文使い その日、シティ中央に位置する繁華街は、たくさんの人で溢れていた。歩道にはひっきりなしに人が行き交い、すり抜けられるような隙間もない。ようやく人のまばらな場所を見つけたと思ったら、キッチンカーの列にぶつかったりするのだ。歩道を歩くことを諦めた人々は、車道の隅を歩いているくらいである。僕は特に人込みが苦手だから、何度もぶつかりそうになってしまった。
なんとか人混みを抜けて横道に入ると、僕は大きく息をついた。ずっと人間の気迫に圧倒されていて、息が苦しくなっていたのだ。何のイベントも無い日でさえこのような感じだから、休日の繁華街というものは恐ろしい。ルチアーノを連れてこなくてよかったと、心の底から思ったくらいだ。
少し休憩を挟むと、僕は再び歩を進める。これでも繁華街の奥まで進んできたから、目的地まではあと少しだろう。とはいえ、これ以上人込みの中を歩くのは、僕の気力が持たなそうだ。少し遠回りになってしまうが、路地裏を選んで向かうことにした。
マップを見て進行方向を確かめると、僕はそちらへと歩を踏み出す。このルートは初めて使うから、迷子にならないか心配だったのだ。いつもならルチアーノに道案内してもらえるのだが、生憎今日はひとりである。そんなことを考えながら歩き出すと、不意に背後から声が聞こえた。
「あの、すみません」
予想外の事態にびっくりして、僕は思わず身体を震わせる。心臓がドクドクと音を立てて、少し息が苦しくなった。なんとか呼吸を整えると、声のした方へと視線を向ける。そこに立っている人影を捉えて、僕は大きく目を見開いた。
僕の目の前に現れたのは、小さな女の子だったのである。背丈はルチアーノと変わらないくらいだから、年の頃は小学校高学年くらいだろう。外国の血を色濃く引いているのか、髪は金色に輝いている。真っ直ぐに僕へと視線を向けると、彼女ははっきりした声で言った。
「あの、○○○さんですか?」
彼女の口から出た言葉を聞いて、僕はまたしてもびっくりしてしまう。少女の唇から発せられたのは、確かに僕の名前だったのだ。しかし、当の僕の方は、頭に疑問符を浮かべることしかできなかった。必死に記憶を探っているのだが、その少女の姿に見覚えがないのである。
「えっと、そうですけど……」
頭の中で思考を巡らせながらも、僕はなんとか言葉を返す。歯切れの悪い返事だったが、彼女は気にしなかったようだ。顔に満面の笑みを浮かべると、肩から下げた鞄に手を伸ばす。中から取り出したのは、可愛らしいデザインの封筒だった。
「あの、これ…………!」
両手で封筒の端を持つと、僕の方へと差し出してくる。真剣な表情から察するに、中身はファンレターであるようだった。この町で大会に出るようになってからというもの、こうして手紙をもらうことも増えていたのである。とはいえ、こんな小さな子から贈られるのは、僕のデュエリスト人生でも初めてだった。
「渡してください。いつも隣にいる男の子に……!」
手紙を受け取ろうと手を伸ばした僕に、少女は追加の言葉を重ねる。その内容にびっくりして、僕は動きを止めてしまった。いつも隣にいる男の子と言ったら、思い浮かぶのはルチアーノだけだ。まさか、彼へのファンレターを託されるなんて、考えたこともなかった。
「隣にいる男の子って、ルチアーノのこと……?」
音を立てる心臓を押さえつけたまま、僕は目の前の少女に確認を取る。心当たりは一人しかいなかったが、確認せずにはいられなかったのだ。名前を言っただけでは分からなかったのか、彼女は考えるように間を空ける。すぐに気を取り直すと、説明するように口を開いた。
「赤くて、長い髪の男の子です。その子に渡してください」
並べられた言葉を聞いて、ようやく僕も確信する。この少女がファンレターを届けたい相手は、まごうことなくルチアーノだった。まさか、僕が彼へのファンレターの仲介をすることになるなんて。彼は住所を持たないから当然ではあるのだが、なんだか信じられなかった。
「ありがとう。渡しておくよ」
内心の動揺を押し殺すと、僕は少女から手紙を受け取る。年頃の少女が使いそうなピンク色の封筒には、ハート型のシールが貼り付けられていた。デザインや色合いも相まって、それはラブレターのようにも見える。いや、見えるのではなくて、本当にラブレターなのかもしれない。
「お願いします」
小さな声で言うと、少女は足早に背を向けた。賑やかに足音を鳴らしながら、大通りに向かって去っていく。彼女の姿が見えなくなると、僕は受け取った封筒を鞄に仕舞った。うっかり曲げてしまったら申し訳ないから、生地に沿うように丁寧に押し込む。
再び路地に身体を向けると、僕は先へと進むことにした。しかし、一歩踏み出したところで、思わず足を止めてしまう。さっきまでのやり取りが衝撃的過ぎて、自分が何をしようとしていたかを忘れてしまったのだ。記憶をひっくり返して思い出すと、改めて歩を進めたのだった。
その夜、夕食の片付けを済ませた僕は、隅に避けていた鞄に手を伸ばした。ファスナーで閉じられた口を開けると、中からピンクの封筒を引っ張り出す。昼間に女の子からルチアーノに渡すように頼まれていた、可愛らしいデザインのファンレターである。汚さないように両手で隅を摘まむと、少し緊張しながら彼の元へと向かった。
当のルチアーノはと言うと、ソファに座ってテレビに視線を向けていた。夜の単調なバラエティ番組を、見るともなしに眺めている。僕の足音に気がつくと、ゆっくりと顔をこちらに向けた。片方しか見えていない薄緑の瞳が、真っ直ぐに僕の姿を捉える。
「ルチアーノに、渡したいものがあるんだ」
正面から彼に視線を向けると、僕は小さな声で言葉を紡ぐ。そんな僕の仕草に違和感を感じたのか、彼は怪訝そうな表情を浮かべた。
「なんだよ」
「これなんだけど……」
胸を満たす緊張を感じながら、僕は手に持っていた手紙を差し出す。ルチアーノの興味なさげな視線は、一瞬しかそれを捉えなかった。すぐに僕へと目線を戻すと、問い詰めるような声色で言う。
「手紙? 君が書いたのか?」
「違うよ。渡してって頼まれたの!」
あらぬ誤解が飛んできて、思わず大きな声を上げてしまう。この手紙の装丁は、どう見ても女の子の選んだものだろう。男がピンクの封筒を選ぶなんて、よほどの変人でなければあり得ない。万が一選ぶことがあったとしても、もっと薄くて主張の少ないものだ。
「頼まれた? どんなやつにだよ」
声を荒らげる僕を見て、ルチアーノはさらに眉を寄せる。ようやく興味を持ってくれたのか、僕の手から封筒を奪い取った。くるくると回転させて、そこに名前が書かれていないかを確認する。しかし、隅々まで確認したとしても、そこに名前は書かれていなかった。
「女の子だよ。ルチアーノと同じくらいの。僕の知り合いじゃなさそうなんだけど、ルチアーノは心当たりとかない?」
封を開けるルチアーノの姿を見ながら、僕は疑問に思っていたことを口にする。彼に手紙を渡すように頼んだ女の子は、僕の知り合いではなかったのだ。こうなると、彼女はルチアーノの知り合いであるか、見ず知らずの他人であるかのどちらかだ。しかし、僕の言葉を聞いたルチアーノも、きっぱりと否定の言葉を口にした。
「無いよ。僕は神の代行者なんだから、そんな子供には用事すらないさ」
「そっか……」
彼の答えを聞いて、僕は小さく肩を落とす。結局、女の子が何者だったのかは、何も分からないまま終わりそうだ。そんな僕の目の前で、ルチアーノは淡々と封筒を開けていく。可愛らしいデザインの便箋を取り出すと、左右に目を走らせた。
「ただのファンレターだな。こんなもの、貰っても嬉しくなんてないのにさ」
つまらなそうに呟くと、彼は便箋を封筒に戻す。再び口を閉じたかと思うと、指先で封筒を破り始めた。予想外の行動にびっくりして、僕は言葉を発することもできない。ようやく我に返ると、慌てて静止の声を上げた。
「何してるの!?」
「何って、手紙を処分してるんだよ。僕には不要なものだからね」
慌てる僕の姿を横目に、ルチアーノは淡々と言葉を告げる。あっという間に紙を引き裂くと、片手間にゴミ箱の中へと放り込んだ。女の子が丹精込めて書いたであろう文字の集大成は、小さな紙の欠片となってしまう。女の子の正体を探るヒントまで、一緒に箱の底へと消えていった。
「せっかくもらったファンレターなのに……」
ゴミ箱の中を覗き込みながら、僕は小さな声で呟く。しかし、当のルチアーノは、随分すっきりした顔をしていた。僕の方へと視線を向けると、けろっとした様子で言葉を吐く。
「これでいいんだよ。僕の正体は、誰にも知られちゃならないんだから」
「確かに、そうなんだけどさ……」
彼の横顔を眺めながら、僕は大きく息を吐く。彼の言うことはもっともなのだが、あまりにも情緒というものがなかった。仮にも、女の子がやっとの思いで渡したファンレターなのだから、もっと大切にするべきだろう。返事を書けと言うつもりはないが、破って捨てるほどのことではないと思った。
まあ、彼に何を言ったところで、理解してはもらえないのだろう。女の子のことを不憫に思いながらも、僕にはどうすることもできなかった。