座学時代の二人「何か欲しいものはあるか」
微睡みの中、そう聞かれた。藍忘機の指は魏無羨の髪を梳いていて、それなのに視線は不自然に逸らされ、開け放たれた窓の外を見ている。
「欲しいもの?」
聞き返した魏無羨の声は、掠れていた。火照った身体に体温の低い藍忘機の手のひらは心地よくて、ぎゅっと掴んで頬を擦り寄せると、藍忘機はびくりと肩を震わせた。緊張して力が入るのも、魏無羨を嫌がっているのではなくただ照れているのだと、今はもう知っている。
「俺の機嫌を取るつもり? 貢ぎ物をすれば、俺への無体は許されるって思ってるのか?」
「ちがっ……!」
「冗談だよ。そんなにムキになるなって」
藍忘機と静かに言葉を交わしていると、とろりと思考が溶けて、瞼が重くなる。今にも眠りに落ちそうな魏無羨に、藍忘機は息をつく。眠りを許すように目の上に手のひらを被せられると、暗くなった視界にさらに意識が曖昧になる。
ふあっと大きく欠伸をして、魏無羨は深くて息を吐き出した。
沈んでいく意識に逆らわず目を閉じると、優しく頭を撫でてくれる藍忘機に言葉を返した。
「天子笑……のみたい……」
そんな、在り来りなただの睦言だと思っていたのだ。
今日は藍先生がどうしても外せない仕事があるからと座学は休みで、そして珍しいことに藍忘機が外出していた。
魏無羨達はこれ幸いにと好き放題騒いで、釣りに狩りに酒盛りにと遊び尽くした。
そして午後も遅くなった頃合いに、藍忘機が帰ってきた。魏無羨は静室に向かう彼を見つけると、目を輝かせて纏わりつく。
「藍湛! 藍兄ちゃん!」
大きな声を出して呼ぶと、藍忘機はいつものしかめっ面で振り返った。どうせ、雲深不知処で大声は禁止だと諌めるのだろう。もう慣れっこな魏無羨は藍忘機が口を開く前に、ふと彼が手に持っているものに目をつけた。
「それなんだ?」
魏無羨が藍忘機の持っているものに気がついたのがわかると、藍忘機は咄嗟にそれを背中に隠した。だけど、目敏い魏無羨を誤魔化すことは出来ない。藍忘機が持っているものは、魏無羨がずっと喉がひりつくほど飲みたくて仕方がない天子笑なのだから!
「藍湛、どうしてお前がそんなものを持っているのかな」
「っ……」
「雲深不知処で飲酒は禁止なんじゃないのか? それを、まさか懲罰担当であるお前が破るなんて」
あの藍忘機が掟を犯しているだなんて周りに知られるのは不味いだろう。藍忘機にぐっと近づいて、彼にだけ聞こえる声で詰ると、藍忘機の肩に力が入る。
耳は赤く染まっていて、それでも顔は青ざめている。今にも卒倒しそうなほど緊張している藍忘機が少し可哀想に思えて、魏無羨は雲夢の弟弟子にするように肩をなでてやった。
「なんでこんなことをしたんだ?」
声を和らげ、優しく聞いてやると、藍忘機の肩から力が抜ける。
それでも魏無羨とは目を合わせずに固くなっている藍忘機をじっと待てば、藍忘機は今度は赤らんだ目で魏無羨を睨んできた。
「君が……」
「俺? 俺がなんだよ?」
「君が、飲みたいと言ったから」
藍忘機の声は小さかった。だけどしっかり何を言ったのか聞き取った魏無羨は、その返答に目を見開いた。
「俺の所為だって言うのか!?」そう叫ぼうとして、喉に言葉が詰まってしまう。確かに、天子笑を呑みたいと言った記憶はある。だけど、藍忘機が本当に買ってくるとは思わなかった。
だって、酒を持ち込むのは家規で禁止されている。誰よりも石頭なこの男が、自ら酒を買ってきて、更にそれが魏無羨の為だなんて。
その意味を理解して顔を真っ赤にした魏無羨を前に、藍忘機も照れたように俯いていた。
「藍湛」
「……うん」
魏無羨の掠れた呼びかけに、藍忘機はぴくりと身体を跳ねさせる。天子笑を持つ指にぎゅっと力が入ったのを見て、魏無羨は薄く苦笑を漏らした。
「ありがとう」
「……うん」
溢れ出る笑みをそのまま顔に浮かべて、感謝の言葉を述べる魏無羨に、藍忘機も眩しそうに目を細めて小さく頷く。
きっと無体を働いている罪滅ぼしなのだとしても、藍忘機が家よりも魏無羨を大切に思ってくれているみたいで嬉しかった。恥ずかしい時に耳を真っ赤にするのも、無表情のままだけど動揺すれば心臓の音が早くなることも、今はまだ魏無羨だけが知っている。藍忘機がどうして魏無羨を犯すのかも、魏無羨のことをどう思っているのかも分からないが、今はそれでいいと思えた。
静室へと静かに戻っていく藍忘機の後に、魏先輩も続く。
今夜は、藍忘機に酒を飲ませてみようか。魏無羨がねだれば、藍忘機は酒を飲んでくれるだろうか。膨れ上がる期待を胸に、魏無羨は藍忘機の隣に並んだのだった。