何も云わないで薄暗い玄関にいた。春からの新生活に向けて引っ越したばかりの部屋は物が少なく、未開封の段ボールがそこらかしこに鎮座している。引っ越した、と言ってもまだ準備段階。ここに住んでいるわけではなく、住環境を整えている真っ最中だ。照明もまともに機能しているのは部屋のなかだけ。玄関は用意していた電球ではワット数が合わず、そのままになっている。
三月も終わりに差し掛かった頃、菅原のもとに一件のメッセージが届く。「これから会えない?」とただ一言。差出人は及川徹。半年ほど前から菅原と交際をしている、要は恋人である。恋人といっても付き合い始めた時期が悪い。部活だ受験だと慌ただしく互い違いになることもしばしば。そもそも通う学校が違う。きちんとしたデートは指で数える程度。なんとか隙間を見つけては逢瀬を重ねていたが、それでもやっぱり恋人というには時間が足りない気がしていた。そして、この春から二人は離れ離れになる。菅原は地元の大学へ進学。及川は単身、アルゼンチンに行くという。どうやら知己の人物を師事してとのことだが、よもや誰が予想できただろうか。それを初めて耳にしたとき、菅原は「そっか」とただ一言だけ返した。完全なるキャパシティオーバーで受け止めるのがやっとだった。
及川からメッセージが届いたとき、菅原は大層驚いた。何故ならもうとっくに渡亜しているものだと思っていたからだ。進路の報告以降はその話題に触れることなく自然に過ごして、互いの卒業式を過ぎたあたりからぱったり連絡が途絶えたので、菅原としては、何ならそのまま自然消滅かとさえ思っていたのだ。
そして今、菅原は及川に後ろから抱き締められている。揃ってコートを着ているのでやたらモコモコとした感触だが、腕の力強さだけはしっかりと感じる。
「及川?」
菅原が及川を呼ぶが返事はない。息遣いもほとんど聞こえなかった。
「これから会えない?」というメッセージに菅原は応じた。もしかしたらきちんと振られるのかもしれない、と思ったからだ。確かにそのほうが後腐れなく済むだろう。ちょうど新居という二人きりで話すにはもってこいの環境もある。待ち合わせに最寄りの駅を指定して合流。他愛もない話をしながら歩いて菅原の家へ。何の飾りもない鍵をポケットから取り出して、薄暗い玄関へ入り、及川がそれに続く。
最初はただよろめいたのかと思った。でもすぐ後ろから腕が伸びてきて、抱き締められたのだとわかった。これが順風満帆のカップルであったなら、愛情を示す抱擁だと思っただろう。しかし、1ヶ月近く音沙汰なし、自然消滅さえ視野に入れていた仲である。予想外の展開に菅原は大いに戸惑った。
「おい、」
「黙って」
戸惑う菅原の声を及川の声が遮る。その声は平坦で、怒っているようにも聞こえたし、いつものなんてことのない調子にも聞こえた。一方で菅原は戸惑いを通り越してやや腹を立てた。急に連絡してきて、急に抱きついてきて、黙ってときたもんだ。腕を広げて振り解こうともしたが、力の差は歴然なので早々に諦めた。様子を見るに危害を加えようという様子もない。「もう勝手にしろよ」と脱力すれば、菅原の腕から力が抜けた分、できた空間を埋めるように抱き締める力が強くなった。
時計すらない部屋は物音ひとつしない。聞こえるのは外から聞こえてくる車が走る音やはしゃいで走り回っているであろう子どもの声くらい。どのくらい時間が経ったかもわからず、かといって身動きも取れず、菅原はそっと後ろの様子を伺う。
及川は微動だにせず、菅原を抱きかかえたままだ。顔はちょうど菅原の後頭部の辺りにあるため見られない。なんだったかなあ、この感じ。押し黙って動かない様に何処か覚えがある。要求があるが口には出せない。でも後には引けない。菅原は記憶を辿り、及川の姿と重なる何かを探る。
あれはいつだったか、親戚の子どもが菅原の家に来たときだ。確か四つか五つくらいの子どもで、菅原の部屋にある人形をじぃっと見つめたまま動かなくなった。「どうした?」「なんかあったか?」と聞いても口を利かず、首を振るばかり。さてどうしたもんかと、周りの大人は頭を抱えた。子どもは人形が欲しかったが、遠慮してうまく要求を声に出せずにいたのだ。
「お前さ、アルゼンチン行くんだろ」
黙ってと云われたが従う義理もない。ましてや後ろにいる図体のでかい男は小さな子どもではない。聞いていようが聞いていまいが知ったこっちゃないと菅原は一人話し始める。
「俺、今日振られるつもりでいたんだけど」
変わらず沈黙を貫いていたが、ぴくりと及川の頭が揺れた。菅原はそれに構わず続ける。
「進路のこと、相談じゃなくて報告だったし、前から決めてたんだろ。プロとしてやっていくんだろうし、ましてや海外に行くなら俺に構っている時間ないだろ。だからお前が云わないなら、俺から」
「今は云わないで」
別れる、そう云おうとした瞬間拘束が解かれ、くるりと身体を反転させられる。そこには大きな図体をした、小さな子どものような、及川の姿があった。普段キリリと釣った眉は垂れ下がり、じぃっと菅原を見つめる胡桃色の目は何かを堪えるように歪んでいた。
「あとできちんと話すから、今は何も云わないで」
その声は平坦で、怒っているようにも聞こえたし、泣いているようにも聞こえた。解かれた腕はまたすぐ菅原へと伸びた。覆い被さるように再び力強く抱き締められ、薄暗い玄関のなか、菅原は丸まった背に手を伸ばし、あやすように叩くことしか出来なかった。