ある夏のあつさ ひまわりが咲いていた。背筋をぴんと伸ばして、陽に向かって力強く咲いている。
とはいえここは都心なので、広大な花畑というわけではない。緑化活動の一環だろうか。街路樹として歩道に沿って植えられたそれらは、見事に咲き誇っていた。
このビルばかりの都会には人気のカフェだとか楽しいイベントは沢山あるが、それらと引き換えになんの障害物にも遮られない青空も澄んだ空気も、思わず寝転びたくなるようなだだっ広い土地はない。それでもたまには、こんな風に綺麗に咲いた花を見て心が安らいだりもする。
深幸と礼音は偶然にも大学の休講日が被ったので、たまには外に昼食でも、という流れになり、その帰り道を歩いていた。
「そろそろ髪、染め直さなきゃな」
突然ぼそりと呟いた深幸に、礼音はなんのことかと数秒きょとんとして、深幸がひまわりの花弁の色と自分の髪色を重ねていることに気が付いた。確かにつむじの辺りが黒くなり始めている。礼音は深幸の黒髪姿を見たことがないのもあって、生まれつき金髪なんじゃないかと思ってしまうこともあるが、ちゃんと黒髪が生えてくるのを見て深幸さんも元は黒髪なのだ、と思い出す。
「このままほっといたら、頭のてっぺんがひまわりの真ん中のとこみたいに見えていいんじゃないか?」
「種ができる部分ね」
「そう、それ」
「やだよ、要するにプリンになれってことじゃん。リタッチサボってんだって思われんの、すげー嫌だ」
礼音は冗談めかして言ったのだが、深幸は想像もしたくないのか心底嫌そうな表情をして見せた。
「カッコ悪いから?」
「カッコ悪いから」
辺りではしきりに蝉が鳴いて、どこへ歩いて行ってもその鳴き声が追いかけてきて暑苦しい。ずっと聞いているとなんだか暑さが増しているような気さえする。さっき店で何杯も水を飲んだのに、もう水分が不足しているように感じられたので自販機で飲み物を買うことにした。深幸は礼音のぶんを奢った。
ふたりとも買ったペットボトルの中身を飲みつつ歩き出す。歩みとともに会話が再開された。
「黒髪に戻したい、って思うことあるのか?」
「……提案してくるってことは、礼音くんは俺が黒髪でもカッコいいって思ってくれるんだ? 嬉しいな」
「はぐらかすなよ。質問してるだろ」
深幸は、んーと唸って何か考えるそぶりを見せた。少しだけ物憂げな横顔だった。
「いろんなこと思い出しちゃうからさ。だからいいや、黒髪は」
いろんなこと、に何か他人に言いたくないようなことが含まれているのは礼音にもわかったので、これ以上詮索しないことにした。
礼音は深幸と過ごしてきて、深幸が過去の話を躱しがちなのを知っていた。そして、それらのエピソードを語ってくれないからといって不満に思ったこともなかった。別にバンドメンバーだから、友人だから、恋人だからといって全てを打ち明ける必要はないのだ。どんなに親密な仲であっても言いたくないことはあるし、それを言わないほうが円滑な人間関係を続けられることもある、というのが礼音がこれまでの人生で得た知恵であった。
とはいえ、深幸の言う「いろんなこと」が悲しいことだったのか、もしくは恥ずかしいことだったのかくらいは教えてほしいというのも本音である。できれば詳細に。自分の好きな人のことなのだから、なおさらだ。
ここまで考えているうちに、喉がからからになっていることに気付いた礼音は手に持っていたペットボトルの麦茶をぐいと煽った。
しばらく歩いて、自分たちのマンションの入り口が見えてきたところで深幸が口を開いた。
「……礼音くんはさ、もし俺が今と真逆……黒髪短髪になっても、好きでいてくれる?」
さっきまでの話題をまだ思い返していたのだろう。いつもより真面目な顔をした深幸に何事か、と礼音は思う。何気なく振った話題だったが、どうやら深幸にとっては大事なことらしい。
「いや、やっぱいい、忘れて」
「好きだよ」
さっぱりとした返答だった。いつも礼音が発する「好き」にあまり甘さはなくとも深幸は満足していたのだが、さらに礼音はごく自然な調子で続けた。
「……けど俺は、今の深幸さんが一番いいと思う」
エレベーター内に踏み出しかけていた深幸の足がぴたりと止まる。
深幸が何を思って質問しているのか、過去に何があったのかも礼音は知らないが、それでも礼音が好きなのは今の深幸なのだから、それで良かった。どんなことがあろうと、どんな姿になろうと、それだって今に繋がっているのだから、自分が好いている深幸であることになんら変わりはないのだ。
「ありがとう……」
そんな礼音の気持ちを汲み取ったのか、目が合った深幸の顔は晴れやかで、さっき見たひまわりに少しだけ似ていた。
エレベーターに乗り込むと、不意に礼音の髪に手が伸びてきた。濃紺の毛先を弄る指が少しくすぐったい。
「俺も今の礼音くんが一番好き」
礼音は自分に言ってほしくて言ったわけではなかったが、目の前の男の声がなんとなく弾んでいたのがわかったので、まあいいか、と思った。
毛先を弄っていた手が、するりと礼音の頬へ滑るように移動する。蒸し暑い密室で、ぴっとりと頬に沿う男の体温がじわじわと伝わってくる。
「……手、暑い。離せよ」
たらりと汗が流れるくらいには暑いが、礼音はそうは言いながらも深幸の手を剥がす気にはなれなかった。
「礼音くんのほっぺたのが熱いんじゃない? 子ども体温的な」
「おい、そんなに歳変わんないんだから子ども扱いはないだろ」
「はは、ごめんごめん」
手放し難いあつさを感じた、夏の日のことだった。