無配のアクスイの話 届く手紙はだいたいが検閲済みで、だいたいが心穏やかに読めるものだった。
別に、フィガロ宛ての手紙に危険物が封入されていたことはない。少なくとも、フィガロが見た中にはなかったし、あったという報告もない。当然あっても言えるわけないのは、承知している。
だからなにもこの手紙に悪いことが書かれているとも思っていないのだ。ただ、双子社長からじきじきに、「これとっても重要なやつだから!」「適当に読んじゃだめだから!」などと言われて、嫌な予感がしているだけ。
それに差出人にも心当たりがある。以前仕事をした映画監督とそのときの脚本家、それから、こちらも何度か携わったことがある舞台監督だ。
強いて言うなら、連名で来ているという点が、フィガロの開封の手を鈍らせている要因かもしれないが。
とりあえずコーヒーを淹れる。本当はワインを飲みたいが、仕事中と考えればやめておくのが妥当だろう。手紙を読むだけ読んで、社長たちには朝に送信されるよう返信を作って、とのちの行動を決めつつも封を切った。
それから数時間経過して、フィガロはどれも実行できないでいる。
ワインとグラスをテーブルに置いて、飲もうとして、まだ注いでもいない状態だった。
酷い内容だったわけではない。ちょっとひとりで悩みたい問題だった。いや、本来悩むこともないのだけど。と、組んだ足の先を揺らしていると、背後から声がかかる。
「あれ、フィガロさん?」
「……ファウスト。どうしたの、こんな遅くに。今帰り?」
遅く、と言ったあとで見た時計は深夜二時をとうに過ぎている。思ったよりぼうっとしていたことに驚きつつも、先輩としての心配が勝ってファウストを窺った。
撮影でもここまでの時間にはそうそうならない。この子に限ってスキャンダルなどないだろうが、と確認も込めて訊ねてみる。
「どこかで酔いつぶれてたとか?」
「そんなことしませんよ。お酒は節度を持って嗜んでいます」
「ならよかった。じゃあタクシーでも呼ぶ? さすがに歩いては帰らないでしょう」
ファウストに嘘がなさそうなのをたしかめて、スマホを掲げて見せる。たまたま誰かが住んでいるマンションの手前を通っただけで、質の悪い写真を取られるのがこの世界だ。用心に越したことはない。当然ファウストもわかっているはずだから、フィガロが掲げたスマホを操作して手配をはじめてしまう前に、自分から配車してくれるだろう。
このまま、客室に泊らせるのが一番安全だと理解したうえで、フィガロは提案していたのだが。
ファウストがそれを指摘しないことにかけていた。この子は察しがいいから、あえて勧めなかったのだと理解してくれるはず。
けれど、ファウストは「いえ」とはっきり言って、フィガロが座るソファーまで歩みよってきた。
「まだ帰りません。双子からフィガロさんの様子を見てきてくれと頼まれたんです」
「……それ、いつ?」
「ついさっき」
「どこで」
「マンションのエントランスで」
唖然としたフィガロは、咄嗟にサクリフィキウムを探す。双子のデスクの上で呑気に欠伸をしているあれが、いつからそこにいたのかを思い出そうとして、諦めた。あの双子、と呻きそうになり、すんでのところ飲み込む。今気にするべきは、それじゃない。
苦い顔をするフィガロを見て、ファウストは明らかに困っていた。言われた通りにやってきて歓迎されないなら、困惑する。フィガロは溜息をついて見せて、ファウストを見ると眉を下げた。
「いやあごめんね、別にたいしたことじゃないんだ。ほら、最近ワインの減りが速いからって、深酒を疑われちゃってさ」
ばれちゃった、とばかりに肩を竦める。実際毎日飲んでいる。嘘ではない。
けれど、ファウストはむっと眉宇を寄せて、フィガロの隣りに座るのだ。急いでもってきたのか、ほとんど中身がないような鞄を反対側に下ろして、膝ごとフィガロに向けて背筋を伸ばす。
「話をきいてこいともいわれました。なにか、僕に話があるんじゃないですか?」
「あー……なるほどね」
「やっぱりあるんですね」
「まあ、ある。うん、めちゃくちゃあるよ。あるんだけど」
背凭れに寄りかかりながら、フィガロは天井を眺めた。双子め、内容を知っていたな。いや社長だから不思議はない。だとしてもだ。
フィガロは横目でファウストを盗み見て、それから身を起こすと机上の便箋に目を落とす。さて、どう言おうと切り出し方を模索する。
手紙の内容といえば、なんてことはない、仕事の話だ。ただ、今回はただのオファーではなく、厳密にいうとそのずっと前の段階。作成許可のようなものだった。
本来、いち俳優にそんなお伺いがくることはないのだが、読んでみるとなるほど、フィガロの確認を取りたくなる心情も理解できる。
端的に言うと、それはフィガロが主演を務めた映画の舞台化の打診だった。そして、製作側がなにを気にしているかというと、その脚本があてがきだったからである。
なにもこの業界であてがきが珍しいわけではない。ただその時の監督と脚本が妙に熱を入れていたので、半分くらいの台詞が調整されたのを憶えている。もはや自分も脚本作成に名がのるのでは? などとよぎるくらいには、事あるごとに意見を求められた。
結果としてかなりのヒットを記録できたからいいものの、これで目も当てられない状況だったなら、フィガロは一生脚本に意見を言えなくなっていただろう。
そんな思い入れがある作品の舞台化の話だった。そんなことを、掻い摘んでファウストに話す。それから、フィガロは目を伏せる。
「正直、迷ってるんだ」
ワインをしまい、紅茶を片手にフィガロは呟く。
「俺的には、望んでくれる人がいるなら、ぜひやってほしい。でもいざやっていいかを俺に訊かれると、ちょっと困っちゃって」
「なにに困るんです」
「主演が誰になるか」
この一言で、賢いファウストはあっと目を見開く。舞台経験が豊富な彼には、かなしいかな、身近なことなのだろう。
つまり、比較されてしまうわけだ。フィガロと、舞台版の主演が。
そんなことを気にするなら、この世界に向いていない。それを乗り越えての役者だろう。もっともだ。フィガロもおおかた同意見である。けれどなまじあてがきで、自分の影が濃すぎるから、後ろめたくなる。
映画と舞台の作法が違うのもわかっている。理解しているし、体感もしている。その上で心が重くなってしまうのだから、しかたがないだろう。
それに、いざやるとなって、だれも受けてくれなかったら、寂しいではないか。
なんて、想いがある。少しだけ。きみはどう、と問いたくなるのを、フィガロは想像に止めておいた。
そんなフィガロの刹那の笑みに、ファウストは気息を整える。紅茶を一口、深呼吸をして、「僕は、」と言う。
「それでもやってほしいです。舞台でフィガロさんの役を観たい」
これは、ファン目線になってしまうかもしれませんが。と、肩を縮こまらせて、しかしすぐにファウストは面を上げた。
「僕なら、やってみたいと思います。きっとどんな役者も、あなたを比べられるのを覚悟して、引き受けてくれるでしょう」
そう、フィガロをまっすぐに見詰めるきらきらしい瞳に、胸が高鳴るのをフィガロは自覚する。しかし同時に心臓は冷えるのだ。ときめいたまま、凍えるように。
ファウストなら、そういってくれると思っていた。
フィガロもファウストになら演じられるだろうと思っている。
いいや。本音をいうと、ファウスト以外は嫌だとさえ思っていた。
だからこそフィガロは舞い上がってはいけないのだ。すぐに手を取ってはいけない。
だって、ファウストは役に引っ張られてしまうから。
現に、今だって。呼び方や語調こそいつものとおりだが、口調は役のものになっているではないか。フィガロ本人ではないにせよ、これはなかなかフィガロに迫る役だ。そんな役を演じた彼が、どうなるのかを、見ていられる自信がない。
ファウストの特性に口をだすつもりも、ましてや役を制限する権利も意思もない。これはたんなるフィガロの我儘だ。幼子の駄々のほうが、近いかもしれないが。
好きな子が、自分のせいで苦しむのを見たくない。
きっと、なにかの台詞なら、陳腐すぎて赤が入ることだろう。
フィガロはファウストの言葉におどけてみせる。
「じゃあ、本当にきみが主演を務めてくれる?」
言外に、おまえができるのか、と乗せて。
ああ、これで怯んでくれればよかったのに。
ファウストはフィガロから一切目を逸らすことなく、凛然とした笑みを湛え、フィガロの意地悪も飲み込んだうえで、「ああ」と、楽しげすら聞こえる声で告げる。
「もちろん。僕が持ちうるすべての力で演じて見せるよ」
いつのまに、と思う。いつのまに、役から抜け出したのだろう。
すっかり取り戻したファウスト自身のきらめきに、フィガロもうなんだか参ってしまっていた。
この子なら、もしかしたら、本当に期待に応えてくれるのかも。そんな甘やかな想いで簡単に絆されてしまう。
「なら、ファウストに決めた。きみにこの役を託すよ」
「それは気が早いです。これだけの名作、オーディションになるでしょう」
名を売るためにはもってこいだから、各事務所が売り出したい新人を応募してくるだろう。その中にダイヤの原石がいることを、フィガロも双子社長もよく知っているはずだ、と。
実力がたしかな者にはオファーがいくだろうがそれだけで、八百長はない。ファウストはそれでも主演を勝ち取るだろうが、いやだからこそ、フィガロは安心して他の選択肢を採る。
「いいや? 主演はきみ。それ以外なら、この話は無しだ」
「…………は?」
「あれ、聞こえなかった? 主演はきみで、」
「いや聞こえていたけどっ」
取り乱すファウストにフィガロは人好きのする微笑みで応える。
「この話の一番重要なところはね、『フィガロさんから見て、主演に適任がいれば』ってとこなんだ」
監督曰く「これはフィガロがいてこそ完成する作品だ。だから、あなたから見て、主演を務められる人を探してほしい。いなけれは、白紙に戻す」なかなか責任重大な話だったのだ。
最初、双子がファウストを差し向けてきたときは、絶対に話を受けろとの圧力だと感じて正直頭に来ていた。この子の性格まで利用して、深夜にもかかわらず、呼びつけて。
フィガロがファウストを推薦すると理解しての策なのが、とても苛立たしかったし、なにより双子にばれているのが、悔しくも思えていた。
けれど実際はどうだ。ファウストはこんなにも凛々しくて、頼もしい。
フィガロは心底安堵して、心からの感謝と信頼を寄せて瞳を蕩かせた。
「たのんだよ、ファウスト。俺も、きみが演じる俺の役を観たい」
最初は嵌められたと言わんばかりに唇を噛んでいたファウストも、フィガロにこう言われては、初々しく頬を染めるのだ。
「絶対に観に来てくれる?」
「絶対だ。こけら落としも、千穐楽も必ずいく」
関係者として招待席は用意されるだろうが、できるならどこかの一公演だけでも、自力でチケットを取りたいと思う。ファウストの、ひとりのファンとして。
そして、ファンとして観に行ったら、その日の日付で手紙を書くのだ。他の手紙にこっそりと混ぜて、ファウスト以外には決して読まれぬように。
そこまでしなくていいよ、とファウストは微苦笑するが、フィガロは割と本気である。なにせ大好きな後輩なので。
「信じてないね。悲しいなあ」
「あなたの忙しさは同じ事務所の僕もよく知っているからな」
「そこは調節するさ。双子社長もこれくらい許してくれるよ」
ちょっと真面目っぽく声を潜めれば、ファウストは控えめに、それでいてたしかに喜んでくれていた。
「なら、幕が上がるとき、期待しているよ」
「もちろん。あ、稽古って行った方がいい?」
「やめてくれ」
言い終わらないかどうかに被せられた言葉に、ファウストは失態を恥じて目を逸らす。「いや、監督の指名とかがあるなら別だけど」と、弁明をして、それから。
「ちゃんと演じてみせるから、待っていてほしいんだ。……不安かも、しれないけど」
「そんなことない!」
フィガロはソファーに手をついて、ファウストに詰め寄った。その距離で、じっと目を見詰め、呼吸を整える。
「楽しみにしてる。待ってるよ。約束だ」
と、言って。フィガロは柄にもなく目許に朱を散らす。
期待して、期待されるのが、これほど嬉しいものなのかと、逸る鼓動を聞きながら。