その日ミルメコレオに訪れたのは依頼報告のためだった。以前の世界でも同じ用事で何度か訪れたことのある場所だが、ポーンであった私は自ら足を踏み入れたことはなく、マスターを見送りそして帰りを待つだけの場所だ。
で、あるから、出入り口の正面にて私の帰りを待っていた私のマスター(今は私のポーンである。紛らわしいことだが。)の様子がどこかおかしいと気付いたものの、その理由にはとんと心当たりが浮かばなかった。
どうされたのだろう……。見当はつかないがその状態を放置しようとは思えない。ポーンに本来意思はないはずだが、例外があるというのは己の芽生えによって理解していたし、何よりマスターのお心が乱れているのならば然りと理解して差し上げたい。そう強く思ったからだ。
「マ……バジル。何か気になる点がありましたか?」
帰宅した自宅にて休息をとらんと寝室へ入り、私はマスターへ声をかけた。
「いいえ、問題ありません。覚者様、そろそろ休息をとりましょうか」
マスターはこちらを振り向かぬまま、感情のない声色でそう告げる。人間の器に入っているからだろうか、私はその言葉に隠されたささいな機微に気づけてしまう。
「それは嘘ですね?」
そう指摘されるとは思っていなかったのか、マスターの肩が小さく跳ねた。背中しか見えないものの、ポーンになっても彼は元々感情豊かな人間であったせいか分かりやすい。
「なんでもないのなら、なぜ私を”覚者”と呼ぶのです? 名前を……ガランと呼んでいただきたいと願ったとき、受け入れてくださいましたよね?」
「それは、その」
「それに目も合わせてくださらない。気になることがおありですよね?」
マスターの腕を痛まぬ程度に掴み、こちらを向かせてみる。会話をするならばそのほうが都合がいいのだから。そう思っての行動だったが……。
顔を合わせたマスターの双眸には、今にも零れそうな涙が溜まっていた。
「わ……、わかんないよぅ……」
涙はそのまま下に零れ落ちていく。無意識であろうくだけた口調も、ヒトの時のようだな、と思った。この世界よりもずっと以前、出会ったばかりのマスターは、このようにか弱い生き物のように泣いていたな、とぼんやりと思い出す。
否、そんなことを考えている場合ではない!
「申し訳ありません、言葉が過ぎました。」
やわらかい布をマスターの目元にあて、涙を吸わせる。擦ってしまえば、白い肌が赤くなってしまうだろう。
「……いいえ、いいえ。ガランは、悪くありません。ごめんなさい、どう答えるべきか、分からなくて。ただ、」胸に手を当て、言葉は絞り出すようで「ここが張り裂けそうに痛くなったのです。貴方を待っているだけなんて、簡単なことなのに」
自嘲するように言葉を吐き終えると、濡れた瞳のまま微笑んだ。
「想像してしまったんです、あなたが知らない誰かを腕に抱いているのかもしれないと。傲慢にも、わたしのマスターなのに、と思ってしまった。私の……私だけの……」
「バジル……?」
「何でもします、あなたの為なら。ですから、もしその腕に抱くのが誰でもいいのなら……私を選んでくれませんか、ガラン」
気づけばすっぽりとマスターが私の腕に収まる。小さな呼吸が布越し伝わり、はじめての感覚が背中を登る。
ひやりと喉が渇く。こみあがる熱さで呼吸が、止まる。
だが、
「い……、いけませんバジル!」
辛うじて残った思考が待ったをかけた。マスターの肩を掴み、引きはがす。
呆然とした表情のマスターは、先ほどまで己の言った言葉を反芻したのか、顔を真っ赤に染めてはくはくと口を動かす。
なぜだかそれが無性に可愛らしく、私は堪えきれずフッと笑ってしまった。が、兎にも角にもマスターを落ち着かせるべく、ベッドに腰掛けて膝に乗せたマスターを背中側から抱きしめた。
「バジル」
「ひゃっ、ひゃい…」
まだ混乱しているのか返事がおぼつかないようだが、まあいいだろう。
「言っておきますが、私はミルメコレオでは必要な会話しかしていませんよ」
会員カードは持っているが、あれは通行許可証のようなものだ。
「それと、私はずっとあなたのものです。安心してください」
マスターが腕の中で小さく震えているのがわかる。こんなのは当然の事実でしかない。どうか、わかってほしい。
貴方が私にとって何にも代え難いひとなのだと、どうか覚えていてほしい。
「バジル……、あなたは記憶を失っているんです。」
「そ、うなのですか……?」
「ええ、ですから今は全てを伝えることはできません……。ですが、これだけは疑わないでください。わたしはいつでも、あなたと共におりますよ」
「っ……はい……!」
「いつか貴方がすべての記憶を思い出したなら、その時こそ私の想いを伝えたい。お許しくださいますか?」
何も分からぬこの人に無体を働くことは避けたい、これは自分のための言葉だ。人の身を持った自分にとって、容赦なく浴びせられるバジルの言葉はあまりにも甘い。
だがこの人は…、
「お願い、します。私も知りたいです。どうかいつまでもそばにいてください……ガラン。」
予防線をなぜこう容易く飛び越えてくるのか。
どうしたって耐えられない。気づけば名を呼び震える口に、唇を合わせてしまっていた。
「ふっ…ん、が、がらん……?」
「……」何も言わないでほしい。
「今のは、口付けですか……?」
「………はい」
えてして願いは届かないものである。自分が悪いのは分かっている。だが今は仕方がなかったと思わせてくれ。
マスターはぼうっと息を吐きながら、自分の唇にちいさく触れている。
目の毒だと私は目を逸らしてから、声をかける。
「睡眠の時間です、床につきましょう」
「あっ、はい。一緒に……寝ましょうね」
頬を染めながらにこりと微笑む顔をみて、さらなる己の欲深さを自覚し、そして心を殺してベッドへ向かうのだった。