ピンクッション 2「頼む、ジャック」
デュースの前髪が風で靡く。その間から見える彼の瞳には、降り注ぐ火の粉の光がちらちらと映っていた。
ジャックはそれを見つめながら、何を言うべきなのかを必死に考えていた。
鼻をつく煤の匂い、辺りが焼ける断続的な弾ける音。
腕の中の温もりと、役に立たない自分へ感じる苦味。
ジャックはひたすら、何を言えばいいのか考えている。
「ハウルくん、自主練?」
背後からかけられた声に、ジャックは振り返り会釈をする。
精が出るねえ、とにこにこしている上司はジャックの肩を気安く叩いた。
「でもここのところずっとじゃない? 新入りも入ってきたばかりだし、居残り自主練当たり前ってプレッシャーを感じるような空気出さないでね」
ジャックははたとすると頭を下げた。
「……そこまで気が回っていませんでした。すみません」
「まあ仕方ないか。念願叶って、だもんね」
上司の言葉にジャックは廊下から見える景色へと視線を向けた。夜の闇を背景に、ビル群の明かりが煌めいている。
窓ガラスにジャックの姿が映る。がっしりとした体躯に獣人に特有の耳と尻尾が白銀色に輝く。その身をびしりとした白い制服が包んでいた。肩からかけられたケースには相棒のフルートが入っている。
都市の真ん中にあるこのビルは警察の持ち物だ。
「警察業務と兼務の音楽隊員、しかも二年目が次の演奏会でソロ、なんて異例だからね。気合いが入っても仕方ない。感慨深いな、二年前、君の面接をしたのは僕だからね」
「……自分の演奏がまだまだなのは俺が一番よくわかっています。抜擢が通ったのは、俺が初めての兼務隊員だから箔がつくってことでしょう」
ジャックはガラスに映る己の姿から目を離さずに言った。卑屈なもの言いは自分らしくないと思いながらも、事実だと感じていた。
「カレッジで音楽を学んだ隊員たちの中、独学だっていうのに兼務とはいえ警察音楽隊に入隊したって事実だけでも前代未聞なんだよ? 自分に対する評価がシビアなのはハウルくんらしいけれど」
上司がやれやれとため息をつく。
ジャックは輝石の国の警察音楽隊隊員だ。本番に近い環境で練習するために着込んできたこの白い服に装飾がついた派手な制服は音楽隊の衣装である。
音楽隊は依頼があればさまざまな場所でコンサートを行うのが業務だ。定期的な無料コンサートなども行い、警察を身近に感じてもらい、いざというときに頼ってもらおう、という役割を担っている。いわば、市民と警察の架け橋だ。
ジャックは普段は警察官として職務を行い、兼務として音楽隊にも所属している、稀有な存在だった。警察に入った後、直談判して面接をくぐり抜け音楽隊に入った異例の経歴だ。警察官といっても魔法士としての資格もあるジャックの任務は決して軽いものではない。周りはみなどうしてそこまでして、と口を揃えて言う。だが、ジャックは今の自分の立ち位置を変える気はなかった。
「座学やトレーニング、魔法士としての実力に関しては、正統な評価を自身に対して下しているつもりです。でもこればかりは」
そう言ってジャックはフルートの入ったケースを少し上げてみせる。
「スタートが遅く、専門で学んでいない自分が目標を叶えるためにはどれだけやっても足りる気がしません」
「まあ、そう気負い過ぎてもよくないよ。目標の達成を目の前にして気負うなっていうのも無理な話かもしれないけれど、しっかり食べて、しっかり眠ること」
何せ、と上司は笑ってもう一度ジャックの肩を叩いた。
「君のソロ演奏デビュー、新入社員の歓迎会での演奏はもう今週末なんだからね。今や世界的に有名なフルート奏者も演奏した音楽専用ホールでの演奏! そこでのソロ! 最高の時間になるはずさ。僕が保証する」
「次は、新しく仲間になった皆さんの前途を祝して、輝石の国警察音楽隊による演奏をお贈りします」
凛とした司会者の声が響き、しんと会場が静まった。
あのとき、ヴィルの友人、フルート奏者の彼女はこんな景色を見ていたのか。
ジャックは満員の客席を目にしながら、妙に凪いだ気持ちでいる自分を自覚していた。
熱いくらいの照明にも、観客たちの期待に満ちた目にも、さまざまな人がひしめく匂いにも、重い沈黙にも、驚くほど緊張はしなかった。こんなに落ち着いていることに自分でも驚いていた。
もっと、喚きたくなるような、暴れ出したくなるような気持ちになると思っていた。いよいよ目標が叶うというのに、ただ今は、叶うという事実が目の前にあるだけだ。
ごくりと酸っぱいような唾液を呑み込む。
今日はぴしりと白い制服を着こなした上司が、お辞儀をして台に上がる。そうしてジャックの方を見てぱちりとウインクをした。ジャックは頷きを返す。
ーーこれで面接は終了です。ここからは個人的な興味。答えたくなかったら答えなくていいよ。
かつて面接の折に、そう告げた上司の声を思い出す。
ーー君の音楽隊への熱意が相当なものであるのはよくわかったよ。ただね、僕たち音楽隊の面々は、音楽を愛し、一生音楽をしていくために、安定した職業として警察音楽隊を選んでいるものが多い。音楽が目的なんだ。話を聞いていて、君はちょっと違うんじゃないかなと思った。それが悪いっていうんじゃない。だから、個人的な興味さ。君は音楽を手段に、何かを叶えようとしているように思える。それが何なのか、もしよかったら聞かせてくれるかい。
上司が指揮棒を掲げた。ふいとそれが振られると、楽器が響き出す。その音の全てが、ジャックの背中を押すように感じられた。
皆、ジャックがこの音楽隊に来た理由を知っている。上司に話して良いと許可を出したためだ。兼務である自分、音楽を手段にしている自分は、胸襟を開かなければ音楽隊のメンバーたちに信用されないと思ったのだ。
かつては自分の本当の気持ちを話すのが苦手だった。強がり、勘違いするなと言って、裏腹なことばかり口にしていた。
だが、なり振りかまってはいられなくなった。
この演奏会の話が来たとき、上司がジャックにソロパートを与えた。ソロ演奏は音楽隊の各パートの花形、見せ場だ。兼務で二年目で担うなどあり得ないことだった。皆に頭を下げ、フルートのメンバーからアドバイスを受け、業務の後も練習をした。音楽隊のメンバーは皆、頑張れとジャックを励ましてくれた。実力がまだ見合っていないことなど、自分が一番よくわかっている。
しかし、今日しかなかったのだ。
曲が終盤に差し掛かる。ジャックは立ち上がり、すうと息を吸う。一斉に他の楽器が演奏を止めた。
客席側で聞いた、あの曲。星に祈り、孤独な魂を慰め、夢はきっと叶うと歌う曲。
自分の全身全霊を込め、音を響かせる。
あのときの彼女には敵わない。聴覚を超えた演奏など、自分にはまだまだ夢のまた夢だ。
ジャックはただ、ひたすらに名前を呼ぶように奏でた。
届け、届け、届け!
技術や技巧はひたすら反復した練習を信じた。後は馬鹿みたいにそう念じるしかなかった。
あっという間にソロパートは終わり、ジャックは礼をして自分の席についた。客席からソロに対しての拍手が上がり、どっと疲労感が襲ってくる。なんとか堪えて残りの演奏を終えた。
最後の音が響き、何拍かの静寂の後、割れんばかりの拍手が鳴った。
ジャックは素早く、ホール全体の客席を見渡す。警察の業務で鍛えられ、動体視力には自信があった。
中央のステージに近い席に、青く光る黒髪を見つけ、どくりと胸が鳴る。
「警察音楽隊の皆様、素晴らしい演奏をありがとうございました。警察音楽隊は、市民と警察の架け橋です。皆さんが魔法執行官として活動する中で、その意義を感じる場面も多くなるでしょう。もう一度、盛大な拍手を!」
司会の言葉に、もう一度拍手が上がった。だが、ジャックが捕らえた人物は、下を向いたまま動かない。その頭頂部をステージへ向け、魔法執行官の制服の一部であるグローブをした手で顔を覆っている。
「では最後に、魔法執行官の新隊員代表挨拶です。代表のデュース・スペードさんお願いしま……」
司会の声が途切れる。これから話す予定の人物は、肩を震わせて泣いていた。
勝ったーー。
ジャックは滲む視界の中、デュースを見つめたままそう、思っていた。
「頼む、ジャック」
デュースの前髪が風で靡く。その間から見える彼の瞳には、降り注ぐ火の粉の光がちらちらと映っていた。
ジャックはそれを見つめながら、何を言うべきなのかを必死に考えていた。
鼻をつく煤の匂い、辺りが焼ける断続的な弾ける音。
腕の中の温もりと、役に立たない自分へ感じる苦味。
何かを言わなければ、と焦る。今言わなければ、彼はすぐに背中を翻して走っていく。
足には感覚がない。幾度立ち上がるように意識的に指令を出しても動かない。そして、手の中には監督生の温もりがある。これを手放して、デュースと共に走ることはできない。
何と言えば、こいつを止められる?
ジャックは頭を必死に動かして考える。デュースが眉を下げて笑った。その笑顔があまりにも美しく、嫌な予感が膨れ上がる。
ダメだ、行くな!
そう思ったが、咄嗟に出たのはいつものように尊大な言葉だった。
ジャックの言葉に、デュースは目を見開き、苦笑する。
「わかってる。でも、エースだけ残しておくことなんてできない。あれでも僕の相方だからな。それに、グリムをひとりぼっちにはしておけない」
監督生を頼む、と言ってデュースは身を翻した。
デュース、とジャックは名前を呼んだ。何度も何度も名前を呼んだが、彼は一度も振り返らなかった。
「これで面接は終了です。ここからは個人的な興味。答えたくなかったら答えなくていいよ。君の音楽隊への熱意が相当なものであるのはよくわかったよ。ただね、僕たち音楽隊の面々は、音楽を愛し、一生音楽をしていくために、安定した職業として警察音楽隊を選んでいるものが多い。音楽が目的なんだ。話を聞いていて、君はちょっと違うんじゃないかなと思った。それが悪いっていうんじゃない。だから、個人的な興味さ。君は音楽を手段に、何かを叶えようとしているように思える。それが何なのか、もしよかったら聞かせてくれるかい」
面接官の言葉に、ジャックは膝の上に置いた拳に力を入れていた。
「俺は……」
砕けた一人称にはっとして面接官を見る。彼はかまわないよ、と仕草で示すと「ここからはオフレコ、口調に気にせず続けて」と先を促した。ジャックは頷くと、再び口を開く。
「俺は、他人に自分の希望を言うのが下手です。一緒の授業が受けたいのに『寝ちまったら起こしてやる』なんて言っちまうし、心配して見に来たのに『たまたまだ』なんて意地を張る。もしくは絶対こうだ、と思って押し付けるようなかたちになっちまう。学生時代はそれを読み取ってからかうようなやつが多くて、結果的には譲歩してくれていました。今思えば俺なりに甘えていたんでしょう。わかってるわかってる、なんて返されて反発しながらどこかで喜んでいました」
面接官は、静かな瞳をしてジャックの言葉を聞いている。
真っ白な部屋の中が世界の端っこのように思われた。
「俺が在籍していたとき、ナイトレイブンカレッジではさまざまな騒ぎが起きました。世間的には公になっていないことも多いけれど、警察関係者には多少、耳に入っていたと思うのでご存じだと思います。あるとき、俺の友人たちが巻き込まれました。俺は足を折って動けなくて、頭を打った友人を託されました。戦いの場に戻ろうとした友人を俺は引き留めた。他の友人がまだ残っていたのはわかっていましたが、それでも行かせたくなかった。その友人は、絶対に命に関わるような無茶をすることがわかっていたからです」
ダメだ、行くな!
そう言えばよかったのだろうか。
だがジャックの口から実際に出たのは、お前が敵うわけがない、馬鹿なことを考えるな、危険だとわかるだろう、先生たちに任せろ、というものだった。
デュースにはその言葉はまるで届かず、彼は行ってしまった。
どうしたら届いたんだろうか。どんな言葉をかければ、彼は自分の言うことをきいてくれたのだろうか。
行くな、と言えていれば。
いっそ、何もかもかなぐり捨てて、行かないでくれ、とすがっていればよかったのだろうか。
「そいつは大怪我をして留年しました。先に学年を上がった俺は、ずっと怒っていました。どうして俺の言うことをきかなかった、と。そいつとはほとんど口をきかないまま卒業して、物理的に離れて落ち着いてくると、だんだん頭が冷えてきました。それでもずっと考えていました。ただひたすら、何を言えばよかったのかを。でもわからなくて、だったら、言葉以外しかないと思いました」
「それが音楽という手段だと?」
「はい」
ジャックは面接官を真っ直ぐに見つめて頷いた。
音楽を愛する人を目の前に、彼が愛するものを誰かに言うことを聞かせる手段として語っている。こんな冒涜はない。
けれど、言葉が苦手な自分が、言葉で説明しろと言われたら、もう誠心誠意正直に言うしかなかった。
「そいつの夢は、魔法執行官になることでした。大怪我しても全く懲りず、その夢を追いかけ続けるはずです。俺は、一言届けないと気が済まないんです。芸術が盛んな輝石の国の警察音楽隊は、毎年魔法執行官の新入隊員の入隊式で演奏をしますよね。そこであいつに……あのとき言えなかったことを、届けるのが俺の目標です。個人的で、すみません」
落とされるかもしれない、と思っていたが、ジャックの希望は叶い、かくして兼務の音楽隊員が生まれた。
面接官は後の上司になり、そして彼は音楽隊の指揮者、隊長でもあった。
二年目になるという時期にジャックは呼び出され、一枚の紙を見せられた。
それは、魔法執行官の入隊式のプログラムだった。明記された新入隊員代表の名前に、ジャックは毛を逆立てる。
思ったより早かった、というのがジャックの感想だった。一年遅れで卒業し、その後はストレートで夢を叶えたのだろう。
「ハウルくん、届ける音楽はもうできている?」
ソロを君に任せようと思うんだけど、と隊長は微笑みながら言った。
彼はいろいろな情報を収集してジャックの届けたいという相手を突き止めていたらしい。そこまでしてもらって、まだ早いなどと怖気付くことはできない。
ジャックは震えながら頷いた。ここで断るという選択肢はなかった。
俺の願い。俺の望み。
俺の言葉はお前を変えることはおそらくできない。お前は危険の中にも突っ込んでしまうだろう。
それでも、どうか。
うまく言えない俺の音をどうか、聞いてくれ、デュース。