美しい人その地方には、とある鬼の伝承があった。
鬼の名は、血雨探花。燃えさかる炎のような紅い衣をまとい、銀の蝶とともに現れるというその鬼は、とても強欲で美しいものに目がなく、三界中から金銀財宝珍品珠玉の類をかき集めていたという。
しかし、血雨探花がどんな高価な宝よりも好んだのは、美しい人間だった。その執着ぶりは老若男女を問わず、彼の美の基準にかなった美しい者は一人残らずさらわれて、ある者は鬼界の彼の城の地下牢に閉じ込められ、またある者は魂を食われたのち石像にされ蒐集品として城の大広間に飾られたという。
一説には、血雨探花は絶世の美人の姿をしており、その美貌は見目麗しい人間たちを絶えず食っているからだとか。
――だからこの辺りのモンは、夜出歩く時は必ず守り袋を持ち歩くんだ。袋に、こうしてほら、美人画を描いた御札を入れておくのさ。万が一血雨探花に出くわしたら、コイツを投げて、ヤツが美人画に気を取られている隙に逃げるって寸法よ。兄ちゃんたち、旅の人だろ? 夜遅くなるんならコイツを持ってかなきゃ。一人十枚でも二十枚でも、命に比べりゃ安いモンだ。さあ買った買った!
「……ということだけど?」
露天商から買った“鬼よけ美人札”なるものをひらひらと振りながら、声が届かない距離まで歩いたところで、謝憐がこらえきれない様子で笑い出した。たまたま訪れた街で、幟に書かれた「血雨探花」の文字に思わず二人が足を止めたのが先刻のこと。話を聞いているうちから、花城の横目に映る謝憐の口元はひくひくと引きつっていた。
「……ろくでもない伝承があったものです」
苦い顔で言うと、謝憐がいっそう笑って涙目をぬぐった。
「全部が嘘じゃない。君は貴重な宝物をたくさん持っているし、審美眼が鋭いのも事実だ。でも美しい人間を蒐集していたとは知らなかった。もしかして、極楽坊にはまだ私の知らない秘密の部屋があるのかな」
「哥哥に見せてない場所なんてもうないよ」
「さらわれた美人たちが閉じ込められている地下牢も?」
「ありません」
「美しい石像でいっぱいの大広間も?」
「ありません」
花城は手にした御札を興味なさそうに一瞥し、背中の籠にそのまま放り込んだ。札をくしゃくしゃに丸めなかったのは、こんなものでも謝憐とのいい思い出にはなるかなと思ったからだ。
街はずれの山道にさしかかると、楓の林が顔をのぞかせる。木々は紅に色づき、金の陽光に照らされた葉が二人の頭上に降りそそぐ。いつかを思わせるような、見事な紅葉だった。
謝憐は札を手の中でもてあそびながら、まだ面白そうに笑っている。楽し気にはずんだ声が花城の耳に届いた。
「私も君の眼鏡にかなって蒐集品の一部に入れてもらえたということかな。光栄だよ」
「それは違います、殿下」
花城の声がふいに真剣な響きを帯びる。謝憐は立ち止まり、かたわらの伴侶を見上げた。ざあと一陣の風が吹き、紅い葉と漆黒の髪を舞い上がらせる。
「……三郎?」
瞳の奥をまっすぐに覗き込まれて、花城は迷うように目を伏せた。なぜあんな言い伝えが残っていたのか、心当たりはなくもない。ことさらに明かすようなことでもないが、謝憐に自身を蒐集品の一部だなどと思わせたままなのも嫌だった。
記憶のひだを辿りながら、花城は静かに口をひらいた。
「あの頃は――」
✼ ⋈ ✼
「お前が出会った一番美しい者のことを教えろ。返答次第では命を助けてやる」
花城の目の前で、一人の男が鬼たちに囲まれてガタガタと体を震わせていた。鬼市で騒ぎを起こし、怒った住人たちに捕えられ、城主のもとに突き出された人間の道士である。
騒ぎの内容を下弦月使から聞いてはいたものの、花城は事の顛末については関心がなかった。重要なのは、こいつが道士だということだ。少しでも共通点があるなら可能性が高まる。
「う、美しい者……?」
「そうだ。何度も言わせるな」
「ひぃッ! 隣町で一番の美人と噂の娘なら……」
「他には」
「こ、皇都で評判の遊女に会ったことが……!」
「その程度か」
思わずため息をつく。花城は鬼たちに「好きにしろ」と言い残すと、一瞥もくれずに歩き出した。背後から囃したてるような野次と甲高い悲鳴が聞こえた。
謝憐を探して、永い年月が流れた。絶の鬼になり、数々の術を身につけ、持てる力のすべてを使っても、最愛の人の行方はわからなかった。諦めるつもりは毛頭ない。何百年、何千年かかろうと、彼がどこかに生きている以上、絶対に見つけ出してみせる。それでも無力感は澱のようにじわじわと心の底にたまり、時おり牙を剥くように爆発しては花城を苛んだ。
その思いつきも、今考えれば半分自棄になっていたのだろう。ある時ふと思ったのだ。殿下ほど美しい人はこの世にいなかった。ならば、美しい者の情報を辿れば、殿下に行き着くのではないだろうか。仮に本人が見つからなくても、手がかりくらいは得られるのではないだろうか。
無限の砂漠から一粒の金砂を見つけるような、途方もない話ではあった。だがその時はいい考えだと思ったのだ。謝憐がどんな状況にあるかはわからないが、たとえどんな風体で何をしていようとも、あの尊い人の輝きが、存在そのものが放つ輝きが、失われるとは思えない。ならばその輝きを追えば、どこかに手がかりがあるのではないか。
それからしばらくの間、花城は何かにつけて美しい人間を教えろと聞いて回った。命と交換条件にした時もあったし、姿を変えて人間に近づき世間話を装って聞き出そうとしたこともあった。そして聞いた情報をもとに“美しい人”に会いに行き、落胆した。
どれくらいそんなことを繰り返したのか、もう覚えていない。空を切るような無意味なやり方で、無力感は増すばかりだった。やがて無駄だと悟って聞くのをやめた。気がつけば、「血雨探花は美人が好き」、「美しい人間を差し出せば見逃してくれる」、果ては「血雨探花は美人をさらって食っている」などという噂だけが中途半端に広まっていた。
✼ ⋈ ✼
「それは……無茶な探し方だな」
謝憐は落ち葉を踏みしめながら苦笑いをこぼした。
花城は美人を蒐集していたのではなく、謝憐を探すために美しい者の情報を集めていたのだという。だが人間界を放浪している間、謝憐はほとんどの時期をみすぼらしいなりでがらくた集めをしながら過ごしていたのだ。野山や空き家を転々とし、身にまとう服はぼろきれ同然で、時には何週間も体を洗えず垢だらけということもあった。美人どころか、人として対等に扱ってもらえないこともあったくらいだ。
「無茶……でしょうか」
「無茶だよ。“美しい人”で私が見つかるわけがない」
「いいえ」
花城は謝憐の手を取り、うつむいて首を振った。
「あなたを探す間、本当にいろんなものを見ました。絶世の美男子、傾国の美女と噂される者。天女のようだと言われていた美姫や麗人。人だけじゃない。三界一の絶景も、指折りの名工が作った芸術品も、至上の愛を描いた絵画や書物も。ありとあらゆる美しいと言われるものを見た」
視線を上げて、謝憐の瞳をまっすぐに見つめ返す。琥珀色の輝きの中に自分の姿が映り込むのを眺めながら、花城はゆっくりと、思いを込めて告げた。
「だけどあなたより美しいものはなかった。あなた以上に俺の心を動かすものは、何ひとつなかった」
曾经沧海难为水、除却巫山不是云。
――あなたを知ってしまえば、もうあなただけだ。
詩の一節をつぶやいて、謝憐の細い指先に唇を落とす。
「美しいのも、尊いのも、愛しいのも、あなただけだ。あなただけが永遠に特別なんです」
謝憐の頬に手をそえて、そっと顔を寄せ合うと、互いの姿だけが瞳に映る。深く口づけて想いを注ぎ込めば、美しく舞い落ちる紅葉ももう目には入らなかった。
どれくらいそうしていただろう。互いの体が離れると、花城が名残惜しそうに親指で謝憐の唇をなぞりながら、ふっと口角を上げた。
「さっきの伝承も、確かに全部が嘘じゃないね」
「……?」
「血雨探花は美しい人を毎晩食べているから」
はっとした謝憐が、あわてて美人札を花城の胸に押しつける。だがせっかく買った鬼よけの御札は、「効かないよ」という軽い台詞とともに取り上げられ、籠に放り込まれてしまった。
「もう……。君が美人画に気を取られている隙に逃げられるって話だったのに」
残念そうにこぼす謝憐を見て、花城が眉をはね上げる。
「哥哥は俺から逃げたいの?」
「……逃げたくない」
そうでしょう、と花城が可笑しそうにうなずいた。
「俺が哥哥に気を取られている隙に、哥哥以外の奴は逃げられる。でも哥哥はずっと俺の腕の中だ」
「私が美人札というわけか」
謝憐が眉を下げてため息をつくと、花城は声を上げて笑った。
「三界で唯一、血雨探花を虜にできる美人札だよ」