借りてきた猫 シティ中央に位置する繁華街は、今日もたくさんの人で溢れていた。歩道は人の頭で埋まっていて、信号待ちで足を止める度に人の流れに押し出されそうになる。お互いを見失うことがないように、僕たちはしっかりと手を握っていた。
こうして手を握りながら歩いていると、僕はルチアーノの家族になったような気持ちになる。繁華街の人混みで見かける、幼い弟を連れたお兄ちゃんは、いつもこうして手を引いていたのだ。本当は僕がルチアーノに心配されているのだけれど、周りからしたらそんな違いは分からないだろう。
中心部を通り抜け、人が少なくなってきた辺りで、ルチアーノが不意に手を離した。驚いて彼の方に視線を向けると、今度は距離を取るように離れてしまう。わざとらしく避けられた視線の先は、交差点のビルに向けられていた。
突然のことに、僕は呆然と動きを止めた。これまでにも何度も手を繋いで歩いているが、こんなに露骨に手を払われたのは、今回が初めてだったのである。いや、これまでにも手を振りほどかれることはあったけど、僕が失言をしたとかで、明確な理由がある時だけだったのだ。だから、こんな風に意味もなく手を離されるなんて、一度も想像したこともなかった。
「ルチアーノ……?」
声をかけるが、彼はビルの曲がり角を見つめている。何かを警戒しているような、鋭く尖った瞳だった。まさか、僕たちの命を狙う外敵が、ビルの角から現れるのだろうか。そんなことが脳裏をよぎったが、僕の予想は外れていた。
通りの向こうから現れたのは、巨大な人影だったのだ。太陽の光を遮るほどの大きな影が、僕たちの視界を多い尽くした。あまりにも巨大だったから、空に雲が現れたのかと思ったくらいだ。不思議に思って真上を見上げると、そこには大男の姿があった。
「わっ…………!」
町並みにそぐわない風景に、僕は驚きの声を上げてしまう。僕たちの目の前に現れた存在は、どう見ても人ではなかったのだ。天に届きそうなほどの背丈は、優に二メートルは越えているだろう。体格も尋常ではなく、大人二人が並んだほどの大きさだった。驚くことに、目の前に現れたその人物は、口元に長い髭を生やしていたのである。
ルチアーノの視線は、真っ直ぐにその男に注がれていた。少し強ばった表情で、倍近くもありそうな男を見上げている。彼が緊張しているということは、この老人は組織のメンバーなのだろう。周囲の人々が気にも止めていないのは、幻影によって真の姿を隠されているからだ。
「なんで、こんなところにいるんだよ」
少しの間睨み合った後に、ルチアーノは小さな声で言った。少し緊張しているようで、その声には震えが混ざっている。僕にも分かるくらいなのだから、目の前の老人にも筒抜けだったのだろう。威圧するような鋭い視線で、真っ直ぐにルチアーノを見下ろしている。
「お前こそ、何故ここにいる」
頭上から飛んできたのは、くぐもった老人の声だった。何かの機械を通しているのか、そこにはノイズのようなものが響いている。淡々とした語り口も相まって、その言葉の重圧は計り知れない。ルチアーノが緊張する理由も、なんとなく分かる気がした。
「そんなの、任務のための練習に決まってるだろ。僕のパートナーは人間なんだ。最適な解を導くには、経験としての知識を積む必要がある」
老人の言葉に対抗するように、ルチアーノは次々と言葉を並べる。人間に向けるような鋭い言葉は、ここでは虚勢でしかないのだろう。その証拠に、彼の緑の瞳は、老人の顔色を窺っている。なんだかデジャブを感じて、胸の奥が痛くなった。
「そんなことを言って、練習を口実に遊んでいたのではあるまいな」
「そんなこと……!」
老人の畳み掛けるような言葉に、ルチアーノは噛み付くような視線を向ける。言葉が途中で途切れているのは、少し後ろめたさを感じているからだろうか。僕とタッグを組んだのは任務のためだが、それ以上の関係を築いたのは個人の感情によるものである。使命から逸れていると告げられたとしても、上手く反論できないのだろう。
「ルチアーノ」
そんな彼の隙をついて、老人は低い声で名前を呼ぶ。ルチアーノの身体が小さく震えていたのを、僕は見逃さなかった。彼にとってこの老人は、恐れの対象なのだろう。彼が僕に対して見せる恐れも、この老人を思い出してのことなのかもしれない。
「我らの使命は、神の居城を出現させることだ。そのために、神は我らに石板を授けた。人間なんかに絆されている場合ではないのだ。努々忘れるでないぞ」
「分かってるよ」
ルチアーノの唇から、小さな声が零れ落ちる。威圧に負けたことを恥じるような、悔しさの籠った声色だった。ここまで覇気を失くしたルチアーノを、僕はこれまでに見たことがない。まるで、借りてきた猫のような態度だった。
一通り注意して満足したのか、老人は大通りへと歩を進める。僕の隣を通りすぎる時に、ちらりとこちらに視線を向けた。白い布の中に隠れた瞳は、ルチアーノと同じ薄い緑色だ。顔立ちもどこか似ているような気がするのに、視線の鋭さはルチアーノをはるかに越えていた。
「チッ…………」
老人の姿が見えなくなると、ルチアーノは小さな声で舌打ちをする。通りの向こうを睨み付ける姿は、いつもの調子に戻っていた。少し心配していたから、僕は密かに胸を撫で下ろす。気を取り直してルチアーノに向かい合うと、手を取りながら尋ねた。
「今の人は、組織の仲間なの?」
「そうだよ。イリアステル三皇帝の、自称リーダーだ。いつもは玉座に座ってるだけなのに、よりにもよってこんな時に現れるとはな」
不満そうに鼻を鳴らしてから、ルチアーノはトゲのある声色で言う。彼が機嫌を損ねているのは、僕に組織の上下関係を見られたからだろうか。もしかしたら、仲間にパートナーの人間を見られたことにも、恥ずかしさを感じているのかもしれない。僕がルチアーノと深い仲であることは、仲間の人たちも知っているのだろう。
「ルチアーノの組織にも、上下関係があるんだね。神の代行者も、なかなかに大変そうだなぁ」
僕が呟くと、ルチアーノは再び鼻を鳴らした。僕の率直な感想が、彼のプライドに傷をつけてしまったらしい。視線を下に落としたまま、彼は吐き捨てるように言葉を吐く。
「そんなもの、あって無いようなもんだぜ。あいつが勝手にリーダー面して、偉そうにふんぞり返ってるだけなんだから。任務の遂行という面では、僕の方が働いてるくらいだ」
リーダーというものは、前線にはで出ないものではないのだろうか。そう思ったけど、僕は何も言わなかった。これ以上ルチアーノの機嫌を損ねたら、僕が怖い思いをするだけなのだ。だったら、黙っていた方が得策だろう。
静かに歩を進めながら、僕はさっきの光景を思い出す。彼らの組織のリーダーだという老人は、確かにリーダーを名乗るだけの威厳を持っていた。全ての者を凍りつかせ、言葉を奪わせるほどの圧力である。人間に対しては勝ち気なルチアーノも、あの気迫には勝てないようだった。言葉という爪を引っ込めて、聞き分けのいい子供のように返事をしている。
「それにしても、ルチアーノは仲間の前ではあんな感じなんだね。なんか意外だったな」
少しの間を置いてから、僕はそんなことを呟いた。繋いでいたルチアーノの腕が、小さく震えるのを感じる。どうしたのかと思っていると、彼は小さな声で言った。
「だから、君には見られたくなかったんだよ」
その声が真剣味を帯びていて、僕は息を飲んでしまう。思わずルチアーノに視線を向けるが、彼は前を向いていた。僕は何気なく触れてしまったが、彼にとっては隠したい秘密だったのかもしれない。そもそも、普段の彼だったら、仲間の話なんて絶対にしないのだ。
「あいつの前だと、僕は上手く喋れないんだ。あの瞳に睨まれると、上手く言葉を返せなくなる。きっと、僕にはそういう機能がついてるんだろうな。僕のオリジナルに当たる人間は、幼い子供だったんだから」
一言ずつ噛み締めるような響きで、ルチアーノは言葉を重ねていく。彼のそんな話を聞いてしまったら、何も言うことはできなかった。この小さな男の子には、僕の知らない秘密が山のように隠されているのだ。それが、秘密結社の一員というものなのだろう。
「ルチアーノは、僕の話すのも苦手? 僕のことを、怖いと思ったことはある?」
ふと思うことがあって、僕はそんなことを尋ねてみた。ルチアーノが苦手としているのは、大人の威圧感なのだろう。だとしたら、僕が彼に注意している時にも、威圧を与えてしまっているのかもしれない。それで言葉を塞いでしまっているのなら、その関係は対等とは言えないのだ。
「君のことは、怖いと思ったことはないよ。君は、僕の言葉を塞いだりしないから」
だから、彼から返ってきた言葉を聞いて、僕は安堵の息をついてしまった。少なくとも、僕は彼にとっては、恐ろしい大人ではないらしい。対等な関係を築けているのなら、僕たちの交際は大丈夫なのだろう。
「なら、よかった」
小さな声で呟くと、僕はルチアーノの手を握りしめる。隣を歩くルチアーノが、呆れたようにため息をついた。
「なんだよ。変なやつ」
小さな呟きを聞きながら、僕は一歩ずつ前を目指す。あの老人の恐ろしい眼差しも、いつの間にか忘れていた。