「あ、お客さん用の茶葉が切れてました!ちょっと買い出しに行ってきますね」
空になった茶葉の容器をこちらに見せながら、霊人は簡易的に設置された事務所の台所から顔をのぞかせる。
「あぁ、分かった。気を付けて行って来いよ」
「いつまで子ども扱いしてるんですか!もう17ですよ?あ、なんか欲しいものあります?」
「17なんてまだまだ子供だろ?あ~そうだな、そろそろ塩のストックが無くなってきたから買い足しといてくれ」
三十路手前からすると十分に子供だという思いが抜けきらないが、少々過保護すぎるところも否定できない。霊人の特殊過ぎる生い立ちやその能力に加えて、霊乃自身の過去の出来事がそうさせているのだろう。
そんな様子に、霊人はむぅと不服そうな顔をしながら返答する。
「別にもう塩を撒くパフォーマンスとかいらなくないですか?」
「その提案は却下だ。霊人が独り立ちするまではそうするって約束だったろ?」
霊人と違い霊感も無ければ霊能力もない身だが、無意味に塩を振り撒いている訳ではない。霊人が表立って除霊をしてしまえば、その力を悪用しようと考える輩が出て来ないとも限らない。ゆえに自身が前に出て『無意味なパフォーマンス』をすることで、霊人から注意を逸らしているのだ。
それに、あからさまで胡散臭いパフォーマンスだからこそ本気にする人は少ないため、実際良い隠れ蓑になっている。
「でも…」
「お前を守るのは保護者である俺の役目なんだから気にするなっての。それに俺は霊乃憂力だぞ?ドンと任せとけって。そんでお前が大人になったら俺を守ってくれればいい、だろ?」
「…そうですね。僕…霊乃さんのこと、絶対に守りますから」
真っ直ぐそう告げる、不思議な輝きを放った宇宙の様な瞳と目が合った。断固とした決意の様なものが見えたような気がしたが、それに対して深く追求することはなく、気恥ずかしさからか話題を逸らす。
「そ、そうか。それは将来が楽しみだな。おっと、もうこんな時間か。日が暮れる前に早く行ってこい」
「そうですね!……行ってきます。平田さん」
今思えば、俺も一緒に行くべきだった。わざわざ、『平田』と呼んだことにもっと違和感を持つべきだった。幸せな日常なんて、ある日突然壊されることを身を持って体験したはずなのに、なぜ霊人がいつもと変わらず帰ってくると思ってしまったのだろう。
次に霊人を見たのは、血で描かれた幾何学模様の中央で、こめかみから血を流して倒れている姿だった。
霊人の帰りが遅いことを不審に思ってみれば、彼のスマホの位置情報が山奥を指していた。霊人の特殊な生い立ちゆえに、こういったことを恐れて持たせていたのだ。この数年間、平和すぎたためかそのことを失念していた自分の愚かさに反吐が出る。
間に合わなかった。
手遅れだった。
また、何もできないまま大切な人を失った。
「………あ」
碌に力の入らない足で、彼に近寄る。その肌に触れる。
見開かれた眼球からは涙が伝い、その眼の奥からは宇宙を思わせる光が失われていた。まだ温かさの残る皮膚からは、自分がその体温を吸収しているのかと錯覚するほど、じわじわとぬくもりが遠ざかっていく。
「…ぅ…あ……ぁぁああああああああ!!」
頭を打たれているんだ。もう助からない。
そう分かっていても、何度も脈を計った。何度も、何度も何度も何度も。
声が枯れるまで名前を呼んでも、自分の声が反響するだけで、いつもみたいに笑いながら名前を読ぶ声は聞こえなかった。
霊人が死んだ。
視角が、触覚が、嗅覚が、聴覚が、否応なくその事実を突きつけてくる。
その事実を必死で否定し蓋をしようとしても、許さないと言わんばかりにこじ開けてくる。
それを理解してしまったら。壊れる。今度こそ壊れてしまう。
俺は、俺は————
目が覚めると、病院の病院のベットの上だった。
警察に事情聴取を受けたが、何を言っているのか理解できない。
俺が通報した、と言っていたがそんな記憶はなかった。
どうやら記憶喪失らしいが、いまいち実感がない。でも、ぽっかりと何かが失われた感覚だけはあった。自分にとって大切な何かが。
きっとそれは「霊人」という少年と関係があるのだろう。
そう他人事のように思うだけで深く考えることはせず、記憶の奥底にしまい込み………蓋をした。固く、きつく。もう二度とそのパンドラの箱が開いてしまわないように。