昔の話 勉強机の引き出しには、ひとつだけ開かずの段があった。遠い昔に鍵をかけたまま、肝心の鍵そのものを無くしてしまったのである。思い付いたところを探して見たけれど、それらしいものはどこにも見当たらない。結局、見つからずに諦めたまま、その引き出しのことは忘れていた。
そんな引き出しの鍵を、なぜか今になって発掘した。押し入れの本棚の片隅に、忘れられたように転がっていたのである。数年の時が経っていたけれど、その形状を見ただけですぐに引き出しの鍵だと分かった。ルチアーノに見つからなかったことだけが唯一の救いだ。
鍵を手にすると、僕は勉強机の前へと向かった。大きく深呼吸をすると、鍵穴に鍵を差し込む。最後にここを開けたのは中学生の時だから、数年は開かずの引き出しになっていたはずだ。もしかしたら、とんでもなく恥ずかしいものが入ってるかもしれない。そんなことを考えると、心臓はドクドクと音を立てた。
覚悟を決めると、思いきって鍵を回した。思ったよりもあっさりと、鍵穴は横に回転する。鍵を取り出すと、そのままの勢いで引き出しを開けた。
中には、ほとんど空に近かった。唯一、子供らしいレターセットの封筒だけが、真ん中にぽつんと置かれている。手にとって裏返すと、拙い文字で『○○○くんへ』と書かれていた。
そこで、ようやく僕は思い出した。この引き出しの中には、女の子からもらった手紙を入れていたのだ。同じクラスで何度か喋ったことのあるかわいらしい女の子で、周りに囃し立てられるままに好意を寄せていたのだ。
封筒を開けると、中の便箋を取り出す。そこには、子供らしい遊びの約束が、女の子らしい丸文字で書かれていた。何の変哲もない手紙なのに、当時の僕は飛び上がるほど喜んだのだ。
なんだか、懐かしい思いがした。今にして思えば、それは恋愛などではなかったのだけど、幼い僕は本気で好きだと思い込んでいた。彼女は今、何をしているのだろうか。小学校を卒業してからはすっかり縁がなくなってしまったから、何一つ分からない。
僕は手紙を取り出すと、ペン立てからハサミを取り出した。ゴミ箱を引き寄せると、隅から細かく切り刻む。僕にとって、この手紙は過去の恋愛の象徴だ。ルチアーノと結ばれた今は、必要ないものだと思った。
四通あった手紙を全て切り刻むと、ゴミ箱の袋を変えた。口を閉じて捨ててしまえば、ルチアーノに漁られることもない。証拠隠滅のようで後ろめたいが、トラブルになるよりはいいだろう。
引き出しを閉めながら、僕はふと考えた。ルチアーノには、過去の思い出というものがあるのだろうか。彼の話を信じるなら、僕に会うまでに数千年の時を過ごしていることになる。過去に深い仲になった人間がいてもおかしくないと思った。
「ねぇ、ルチアーノ。ルチアーノには、一緒に暮らした人間がいたりしないの?」
その日の夜、何気ない態度を装って尋ねると、彼は訝しそうに視線を向けた。やっぱり不自然に感じたのか、眉を僅かに上げて言葉を返す。
「なんだよ。急にそんなこと聞いてきて」
「ふと、気になったんだ。僕はルチアーノに過去の女の子の話をしたけど、ルチアーノの過去は聞いたことがなかったなって」
平静を装って告げると、彼はあからさまに目を細めた。疑うような視線を向けると、湿度のある声で言う。
「なんで急にそんなことを聞くんだよ。これまでの君は、僕の過去なんか少しも気にしてなかっただろ」
「だって、気になるんだよ。ルチアーノがどういう風に人生を送ってきて、どんな人と関わってきたのか。僕は、ルチアーノの恋人だから」
そう。僕がこれほどまでに彼の過去を気にするのは、彼が家族同然の存在だからだ。大切に思っているからこそ、過去の相手を気にしてしまうのである。
ルチアーノは、何も答えなかった。不機嫌そうな表情を浮かべたまま、僕の方を睨んでいる。返事を期待できなくて、僕の方から言葉を吐いた。
「ねえ、ルチアーノは、過去に誰かと暮らしたりしたことはないの? 僕のことを好きでいてくれるなら、昔のことを教えてよ」
催促をしても、彼の仏頂面は変わらなかった。
「そんなことを知って、どうするつもりだよ」
「えっ?」
よく聞き取れなくて、僕は間抜けな声を上げる。それに答えるように、彼はさらに言葉を続けた。
「そんなことを知っても、君にいいことなんかないだろ。なんで知りたがるんだよ」
彼は、迷っているようだった。素直に答えられない何かが、彼の中にはあるのだろう。その迷いが少しでも絶ちきられるようにと、僕も素直に言葉を返す。
「知りたいからだよ。僕は、ルチアーノのことを知りたい。ただ、それだけなんだ」
しばらくの間だけ、僕たちの間に沈黙が訪れた。言葉を重ねるべきが迷い始めた頃に、彼はそっと口を開いた。何を言うか選ぶような辿々しさを含みながらも、淡々と言葉を吐き出す。
「君の想像通りだよ。僕は、人間と暮らしたことがある。でも、勘違いしないでくれ。僕は、その人間たちに特別な感情は持たなかったんだ」
僕は、真っ直ぐにルチアーノの目を見つめた。彼の瞳は、少しの揺らぎも含まれていない。嘘はついていないみたいだった。
「ありがとう。話してくれて」
それ以上の追求はせずに、お礼の言葉だけを伝える。ルチアーノが、ホッとしたように息ついたのが見えた。質問を重ねられることは、彼にとって避けたいことだったのかもしれない。
彼の言葉を信じるのであれば、ルチアーノは数千年の時を生きている。その長い人生の中では、別の人間と関わることもあっただろう。彼が過去に誰かと暮らしていたからといって、彼を嫌いになるわけではない。
それなら、どうして僕はこんなことを尋ねたのだろうか。よりにもよって、恋人を試すようなことをしてしまったのだろうか。自分の気持ちが、自分でも分からなかった。