夜桜 外に出ると、暖かい空気が身体を包み込んだ。日差しは燦々と地面を照らし、真っ黒なアスファルトを暖めている。背中から噴き出す汗の感覚で、自分が服選びを失敗したと悟った。
それもそのはずだ。既に、カレンダーは四月へと移っていたのだから。町を行く人々はコートを脱ぎ、歩道には桜並木が並んでいる。忙しくしているうちに、世間はすっかり春の光景になっていた。
そうなると、テレビはこぞって桜の特集を組む。夕方のニュース番組やゴールデンタイムのバラエティは、我先にとお花見スポットの取材をしていた。日本人はお花見に命をかけているから、朝早くから現地に向かって場所取りをする。そんな浮かれた人々を見つけ出しては、各局がインタビューを収録するのだ。昼間から酒を飲む観光客の姿を見て、ルチアーノは呆れに目を細めていた。
シティの繁華街も、満開の桜で彩られていた。花びらが舞い散る大通りを、ルチアーノと並んで歩いていく。すれ違う人々も、嬉しそうに花へとカメラを向けていた。
「なあ、行かなくていいのかよ」
頭上を埋め尽くす枝を見ながら、ルチアーノが小さな声で呟く。さらりと告げられたが、僕には何を示しているのかが分からなかった。
「行くって、どこに?」
僕が尋ねると、彼はこちらへと視線を向ける。葉っぱのような緑の瞳が、真っ直ぐに僕を捉えた。
「君は、花見をしたがってただろ。これだけ満開なんだから、今が見頃なんじゃないか?」
彼の口から出たのは、お花見の誘いだった。少し前に交わした会話を、律儀に覚えていたようである。あれだけ連れ回したから、皮肉のつもりなのかもしれない。
しかし、満開になった今だからこそ、僕にはお花見をする気などなかった。この季節になってしまうと、有名なスポットは人で埋め尽くされてしまうのだ。浮かれた大人たちや酔っぱらいに囲まれた状態では、ルチアーノとゆっくり過ごすことはできない。風情というものがなくなってしまう。
「満開のお花見は、しなくてもいいかなって思ってるんだ。有名なスポットは人でいっぱいだし、賑やかすぎてゆっくりできないからね」
僕の答えを聞いて、彼にも意図が伝わったようだった。目を細めながら、納得したような声で言う。
「ああ、君の見てる番組でやってたな。マナーの悪い観光客が殺到して、管理人は迷惑してるって」
さすがはルチアーノだ。人の世の嫌なところをよく見ている。それこそが、僕のお花見を避ける理由そのものだったのだ。喧嘩っ早い彼を連れていって、トラブルでも起きたら大変だ。
「そう。だから、こうして街路樹を見てるんだよ。繁華街なら、ゆっくり話もできるからね」
「ふーん」
既に興味を失ったのか、ルチアーノは生返事を返してくる。自分で話を振っておきながら、飽きるのも早いのだ。自分勝手な男の子である。
街路樹を抜けると、彼は不意に振り返った。僕に視線を向けると、何かを企んだように笑う。にやにやとした笑顔だった。
「なあ、静かに花見がしたいなら、僕が連れていってやろうか?」
「えっ?」
投げかけられた発言に、またもや疑問符を浮かべてしまう。彼の言い出すことは、いつだって突拍子もないのだ。何を意図しているのか分からなくて、思わず聞き返してしまう。
「どういうこと? 穴場なスポットでも知ってるの?」
「そんなちゃちなものじゃないぜ。もっと、君がびっくりするようなことさ」
尋ね返すと、彼はきひひと笑い声を浮かべる。これは、僕の回答が外れていたときの反応だ。余計に分からなくなってしまった。
「びっくりするようなこと? いったい、何を考えてるの?」
質問を重ねるが、彼はにやにやと笑っているだけだった。答える気がないのだろう。
「まあ、夜になれば分かるぜ。楽しみにしてな」
楽しそうな笑い声を上げながら、からかうような仕草で僕を見上げる。悪いことは考えていないのだろうけど、嫌な予感しかしなかった。
夜になる頃には、昼間のやり取りなど忘れていた。ルチアーノの用事に付き合わされて、シティ中を駆け回っていたのだ。家に帰る頃には、桜の話をしたことなど記憶の外に追い出されていた。いつものように食事を取り、入浴を済ませて自室へと向かう。ルチアーノも何も言わなかったから、そのまま布団に入って眠りについた。
彼が動き出したのは、真夜中のことだった。眠りの世界を漂っていたら、急に揺り起こされたのだ。寝ぼけながら両目を開けるが、視界に入るのは真っ暗な自室である。再び目を閉じようとすると、今度は耳元に声が聞こえた。
「おい、起きろよ」
今度は、はっきりと目を開けた。いつもの服装に身を包んだルチアーノが、笑いながら僕を見下ろしている。目と目が合うと、彼は楽しそうにこう言った。
「出かけるぞ。とっとと仕度しな」
言葉の意味が分からなくて、僕は目を白黒させる。そんな僕を見て、彼は呆れたようにため息をついた。
「忘れたのか。桜を見に行くんだよ」
そこで、僕はようやく思い出した。ルチアーノは、僕にお花見をさせてくれると言っていたのだ。すっかり忘れてしまっていた。
「桜を見に行くって言っても、今は夜中だよ。お花見スポットは閉まってるでしょ?」
真っ暗な部屋を見渡しながら、僕は尋ねる。時計の針が示しているのは、丑三つ時と呼ばれる時間帯だ。お花見スポットどころか、大抵のお店も閉まっている。
「開いてようが閉まってようが、僕には関係ないんだぜ。僕は、どこにだって行けるんだからな」
にやにやと笑みを浮かべながら、ルチアーノは自信満々に答えた。忘れがちだが、彼にはワープ能力があるのだ。どんなに遠いところであっても、一瞬で辿り着いてしまうだろう。
「いいのかな……。それって不法侵入にならない?」
不安に思いながらも、僕は外出の支度を進めた。ルチアーノは出かける気満々で、拒否権など与えてくれなかったのだ。手早く服を着替えると鞄を持って彼の手を握る。
「とっておきの場所に連れてってやるからな。楽しみにしてろよ」
きひひと楽しそうに笑いながら、ルチアーノはワープ機能を起動した。淡い光が室内を満たしていく。それが消える頃には、僕たちは別の場所へと移動していた。
そこは、桜で埋め尽くされた森だった。辺り一面を埋め尽くす大小様々な桜が、月の光に照らされて輝いているのである。近くには外灯が無いようで、視界に入る景色は薄暗い。目が暗闇に慣れると、それは美しい光景へと変化した。
だだっ広い敷地の中に、人の気配は一切無い。僕とルチアーノだけが、無数に並ぶ桜の木を独占していた。彼から離れすぎないように、恐る恐る桜の下へと足を進める。幹に手を触れながら見上げると、枝の間に月の姿が見えた。
月の光に照らされて、花は白い輝きを帯びている。ひらひらと落ちてくる花びらは、自身が発光しているかのようだ。そんな国花を飾るように、上空には月が寄り添っている。ひとりでは決して見ることのできない光景には、日本の風情をひしひしと感じた。
「綺麗だね」
ルチアーノの方を振り返ると、僕は噛み締めるように言葉を告げる。その姿がこの世のものとは思えないほどに美しくて、思わず息を飲んでしまった。夜桜の下に佇むルチアーノの姿は、触れたら消えてしまいそうなほどに儚く見えたのだ。桜に拐われるという言葉は、彼にこそ似合う気がした。
動きを止める僕を見て、彼はこちらへと歩み寄ってきた。僕の肩を叩くと、不満そうな声で言う。
「なんだよ。そんな顔して。不満でもあるのか?」
「違うよ。ただ、なんだか儚い気持ちになったから」
僕の答えを聞くと、彼はさらに表情を曇らせる。暗闇の中にいても、ルチアーノの表情だけはなんとなく分かるのだ。それも、僕が彼のことを愛しているからだろう。
「人間って、変な生き物だよな。花がすぐに散るのはどの品種も同じなのに、桜には儚いなんて言うんだから」
何をどう解釈したのか、ルチアーノはそんなことを言い出す。僕が儚いと思ったのは彼自身のことなのだけど、それは言わないでおくことにする。世の中には、言わない方がいいこともいるのだ。
微笑みを浮かべると、僕はルチアーノの手を取った。不快ではなかったのか、彼も優しく握り返してくれる。静かな暗闇と桜に囲まれて、僕たちは身を寄せあった。