品田くんの目が見えなくなる話(後編)品田が人前に出たくないと言うので、綾小路は親に頼んで医師を自宅に寄越してもらった。父の友人だという医師は
「詳しく検査しないとなんとも言えないけどねえ」
と言いつつアレコレ調べたあと
「たぶん目自体には問題はないと思うよ。いろいろなストレスで目が見えなくなったという症例もあるからね」
「これ、治ります?」
品田が不安げに自分の目を指差すと
「一時的なものだろうけど、いつ治るとは確約できないな。仕事は?しばらく休めない?」
「まあ…見えないと原稿も書けませんしね…」
あの手記の話は思い出したくなかったが。原稿も何もあれで関係は切れてしまっただろうな、と品田は諦めた気持ちでいた。
「まずは静養して、栄養を取ることだね。それでも治らないなら私の医院に来なさい。車をやるから」
診察の間、綾小路は一言も話さなかった。
目が見えないと、こんなにも時間を持て余してしまうのか。テレビを見ようにも音声だけでは何で笑いが起こったのかわからないことがあり、言いしれぬ疎外感に襲われてしまった。なによりリモコンのボタンが見えないので満足にチャンネルを変えることもできない。仕方なく品田は、大きな革張りのソファに横になり、大きな窓から差し込む光を浴びて微睡んでいた。何もはっきり見えない品田にとって、光が感じられるのがありがたかったからだ。
「品田ぁ、ご飯だよ」
足元から綾小路の声がする。
「ご飯?もうそんな時間だっけ」
「良いから」
腕を引かれ、しぶしぶ起き上がり、どこかに歩いていく。
「ここ、椅子ね。わかる?」
「わかるよ」
「座ってよ」
品田はペタペタと手で椅子を確認し、ゆっくり様子を見ながら腰を下ろした。
「食事の練習をするよ。まずは食器の使い方からね」
そう言って、手の中にスプーンか何かを握らせてくる。
「獅子クン、俺見えてないんだよ」
「見えてなくても練習すればある程度は食べられるようになるよ。要は間合いの取り方なんだから」
「俺、獅子クンが師匠だったこと忘れかけてたよ」
綾小路の食事指導は修業の時と同じ、いやそれ以上にスパルタだった。普段雑誌を見ながら食事を取ることもあったし、そんなときは食器や料理に視線をやっているつもりはなかったのに。
「ほら、また盛りすぎてる!そんなに一度に取ると口に入り切らないだろ!スプーンを突っ込みすぎるからそうなるんだよ!」
そう言われても、スプーンを沈める深さだとか、スプーンに乗った量だとか、そんな僅かな感覚など分かるわけがない。
すると綾小路は焦れったくなったのか
「もういい、貸せよ!」
と品田からスプーンを奪う。
「ほら」
と言われたので、口を開けたら
「違うよ。これを手に持てって」
綾小路はスプーンを再び握らせてきた。
「これが一口の量。手の感覚でその重さを覚えるんだよ。覚えたら次はその量掬うのを練習させるからね」
「…どうせならそのまま獅子クンが食べさせてくれたらいいのに」
「ダメだよ!」
綾小路は品田の耳元で叫んだ。
「ボクはお前の師匠だよ?弟子を一人前に自立させるのが師匠じゃないか」
「そうは言ってもさあ」
品田は冗談めかして言う。
「俺は心が傷ついてこんなになっちゃったんだよ。ちょっとは優しくしてくれたって良いじゃん」
「ボクは!」
綾小路の声は震えていた。
「お前が傷ついてることにつけ入って、ボクに依存しないといけないようになってほしくない!そんなの優しさじゃないよ!」
見えなくてもわかる、スプーンを握る品田の手にポタポタと垂れる雫の感触に、
「ごめんね、獅子クン。ありがとう」
品田は空いた手を綾小路に向かって伸ばした。
練習は食事だけではなく、風呂やトイレ、着替といった日常の動作を一通り行った。「目を瞑ってても」という言い回しはあるが、実際に見えない状態でやるのはどれもこれも難しかった。綾小路は厳しかったものの、シャワーの調節や部屋内の移動など、細かいところは手を貸してくれた。そうしてなんとか一日を終え、二人で綾小路の大きなベッドに横になる。
「俺、元に戻るかな…」
「戻るって言われたろ?」
「そうだけど…」
現時点でストレス源に関しては何も解決していない。安易に綾小路の家に来てしまったけれど、ここもまた自宅のように見つかってしまったらどうしようか。
「獅子クン、もし俺を訪ねて誰か来たら…」
「来ないよ」
「いや、獅子クンが気をつけても隣の人とかが俺のこと見てたら」
「隣なんか居ないよ。この階はボクしかいないんだ。そもそもここの直通エレベーターはボクしか持ってない鍵を使わないと動かないし」
「は?」
「だから安心して、ボクに感謝しつつ静養すると良いよ」
「…そうなんだ」
すると、さざ波のように心地よい眠気が押し寄せてきた。
「ねえ、獅子クン。子供の頃の話とかしてよ」
「子供の頃?ボクは、小さな頃からそれはそれは優秀で文武両道で、神童なんて言われて…」
「嘘じゃなくて」
「勝手に嘘って決めつけるな!」
怒る綾小路に、ふふ、と笑い声を漏らす品田。その笑い声は、いつの間にか寝息に変わっていたのだった。
綾小路は品田に布団をかけると、自分も目を閉じて、シーツの波に身を委ねた。
終わり