雨過天晴 ほんの数刻前まで晴天だった筈の空は、癇癪を起こしたように雨の雫を降らせていた。昼間だというのに暗く落ち込んだ曇天の彼方では、時々獣のような低く重い唸り声が聴こえてくる。気まぐれな雷光がぱっと世界を白く照らす様は、この雨をまだ止ませるつもりはないと誇示してくるかのようだ。
青天の霹靂とはこのことだろう。
少し買い出しの為に外へ出ただけだというのに、急に雲行きが怪しくなったかと思えば、そこから桶を引っくり返したような雨に見舞われるまではあっという間だった。雨宿りが出来る軒先へ避難するまでの一時で、衣は随分と濡らされてしまった。じっとりと素肌にはりついてくる冷たい感触が少々気持ち悪い。
仕方がない、と諦観を込めて息を零す。
季節の変わり目には、こういう雨に出会すことも珍しくはない。外出中に見舞われたのは運が悪かったというしかないが、雨避けのしやすい邑中であったことはせめてもの幸いだろう。あとは、この雨が一刻も早く通り過ぎてくれることを願うばかりなのだが――
「浪ー!」
すっかり雨水で濡れそぼった地面をばしゃばしゃと踏み荒らしながら、己を呼ぶ声。視線を向ければ、鮮やかな朱い番傘を差した裂魔弦が走ってくるのが見えた。余程慌てて来たのだろうか、目前まで駆け寄ってきた彼は随分と息を切らせて、巫謠の姿を確認するや安堵したように目元を和らげた。雨傘が、迎え入れるように差し向けられる。
「急に雨が、降ってきやがったから、傘、借りてきたぜ。……あー、やっぱ濡れちまってんじゃねえか。早いとこ湯に浸かった方がいいな、とっとと戻ろうぜ」
この豪雨の中をわざわざ走って迎えに来てくれた心遣いは、正直有難い。すぐに礼を言うべき場面であることは理解している。しているのだが、どうしてもその前に問い質したいことがあった。どうして、
「……何故、一本しかない?」
言わずもがな傘のことである。雨空の下。ひとはふたり。迎えに来る為に借りてきた筈の傘は一本。当然の疑問だろう。
しかし裂魔弦はきょとんとした顔で首を傾げた。
「俺は別に濡れたって風邪なんか引かないから平気だぞ?」
つまり最初から巫謠に使わせる分しか借りてきていない、ということか。
人のような見目をしていても、元は器物で、魔力を以て後天的に肉体を得た裂魔弦の身体は、根本的に人とは構造が異なっているのだろう。風邪を引かないという言葉の信憑性がどれほどのものかは巫謠には判断できないが、そもそも支障が無いから構わないという話ではないのだ。
無意識に拳を握りしめ、無言で目の前の器物の化身を睨めつける。さて、どうしてくれようか。
長年浪巫謠の『口』役を担っていた琵琶の付喪は、敏感に不穏な気配を察知したのだろう。急に慌てた様子で「ほら、俺様頭巾もあるからそんなに濡れねえし!」だの「早く迎えに行かねえとって考えてたら一本引っ掴むので手一杯だったつーか……!」だのと言い訳を並べ立て始めた。
思わず、大きく溜息を吐く。びくり、と震えた肩は、親に叱られることを怯える子供のようだ。或いは、耳と尾を垂らして悄気返る犬。不安を滲ませて此方を窺う碧眼を見ていると、なんだか巫謠の方が不当に苛めているような気分にさせられた。
仕方がない。雨もまだ降り止まない中、こんな所で説教をしていてもどうしようもなかった。
もういい、と声をかけて、傘を強引に奪い取る。番傘一つでは当然男二人を雨から守るにはいささか手狭であったが、これも仕方がない。ばたばたと傘を打つ雨音を頭上に聞きながら、空いた手で裂魔弦の手を引きながら、ふたりで宿までの帰路を歩き出す。
外側の肩が容赦なく雨に打たれ、重くなっていくが気に留めない。隣側へ傘を傾けているのは勿論わざとだ。こと浪巫謠の身に関しては目敏い器物が、直ぐ様押し戻すように傘の傾きを正そうとする。
「浪、濡れるからちゃんと傘ン中入れって」
「お前も濡れているだろう」
「俺様はいいんだってば! お前の方が大事!!」
まだ言うか。
ぶり返した苛立ちのままに、此方も負けじと強く裂魔弦側へ傘を傾けてやれば、「待った待った待った!!」と慌てふためいた制止の声が飛ぶ。傘から流れ落ちた雨水が頭にかかり、頬を伝っていく。
ばたばたばたばた。責め立てるような雨音の下で、弱り果てた溜息と共に、降参宣言のように掌が掲げられた。
「わかった。俺が悪かったから、せめて半分ずつにしようぜ……」
「な?」と窺いを立てられれば、これ以上我を通すのも大人げない上に、本当にただの苛めになってしまうだろう。提案を受け入れるように傘の主導権を返してやれば、今度はきちんと半分ずつ、朱い雨傘の内側にふたりが入る。といっても、無意味で幼稚な攻防戦のおかげで、軒下に避難していた時よりも随分と互いの衣は濡れてしまっていたから、最早大した意味は無いのかもしれないけれど。
ぱしゃり、ぱしゃりと雨を散らして歩く。濡れた衣の冷たさよりも、寄り添い触れる肩の温もりを強く感じる。傘を二つ並べていては感じることはできなかったもの。それを、悪くないと思ってしまえば、巫謠にはもう裂魔弦を諌める資格はないのだ。だから、歩みを進めていく内に、ほんの少しだけ巫謠の方へ傾けられていった傘のことは、咎めないでおいてやることにした。
その代わりにもしもいつか、こんな雨の中、裂魔弦がひとり雨宿りしているような日が来るのなら、巫謠もまた同じように、傘を一つだけ借り受けて迎えに行ってやろうと思った。
その時彼は、一つきりの傘を差し向ける巫謠を見て、何を思うだろう。どんな表情をするだろう。呆れるだろうか。怒るだろうか。それともただ純粋に、迎えに来たことを喜び、笑うだろうか。
その姿をまなうらに思い描く。悪くはないと思う。悪くないと思うからこそ、少し後悔した。やはりまずは、礼を言うべきだったのだ。その心遣いが確かに嬉しかったのだと、示すべきだったのだ。
少し雨足が弱まってきた空の下、ふたり並んで歩きながら、巫謠は二つ、心に決めた。一つめは、宿に帰り着いたら改めて彼に礼を伝えること。二つめは、いつか、あの軒下で朱い雨傘を見つけた時の巫謠の心を、感情を、この器物の化身に教えてやること。
直ぐに訪れるその時を、いつ訪れるともしれないその時を、心の裡でひっそりと待ち詫びながら、この日巫謠は珍しく、宿に辿り着くまでは雨が止まなければいいと、そんなことを願った。