キャンペーン 真っ直ぐに大通りを前進すると、僕は左右に視線を向けた。無数の飲食店が集結したレストラン街は、ビルの至るところにカラフルな看板が掲げられている。左から肉の焼けるいい匂いが漂ってきたかと思うと、今度は右から甘い匂いが流れてきた。ビルとビルの間の僅かなスペースには、所狭しとキッチンカーが出店している。
覚束ない足取りで人々を避けながら、僕はビルの看板に視線を向けた。人並みの視力しかない目を凝らして、そこに書かれている文字を読もうとする。ごちゃごちゃとしたビルの壁面看板は、設置場所によっては非常に読みづらいのだ。しかも、ようやく文字が読めたとしても、その看板がどのフロアを指してるのか分からなかったりする。
もう少ししっかり文字を読もうと、僕は思わず足を止めた。繋いでいた腕が引っ張られて、身体が前方に傾いてしまう。転びそうになったところを支えたのは、隣を歩いていた男の子だった。不満そうな顔で僕を見上げると、彼は少しトゲのある声で言う。
「急に立ち止まるなよ。危ないだろ」
「ごめんね。ちょっと、看板を見たくて……」
小さな声で答えながら、僕は上方へと視線を向けた。看板を見ることに集中していたから、返事も上の空になってしまう。狭いビルが立ち並ぶ繁華街は、どこも看板で溢れているのだ。ここでしっかり確認しておかないと、いいお店を見つけても間違ったフロアに入ってしまうかもしれない。
「わざわざ看板なんか見なくても、インターネットっていう便利なものがあるだろ。食べたいもんがあるなら、ここでとっとと調べちまえよ」
キョロキョロと周囲を見渡す僕を見て、ルチアーノは呆れたように言う。しかし、彼が何を言ったとしても、僕には従うつもりなどなかった。インターネット検索でヒットするお店というのはは、どれも似たりよったりの店舗ばかりなのである。そんな代わり映えのしない食事を選ぶのなら、賭けに出てでも初めてのお店を選ぶ方がいいだろう。
「せっかく繁華街に来てるんだから、いつもと同じようなお店に行ったらもったいないよ。普段は行かないようなお店に入ってこそ、外食の醍醐味ってものでしょ」
少し弾んだ声で言葉を返すと、僕はレストラン街の奥へと向かう。そんな僕の姿を見て、ルチアーノは説得を諦めたようだった。面倒臭そうに大きくため息をつくと、気乗りしない足取りで後を追いかけてくる。もう既に飽き初めているようだが、気にせずに先を急ぐことにした。
鳩のように左右に視線を向けながら、僕は通りを奥へと進む。中央通りから離れれば離れるほどに、建ち並ぶビルは乱雑になっていった。洋食や中華料理の店舗に混ざって、インド料理やトルコ料理の看板が見えてくる。反対側の通りに並んでいるのは、どこの国のものかも分からない国旗だった。
ここまで選択肢が増えてしまったら、余計に何を食べようか迷ってしまう。せっかく奥地まで来たのだから、普段なら食べられないものを食べた方がいいだろう。しかし、知らない国の料理を食べるには、なかなかに勇気が必要になるのだ。もし口に合わなかった場合、悲しい気持ちで残りを食べなければならない。
そんなことを考えながら歩いていった先で、僕は再び足を止めた。乱雑に並んでいる看板の間に、気になるものを見つけたのだ。それは店舗の看板ではなく、間にあるキッチンカーの旗である。片方には外国語らしい文字が記されていたが、もう片方は珍妙な日本語だったのだ。
「どうしたんだよ」
急に足を止めた僕を見て、ルチアーノは怪訝そうな表情を浮かべる。身体の後ろから顔を覗かせると、向こうにたなびく旗に視線を向けた。そこに記されている文字を捉えると、彼はわざとらしく口角を上げる。ちらりと僕の方に視線を向けると、少し弾んだ声で文字を読み上げた。
「なになに、『恋人の日限定キャンペーン』……? 君は、こんなものに興味があるのか?」
試すようなルチアーノの言葉が、すぐ隣から僕へと突き刺さる。ついうっかり足を止めてしまったせいで、見つかりたくない相手に見つかってしまった。こんな絶好の機会を見つけてしまったら、彼は気が済むまで僕をからかうだろう。無意味だとは思いながらも、ひとまず抵抗の言葉を吐く。
「違うよ。見慣れない文字だったから、ちょっと気になっただけで……」
「誤魔化さなくていいんだぜ。君が僕を好きだってことは、僕が一番よく分かってるんだから。常日頃から、僕のことを自慢したくて仕方ないんだろう?」
「そうじゃないって……! 話を聞いてよ……!」
しかし、僕の抵抗も虚しく、ルチアーノは勝手に話を進める。強引に僕の腕を掴むと、キッチンカーを目指して歩き始めた。一度こうなってしまったら、もう逃れる手段など残っていないだろう。仕方がないから、おとなしく引き摺られることにした。
目的のキッチンカーの前には、手書きの看板が立てられている。こちらも二つ並んでいて、片方にメニューが書き連ねられていた。もう片方の看板には、キャンペーンの詳細が説明されている。それによると、今日が母国で恋人の日に制定されていることに因んで、恋人を優先したキャンペーンを行っているらしいのだ。
「ふーん。恋人の日を記念して、半額キャンペーンが開催されてるのか。条件は、店員の前でキスをすること、だってさ」
どこか楽しそうに看板を読み上げると、ルチアーノは僕に視線を向ける。からかいたくて仕方がないとでも言わんばかりの、甲高く弾んだ声だった。もう逃げ場など無いも同然だったが、おとなしく屈するような僕ではない。ルチアーノの腕を引っ張り返すと、僕は必死に言葉を重ねる。
「だってさって言われても、キスなんてしないよ。僕だって、まだここの料理を買うと決めたわけじゃないんだから」
「なんでそんなに恥ずかしがるんだよ。家にいる時の君は、ベタベタくっついてくるくせにさ。キスするだけで半額になるなら、やらない手はないだろ」
結局、僕の細やかな抵抗は、大して意味をなさなかった。ルチアーノの人間離れした腕力に引きずられて、僕は注文口の前へと連れ出されてしまう。車の中で店番をしている若い女性が、そんな僕たちの様子を微笑ましげに眺めていた。
「ねえねえ、この恋人の日キャンペーンって、同性でもいいの?」
カウンター越しに女性の姿を見上げると、ルチアーノは楽しそうな声で言う。無邪気な子供を演じているのか、その声は甲高くて舌足らずだった。彼の子供らしい言動に、女性は華やかな営業スマイルを浮かべる。もしかしたら、店番をしている女性の目には、僕たちが恋人ごっこをする子供に見えているのかもしれない。
「同性でも大丈夫ですよ。挑戦しますか?」
「いいんだって。ほら、キスしよう」
女性の返答を聞いたルチアーノが、楽しそうにこちらを振り返る。一見無邪気な笑顔の奥には、なんとも言えない凄みが滲んでいた。完全に外堀を埋められて、僕はようやく観念する。そもそも、彼がキャンペーンに興味を持った時点で、僕に逃げ場などなかったのだ。
「分かったよ。すればいいんでしょう」
小さな声で答えると、目線が近づくように身体を屈める。ルチアーノの一回り小さな顔に、僕の顔が近づいていった。ただ口づけを交わすだけだというのに、人前であることを意識すると妙に緊張してしまう。心臓がドクドクと音を立てて、周りに聞かれてしまいそうだった。
僕の落とした唇が、そっとルチアーノの唇に触れる。柔らかい感触を捉えると、僕はすぐに離そうとした。キスとしか指定されていないのだから、それ以上のことをする必要はない。しかし、僕が唇を離す前に、ルチアーノの方が行動を起こしてしまった。
彼の長くて熱い舌が、僕の唇を抉じ開ける。抵抗する隙すら与えないうちに、それは口内へと侵入してきた。熱く蠢く柔らかい物体が、容赦なく僕の口内を掻き乱す。一時的に気道が塞がれて、僕は喉の奥から声を漏らした。
「んぐっ…………!」
舌先で何度か口内を撫でると、彼はそっと唇を離す。唇の端から垂れた唾液が、頬を伝って顎へと垂れていった。突然の出来事に、僕は呆然とすることしかできない。しかし、彼の行動に驚いているのは、僕一人だけではなかったのだ。
「えっと、チャレンジ成功なので、ご注文の商品一品が半額になります」
戸惑いを隠せないとでも言いたげな様子で、女性店員は言葉を重ねる。明らかに未成年の子供が深いキスをする姿を目撃したのだから、困惑するのも当然だった。僕だって、ルチアーノがこんな人前で、舌を入れるキスをしてくるとは思わなかったのだ。女性に目撃されたことも相まって、挙動不審な返答になってしまう。
「えっと…………ありがとうございます」
「ご注文はお決まりですか?」
「え……? ああ、えっと…………」
流れるように注文を促されて、僕は初めてメニューに視線を向ける。ルチアーノに無理矢理引きずられて来たから、どんなメニューがあるかすら分かっていなかったのだ。カウンターの前に顔を出すと、そこに広げられていたメニューに視線を向ける。外国料理だからと身構えていたが、中にはお米を使った料理も多いようだった。
「じゃあ、これとこれと、烏龍茶で」
「かしこまりました。三点で千二百円になります」
指差しで注文を済ませると、会計を済ませてレシートを受け取る。どうやら、ここに書かれている番号が、調理後の呼び出し番号になっているようだった。料理の出来上がりを待っている間に、僕はルチアーノの腕を引っ張る。全く悪びれる様子の無い彼に、僕は真剣な声色で語った。
「もう。急に舌なんか入れてきたらびっくりするでしょ。お店の人に見せるものなんだから、唇を触れるだけでいいんだよ」
僕がここまで切実になってしまうのにも、正当な理由があったのだ。今時、いつどんな振る舞いをきっかけに、ハラスメントを疑われるか分からない。若い女性に深い口づけの様子を見せるなんて、シティのルールでは許されないことかもしれないのだ。通報されてセキュリティに追われたりしたら、困るのは僕たちの方だった。
「なんでだよ。君はいつも、僕に舌を入れるキスばかりしてるだろ。同じことをしてるだけなんだから、文句を言われる筋合いはないぜ」
「それは、家にいるときだけでしょ。こういうことは、人目につかない場所でしないといけないの」
しかし、どれだけ説得を試みても、ルチアーノは呑気な顔をしているだけだ。もしかしたら、本当は良くないことだと分かっているけど、わざと知らんぷりをしているのかもしれない。結局のところ、彼にとって僕という存在は、からかいがいのあるおもちゃでしかないのだ。
そうこうしているうちに、キッチンカーから番号を呼ぶ声が聞こえてきた。今この辺りにいるのは僕たちだけだから、完成した料理も僕たちのものだろう。慌ててお財布を鞄にしまうと、僕はルチアーノに声をかける。
「じゃあ、受け取ってくるから、ここで待っててね」
「子供扱いするなよ。いつもは、君が迷子になってるくせに」
キッチンカーへと歩きだした僕の背中に、ルチアーノの憎まれ口が飛んでくる。こうして子供らしい振る舞いをしている時は、彼のこともかわいいと思えるのだった。