「今なら私の邸にいい傷薬があるんだよ」
「……」
「珍しい薬草が手に入ってね」
「……」
弾む声で懐からヒトガタの札を取り出し庭へ向かって放り投げると、そこには人の姿が二人。
「後始末を」
晴明の言葉に二人は頷いて場を清めていく。
「道満、戻りますよ」
不服そうな道満に気付いていないように晴明は歩き出した。その後ろを黙ってついてくる道満の気配に、晴明は薄く笑った。
大きな手が、そっと子猫の頭を撫でた。
にゃーんと小さく啼いて目を閉じ、されるがままの様子に道満は微笑む。
飼い主にはなつかない傷だらけの猫。
喉を鳴らし道満の手に頭を擦りつけるのを見ながら晴明は
「やれやれ」
とわざとらしくそう言いながら脇息に腕を置く。
道満は子猫を引き取るつもりだったが、この猫は呪いの中死した母より生まれたのだろう。呪いに染まった傷を癒やすのは思ったより厄介で。助けた責任をと晴明が面倒を見ている、呪で編んだ布に傷薬を塗りそれを体中に巻き付けられた猫は道満の手の平に収まっていた。
「ほら」
式神に持ってこさせた重湯を匙に乗せて猫の口元に運ぶと顔を背けられた。
「まいったな。食べないと傷の治りが遅くなるばかりなんですが」
口ばかりの言葉に道満は呆れつつ晴明の手から器と匙を取り上げ子猫の口元に運ぶ。子猫は素直にそれを口にした。
微笑みながら、せっせと子猫に重湯を食べさせる道満を晴明は黙って見ていた。
空になった器に匙を入れ床に置く。
「全部食べましたね。お前は賢い猫ですね」
慈愛に満ちた笑みを浮かべ撫でると猫は甘えた声で小さく鳴いた。
不意に道満の顔に影が落ちる。見上げると、いつの間にか晴明が覗き込んでいた。
晴明の手が顎に宛がわれ、近づいてくる顔に目を細める。触れるか触れないかの距離になった頃。シャーと威嚇しながら飛びかかってくる子猫をすんでで躱す。猫は床に落ちる前に道満が大きな手で受け止めた。
「よく避けられましたな」
面白そうな道満に晴明は息をついた。
「私を嫌うだけでなく、お前に近づくなとはひどい猫だ」
「私に近づかなければよいだけのことでは」
その言葉に珍しく眉根を寄せる晴明。それをみて道満は笑う。
「そういえば、この子にはまだ名前をつけてないので?」
「ここまで嫌われているのに私が名前をつけては可愛そうだ」
「さようで」
「……」
「なんです?」
「いや、何でも無い。ああ、そうだ。名前はお前がつけておあげ」
「拙僧がですか」
「お前にそれだけ懐いているんだ、その方が良いだろう」
「ンンン、名前……名前ですか」
しばらく考え込んでからおもむろに晴明を見る。
目が合ったのを確認して道満がにやりと笑う。
その様子にこれは何か悪い子とでも思いついたなと。
まぁどんな名前でも、この男が気に入ればいいと晴明は口の端をあげた。
猫のおかげで道満が自分の邸にくる言い訳ができたのだからそれでいい。
人差し指で猫の頭に触れると、案の上爪を出した手が襲ってくる。
「おっと」
白々しく言って手を引く。
そんな趣味の悪い遊びに道満は呆れて目を細めた。