眠れない夜窓のすき間から冷たい空気とかすかな虫の声が入ってくる。菩薺村の夜は静かだ。謝憐は寝返りをうって、天井を見上げた。
――眠れない。
いつものように三郎とがらくた集めに行き、菩薺観に帰ってきたのは夕方だった。一日中歩いて身体は疲れていたが、なぜか目が冴えてしまい、横になったまま数時間が経っていた。何度目かのため息がこぼれる。
眠れない夜は嫌いだ。
わずかに入ってくる月明かりを遮ろうと腕で目を覆う。暗くなった意識の中に、じわじわと過去が染み出してくる。普段は封じ込めている後悔や無力感が、頭の中をかけめぐる。またひとつ、ため息がこぼれそうになって、謝憐は唇をかんだ。
「兄さん、眠れないの?」
不意に耳もとでやさしい声がした。壁側に目をやると、三郎が上半身を起こしてこちらを見ていた。
「ああ……ごめん、起こしてしまった?」
謝憐が謝ると、三郎は微笑んで首を振った。
「僕も起きていたから。兄さんは何か考え事?」
「うん……少しね。昔のことを」
「そう」
三郎は軽く答えただけで、また自分の腕を枕に横になった。謝憐はそっと頭を傾ける。視界の端に映る少年の横顔は、この上なく美しかった。出会ってまだ数日なのに、何度この横顔に見とれたか数えきれない。整った鼻筋やなめらかな肌が月の光にてらされて、妙になまめかしい。
しばらくそうして眺めていると、視線に気づいた三郎がこちらを向いた。
「僕も考え事をしていたんだ」
軽い調子で告げてくる。謝憐は微笑んだ。
「へえ、何を考えていたんだい?」
「当ててみて」
「明日の朝ご飯のこととか?」
「それもある」
三郎は屈託なく笑った。謝憐もつられてくすりと笑う。再び天井を見上げた三郎が、少しだけ遠い目をした。
「――昔見た美しい景色のこと」
ぽつりと落とされた言葉が、静けさの中に溶けていく。
「とても美しくて、眩しくて、尊い。そんな景色のこと」
そうつぶやく三郎は、謝憐が見たことのないような穏やかでやさしげな表情をしていた。
「そう、きっと君の――」
大切な思い出なのだろうね、と続けようとして、謝憐はとっさに言葉を飲み込んだ。三郎のことは気の合う友人だと思っている。だが、こんな愛おしそうな表情で語られる思い出に、軽々しく踏み込んではいけない気がした。なぜか胸の奥がちくりとして、謝憐は言葉を続けられず、三郎が怪訝そうに視線をよこした。
「……僕の?」
「ああ、いや、何でもない。そうだ、明日の朝は饅頭にしよう。帰り道で買ってきただろう」
「いいね」
不自然な会話になってしまったことを気にしていない様子で三郎は返事をし、謝憐は内心ほっとして息を吐いた。
その後もとりとめのない話をしているうちに、謝憐は眠気におそわれ、やがて会話がとぎれとぎれになると、ほどなくして規則正しい寝息が三郎の耳に届いた。どこかすっきりしたような謝憐の寝顔を見て、三郎は微笑む。謝憐が隣でずっと眠れない様子でいたことは知っていた。何度もため息をついていたことも。けれどどうやら自分との会話で少しは気がまぎれたようだった。愛しい人の耳もとに唇をよせ、ふれないように気をつけながら、そっとささやく。
「おやすみ、兄さん」
――――あの日見た美しい景色も、明日あなたと食べる朝ご飯も、同じこと。考えるのはすべてあなたのことだ。
隣にいられる幸せを噛みしめながら、三郎もゆっくりと目を閉じた。