はんぶんこの魔法「ほら、半分こ」
空が差し出してきた右手を、蛍はじっと見つめた。ふわりと香る甘い菓子の匂い。口に湧きあがってきた唾をあわてて飲みこみ、蛍は問いかけた。
「いいの? 空、これ好きだったでしょ?」
「そりゃ好きだけどさ。好きなのは蛍もだろ? それに」
空は半分になった菓子を蛍の手に握らせ、少し恥ずかしそうに笑った。
「……独り占めするより、一緒に食べたほうが美味しいからさ!」
身を寄せ合い、お菓子をちびりちびりと食べはじめる空と蛍。時おり顔を見合わせ、「美味しいね」「うん」と頬を緩ませている。なによりも大切な片割れと自分自身の姿を見つめながら、蛍はぼんやりと思った。
(ああ、夢か)
いつかの旅の記憶が見せる、あたたかな幻。幸せなはずのそれは、しかし鋭く蛍の心を切り裂いた。
(だって今の私の隣に、空は――)
手を伸ばすと、幻はガラス細工のように砕け散った。あとに残ったのは、底のない暗闇。蛍は己の身を抱いた。寒い。ひとりは、なんて寒いんだろう――。
「……たる! 蛍!」
ゆさゆさと肩を揺すられる感触。蛍ははっと目を覚ました。日はいつの間にか傾いていて、空は夜の帳を下ろしている最中だ。森はさらに深い闇の中にあって、辛うじて残った光がうすく相手の顔を照らし出していた。
「……パイ、モン?」
まだ焦点の合わない目でつぶやく。小さな同行者は、腰に手を当てて大きく息を吸い込んだ。
「やーっと目が覚めたな! ずっと呼んでたのに起きないから心配したんだぞ!」
ぷうと頬を膨らませ、丸い顔をさらに丸くするパイモン。まるで頬袋をいっぱいにしたリスのようだ。蛍が思わず「ふふ」と笑い声を漏らすと、パイモンはますます頬を膨らませた。
「もう、笑い事じゃないんだぞ! ……それで、魚はどうだ? 釣れたか?」
パイモンは「おっさかな、おっさかな~♪」と籠をのぞき込んだ。期待にきらきらと輝いていた目には、すぐに落胆の色が浮かぶ。大物が釣れるかも、と用意した大きな籠には枯れ葉が一枚、寂しく入っているだけだった。
「ごめん。まだ一匹も……」
蛍はぴくりとも動かない竿を握って目を伏せた。空は釣りが上手だった。もし、今ここに空が居たら。そうしたらこの籠はきっといっぱいになっていただろうに。蛍の頭に先ほどの夢がよぎる。夜の底冷えする空気が、木々の間をひゅうと通り抜けた。
「……あー、まあ、そういう日もあるよな。それよりほら! オイラの方はすごいぞ!」
パイモンはやけに明るい声を張り上げた。「よいしょ」と背負っていた籠を下ろして、ひとつひとつ並べてみせる。夕暮れの実、リンゴ、キノコ、牛乳の瓶にハムまで。大量の食材に、蛍は目を丸くした。
「すごいパイモン! こんなにどうしたの?」
「へっへー。困ってたおばあちゃんを助けたら、お礼にって貰ったんだ! 人助けって良いもんだな!」
ふふんと得意げに鼻を鳴らしたパイモンは、「しかも!」と含みのある顔でにやりと笑った。
「今日はとっておきがあるんだぞ!」
「とっておき?」
「じゃーん! これだー!」
「ビスケットと……こっちは?」
蛍はパイモンが掲げている、小さくて雪のように白いものを不思議そうな顔で見つめた。パイモンがはっとした顔で目を瞬かせる。
「ま、まさか蛍……お前、マシュマロを知らないのか!?」
「ましゅ?」
蛍が首をかしげると、パイモンは腕をぶんぶんと振って力説し始めた。
「マシュマロだよ! こんな美味しいものを知らないなんて、人生の半分は損してるぞ!」
「そうなの?」
「そうだぞ! ようし、オイラ決めた! 夕飯より先に、まず蛍にマシュマロの美味しさを教えてやるぞ!」
使命感を帯びた目つきのパイモンは、せっせとたき火の支度を始めた。拾う薪より落とす薪の方が多いパイモンに代わって、結局ほとんどの準備を蛍がやることになったけれど。
近くの切り株に腰かけて、パチパチと弾ける炎を見つめる。パイモンは削った木の枝にマシュマロを刺すと、慎重な手つきで火にかざした。
「これは火加減が大事なんだ。焦って焼き過ぎるとコゲコゲのまっくろを食べることになるんだぞ。オイラはそんな悲しいことを二度と繰り返さないと誓ったんだ……」
パイモンは無言でマシュマロと炎を見つめている。その並々ならぬ気迫に、蛍も自然と黙った。静寂が落ちる。川のせせらぎ。木々がざわめく音。ふくろうや虫の声。とっぷりと暮れた森の中で、蛍とパイモンが囲むたき火だけが光を放っていた。
しばらくして、パイモンがマシュマロを火から引きあげた。鼻をくすぐる甘い匂い。とろりと形を垂れさせたマシュマロは、ほどよく焼き目が付いている。
「わあ、美味しそう!」
蛍が歓声をあげると、パイモンは気取ったしぐさで指を振ってみせた。
「ちっちっち。喜ぶのはまだ早いんだぞ! これはこうして……こうだ!」
パイモンはあつあつのマシュマロを手早くビスケットの上に乗せると、もう一枚のビスケットで挟んだ。
「でっきあがり~! ほら、熱いからふーふーして食べるんだぞ!」
パイモンは満面の笑みで、出来上がったものを蛍に渡した。言われた通り、ようく息を吹きかけてから一口かじる。ビスケットの香ばしいサクサク感と、甘くとろけるマシュマロ。蛍は目を輝かせた。
「美味しい!」
たまらずもうひと口頬張った蛍を見て、パイモンは得意げにふんぞり返った。
「うんうん、さっすがオイラだな! マシュマロ焼きの名人とはオイラのことさ!」
得意げなパイモンは、蛍を見てにこにこと微笑んでいる。半分ほど食べたところで、蛍はふとあることに気が付いて顔を上げた。
「あれ、パイモンは食べないの?」
「あ、えっと……オイラはいいよ!」
蛍は驚いて食べる手を止めた。食に貪欲なパイモンらしくもない。まさか拾い食いでもして腹を壊したのだろうか。蛍が考えていると、パイモンはじとっとした目を向けてきた。
「なんかすっごい失礼なことを考えてる気がするんだぞ……単に材料がそれしかないんだよ」
「え?」
蛍はパイモンをまじまじと見つめた。あのパイモンが、自分の分を差し置いて他人にお菓子を振舞うとは。さっきよりもよほど大きい驚きだった。
「でも! オイラ旅人に食べてほしかったから、オイラの分はいいんだぞ! ほんとに!」
気恥ずかしそうに頬をかきながら、右へ左へ浮遊するパイモン。その姿を見ていると、蛍の胸に何かあたたかいものがじんわりと広がった。ふいに襲ってきた泣きたくなるような気持ちに、蛍が戸惑っていると。
ぐぎゅるるる~~!!
「……」
「……」
突如響いた、大きな大きな腹の音。パイモンから聞こえてきたそれに、ふたりは顔を見合わせた。蛍が食べかけのお菓子をパイモンの目の前にちらつかせる。よだれを垂らしたパイモンは、振り子のようにそれを目線で追いかけた。
「……本当に、いらないの?」
「ほ、ほんとだぞ!」
じゅるりとよだれを拭くパイモンに、蛍は更に問いかけた。
「本当の、本当に?」
「う、う……! でもオイラ、蛍に元気になってほしくて、だからオイラは食べたくても我慢しなきゃいけなくて、それで、それで……!」
パイモンはすっかり混乱したぐるぐる目でぶつぶつと呟いた。頭の中で、食欲と理性が戦っているのが分かる。蛍は少し考えてから、食べかけのお菓子を半分に割り、パイモンに差し出した。
「ほら、半分こ」
「え……?」
パイモンは丸い目を更に丸くして蛍を見つめた。拭いきれなかったのだろうよだれが口の端から垂れる。蛍はパイモンの手にお菓子を置いた。
「『独り占めするより、一緒に食べたほうが美味しい』」
いつかの記憶をなぞって、彼の言葉を紡ぐ。空もきっと、こんな気持ちだったのだ。一拍置いて、パイモンの目からぶわっと涙があふれる。
「ほ、ほたる~~!!」
「わっ!?」
蛍の顔に突っ込んでくるパイモン。危うく倒れそうになりながらそれを受け止めた蛍は、パイモンが小さく震えていることに気が付いた。蛍の頭にしがみつきながら、パイモンはぐすぐすと涙声で言った。
「オイラ、お前の家族にはなれないけどさ。それでも、それでも……蛍の隣に、いてもいいか?」
「……うん。もちろんだよ。ありがとう、パイモン」
蛍はパイモンを抱きしめ返した。
(――あたたかい)
片割れとは未だ再会が叶わない。生きているのかさえも分からない。蛍の心は、あちこちに穴が開き離別の寒い風が吹いている。けれど、パイモンが隣にいてくれるなら。旅の行く末は希望に満ちたあたたかいものだと、そう信じられる気がした。
「うん、うん……うん!? おい旅人、釣り竿、釣り竿!!」
「え? あっ!」
パイモンが指さす先を見ると、置きっぱなしにしていた釣り竿がぐいぐいと水辺に引っ張られていた。あわてて駆け寄って竿を握り、渾身の力で引っ張る。
「やったな蛍! 大物だぞ! へへ、焼き魚、カルパッチョ、フリット……迷うなあ」
「ちょっとパイモン!? 見てないで手伝って!」
「あ! そうだったな! フレー!フレー!」
「応援じゃなくて!!」
深い夜の森の中。蛍とパイモンの声は、寂しげな風の音に負けないくらい賑やかに響く。たき火の炎は、ふたりの旅路を照らすようにあかあかと燃えていた。