相合傘忘れもしない一年前。
ちょうどこんな風に雨が降っている日だった。
高校の校舎の入口で、途方にくれて立ち尽くしている謝憐を見つけた。
「兄さん、どうしたの」
「ああ、三郎。急に降ってきて……傘がないんだ」
灰色の空を見上げて謝憐がつぶやく。すでに下校時刻は過ぎていて人はまばらだ。あたりは暗くなり始めている。
「じゃあ一緒に帰ろう」
花城はさりげなく自分の傘を広げた。夕方から雨という予報を見て、とっさに大きめの傘を持って出てきた自分を褒めてやりたい。まさか本当に謝憐と一つの傘に入れるとは。
少し誇らしげに傘を差し出して、花城はそのままゆっくりと歩き出した。ところが数歩も行かないうちに、謝憐の手が傘の柄に伸びた。
「貸して。私が持つよ」
「いいよ、僕が」
「背の高いほうが持つのが合理的だろう」
やさしく微笑まれて言葉を返せずにいるうちに、傘はあっけなく取り上げられてしまった。身長のことを持ち出すのはずるい。謝憐のほうが背が高いと言ったって、せいぜい数センチの差なのに。
年上の謝憐を格好よくエスコートしたい。そう気負っている自分を見透かされたようで、恥ずかしさで顔が熱くなった。同時に、特定の相手を作らない謝憐が自分にだけはこうして親しげに接してくれることに、言いようのない嬉しさと優越感がこみ上げる。胸の奥で混ざり合う感情をその時の花城はまだ咀嚼しきれず、傘の下を歩きながら黙って謝憐の横顔を見上げるしかなかった。
あれから。
高校一年生の後半から花城はぐんと背が伸び、この春二年に進級した時には謝憐の身長を追い越していた。卒業して大学生になった謝憐と久しぶりに会った時の、驚いた顔を忘れられない。それまで見上げるばかりだった胡桃色の瞳は、花城の視線の下にあり、どこかまぶしそうにこちらを見つめていた。
✼ ⋈ ✼
「「「「「お願いしまぁぁぁす!!」」」」」
夜の繁華街に若い男女の声が響く。居酒屋の入口で、一人の青年が数人の若者に取り囲まれ、傘を差し出されていた。困ったように顔の前で手を振る青年に、もう一押しとばかりに若者たちが一斉に頭を下げる。
「俺と相合傘で帰ってください!」
「いや! あたしと!」
「俺と!」
明らかに酔っぱらいのテンションである。ああいう人間にはなりたくないな。離れて見ていた花城は顔をしかめた。
彼らは謝憐の大学のサークル仲間であり、取り囲まれているのは言わずもがな、謝憐だった。大学でできた知り合いに無理矢理引っぱり込まれたサークルだという。立ち尽くす謝憐の肩のあたりが雨に濡れて黒くなっているのを見て、花城はさらに険しい顔になった。
近くまで歩み寄ると、気づいた謝憐があからさまにほっとした表情を見せた。花城は傘を持ち上げて、帰ろう、と合図をした。
「すみません、迎えが来たので帰ります。お疲れさまでした」
律儀に挨拶して頭を下げ、謝憐が輪をすり抜けて走ってくる。引き止めようとしたサークルの連中をひと睨みで威嚇してから、花城は流れるような動作で謝憐を自分の傘に迎え入れた。
「まったく身の程知らずな。兄さんに傘をさせるのは僕だけだ」
冗談めかして言ったつもりが、思いのほか声に苛立ちが混じっていたらしい。駅までの道を歩きながらそうつぶやくと、謝憐が苦笑いでなだめた。
「まあまあ。みんな酔ってたから」
「兄さん、騒がしい場所はあまり好きじゃないでしょう。飲み会なんて行くことないのに」
「うん、そうなんだけどね。歓迎会と言われてしまったから」
困った顔で頬をかく謝憐がどことなく疲れているように見えて、花城は眉をひそめた。
「何かあった?」
「いや……ちょっと雰囲気が苦手だっただけだ」
「そう」
花城は低く返事をして黙り込んだ。普段人の悪口を言わない謝憐が「苦手」とはっきり言うのだから、よほど合わない雰囲気だったのだろう。まさか酒を強要されたり、誰かに不埒なことをされたりしていないだろうか。想像するのもおぞましい場面が頭をよぎり、もやもやと黒い感情がわきおこる。
――側にいられたら、そんな顔させないのに。
飲み会だろうと大学だろうと、側にいて兄さんを悩ませるものを取り除いてあげられたら。生まれた年がたった二年違うだけでそれが適わないことが、はがゆくてたまらなかった。
歩道の水たまりを二人分よけながら、花城はつぶやいた。
「兄さん」
「うん?」
「僕は兄さんにとって、ただの高校の後輩だ」
「?」
「ただの後輩だけど、これから毎日学校が終わったら兄さんの部屋に遊びに行く。兄さんは僕のために夕飯を作って、僕と一緒に食べないといけない」
謝憐は目をまたたかせた。花城はそれを見下ろして、口角を上げた。
「だから次からはこう言えばいい。『手のかかるわがままな後輩に夕飯を作れと脅されているので飲み会には行けません』って」
花城がいたずらっぽく目くばせしてみせると、謝憐は笑い出した。
「私の手料理でいいのか? 言っておくけど料理は下手だぞ」
「僕も作るよ。もちろんただの口実だから、兄さんが嫌なら何もしなくていい。部屋にも行かな……」
「嫌じゃないよ」
語尾を遮るような勢いで返され、花城は思わず口をつぐんだ。かたわらの謝憐も自分の勢いに戸惑ったのか、もごもごと次の言葉を探している。うつむいた胡桃色の瞳が落ち着かなさげにゆれて、雨に煙る街の灯りを反射した。
「ええと……君が部屋に来てくれるのはいつだって歓迎だ。一緒にご飯を食べるのも。それに……」
胸の前で一度だけきゅっと握られた手が、ためらいがちに傘の柄に伸びた。花城は意図をはかりかねて、謝憐のきれいな指先を黙って見つめた。
何だろう。
もう背は越したのだから、自分が傘を持つほうが“合理的”なはずだ。
一年前の何気ない一言を兄さんは覚えていないかもしれないけれど。
ところが、そのきれいな指は、傘の柄ではなく、柄を握る花城の手の上にそっと着地した。
「さっき君の顔を見た時、本当にほっとしたんだ」
冷えきった花城の手に、謝憐の素肌のぬくもりが伝わってくる。
おそるおそる謝憐の方に目を向けると、はにかむような笑顔を返され、心臓がはねた。
「三郎、今日は迎えに来てくれてありがとう」
雨音が急に遠くなる。
鼓動がうるさい。
何か言わなければと思うのに、頭がうまく回らない。
――このまま時間が止まってほしい。
けれどそんな思いもむなしく、重ねられた手は花城の手をあたためきることなしに、そそくさと離れていってしまった。
恥ずかしそうに視線をそらす謝憐を見下ろしたまま、花城はゆっくりと口を開いた。
「……兄さんのことなら、いつでもどこでも迎えに行くよ」
心をこめて告げた言葉は、まるで遠い昔からの約束のように、傘の下を静かに舞った。