Forget me not「忘却とは生き物に備わった防衛機能である」というのは誰の言葉だったか。
何かのテレビ番組か、自室に積み上げた書籍の山のどこかで見かけた一文か。それすら“忘却”している自分を棚に上げ、スティーヴン・グラントはそれを寂しいと考えた。
物を覚えるのは好きだ、ただ興味関心の矛先にない物に関してはその限りでないだけで。古代の文明を治めたファラオの名を即位順に淀みなく言い連ねる事はできるが、レジ打ちの手順だの、品出しのタイミングだのは何度聞いても覚えられなかったし、上司の嫌味もベッドに入る頃には脳の隅に追いやられている。
そう思えば確かに防衛機能とはよく言ったものだと納得はするが、それでもふと沸いた寂しさはこびりついて拭えない。何かを忘れたことに気付くたび、スティーヴンはそうして代わりに寂しさを覚えていった。
忘れられたら自分はいないものになってしまうのが怖いのだと思う。スティーヴンは自身がマーク・スペクターの副人格のひとつだという自覚よりも自分は自分であるという感情を強く抱いている。しかし、それを確立できる公的な証明はなにも無い。誰も自分を知らなければ、世界に存在しないのと同じ事だ。
だが、たとえ相手がほんの20秒向かい合っただけのコーヒーショップのアルバイトでも、自分を覚えていてくれるかぎり、自分はここに居たというあかしになる。それは、“スティーヴン・グラント“という人間が本来存在しないこの世界において、スティーヴンが今ここに居ることの唯一の証左だ。誰かがスティーヴンを覚えていてくれ、名前を呼んでくれることだけが、自身の実在のよすがなのである。
「不安定だなあ」
『なんだ、突然』
空気まで凍てつくような澄んだ夜、降りくる月の光を受け白く発光する背広でビル街の屋上を駆ける。つい口から出たぼやきの代わりに上空で冷やされた空気が侵入し肺が悲鳴を上げた。
姿の見えない機嫌の悪そうな低い声は無視して地上数十メートルで途切れる足場に構わず踏み切り跳び上がると、どこからか吹いた都合の良い上昇気流が背を押し上げる。内蔵が浮く感覚に思わず空を仰げば、スパンコールを散らした夜空に落ちていく。今だけ世界はスローモーションだ。
ガシャン、と音を立て、目測通り向いのビルのフェンスの縁に足がかかる。そのまま慣性に頼って上半身の重心を大きく振れば身体は屋上という安全圏に放り込まれ、肩から降りる覚えたての受け身を取れば無事着地。大ジャンプは成功した。
『気を抜くな、スティーヴン』
しかし考え事は見抜かれていたようで、見事な走り幅跳びを披露しても隣に立つ襤褸を纏った古代の神の声は刺々しかった。この神の命に従い、『制裁』なんて仰々しい建前を与えられた人殺しを終えてスティーヴンはここにいる。
「僕はいつでも大真面目だよ、コンス」
立ち上がってスラックスの裾をはたきながら軽口を返す、何度目かわからないやりとり。飛び越えた空を振り返ると、コンスの嘴もコンパスのように振れスティーヴンが見つめる先を指した。
黒い街と黒い空のあわいが赤く燃える、夜が終わる。それは命の尽きようとする人間が血を流していく光景によく似ていて、他人の頭蓋骨を砕いた数時間前の不快感をスティーヴンの手のひらに嫌でも呼び起こさせる、何度目かわからない夜明けだった。
スティーヴンはマークの事を考える。自分よりもずっと長い間この色を見てきたのだ。マークは全員を覚えていると言っていた。船に積まれた彼の記憶たち、彼が裁いた罪人、殺した人間、それを見つめるマークの横顔をスティーヴンは見た。そして初めて1人で“制裁”を果たした時、忘れないことは永劫の責め苦にもなるのだとスティーヴンは理解した。とうてい、彼らを忘れられそうになかった。
そうしてまた考える。そうやって誰かの記憶に刻み込まれ、赤い夜明けを見るたびに思い出す人間たちよりも、ともすれば自分の方がはるかにあやふやな存在かもしれないのだ。スティーヴンは砂漠に足を取られるような錯覚に襲われた。
『夜に血が流れれば、東の空は赤く染まるものだ』
見透かしたようなコンスの声にスティーヴンの意識は浮上する。
「適当なこと言うな」
大気にちりだの水蒸気だのが多い日の朝日は赤いんだ、雨が降るだけだよ。捲し立てたのは己の不安に勘付かれたのを誤魔化したかったからだ。
『命を奪うのは恐ろしいか、スティーヴン・グラント』
「…誰だってそうだろう」
『人とはそうあるべきだ』
慰めのつもりなのか、変わらない声色からその考えは読み取れない。普段は碌に返事もよこさないくせに、気まぐれなのかコンスはたまにこうして会話を試みようとする。心を探られるようでいつもは軽口で躱してきたが、今日は付き合っても良いかと考えた。スティーヴンは少しだけ寂しかったからだ。
「マークは全員覚えていた」
『…お前は?』
「忘れられそうにないな」
『苦痛とは、記憶の深くに切りつけられた傷だ』
コンスの指がスティーヴンの左胸をさす。古代、記憶を司るのは人の心臓だった。
『お前たちが制裁を苦痛と感じる限り、お前たちの記憶に膿んだ傷として残るだろう』
「人殺しに慣れろって言ってる?」
『違う』
『傷の付かない人間に、私の化身たる資格はない』
頭に響く無感動なコンスの言葉にスティーヴンは閉口した。永遠に傷付き、苦しみに蝕まれながら戦えというのか、この神は。
「…お前、本当に最悪だ」
声に嫌悪が滲む。
「僕らを、マークをなんだと思ってるんだ」
『何度も言わせるな、お前たちはみな我が化身だ』
「お前が手を汚さない代わりに僕らの心に血を流させ使い捨ててるだけだろう!」
『…好きなように捉えろ』
「このクソ野郎」
最悪だ。指先から冷えて行く怒りを追いながらスティーヴンは後悔した。こんな奴と話なんかするんじゃなかった。
「ハロウも馬鹿野郎だったけどあんたを見限った判断にだけは同意するよ」
『では奴のように力を手放すが良い。お前たちは安寧を得て、私は代わりの人間を見繕うだけだ』
淡々と打ち返される、感情の汲み取れない言葉。この残酷な神は幾度となく同じ言葉を吐き続けてきたのかとスティーヴンは未だ冷静な意識の一部で想像した。そして哀れな化身たちは同じ答えを返したんだろう。
「…僕はどこかのクソ鳥と違って他人に苦痛を押し付ける事なんかしない」
『それで良い』
あらかじめ返答を知っていたような起伏のない態度も余計に神経を逆撫でた。スティーヴンはせめて呪いを込め、コンスに告げる。
「でも、お前には同じ苦しみを与えてやりたい」
この神が使い捨ててきた、その他大勢と同じになんかなりたくなかった。
「いつか必ず、お前の心臓に僕らの痛みを刻んでやる」
コンスの頭蓋が少しだけ揺れ、嘴のふちがちらと光る。
『…覚えていよう』
瞬間、白い閃光がスティーヴンの視界を刺す。いつのまにか地平に昇り切った太陽が、血赤の夜明けなど無かったかのように、清浄な光で眼下の街とスティーヴンを照らしていた。ひらけたビルの屋上は陽の光に輝き、そこに月の神はもういない。背から吹く冷えた風がコンクリートの床を撫で、スティーヴンは朝に取り残されていた。