なにがどうしてこうなった。誰か1から10まで事細かに説明してくれ…。
そんな私の悲痛な願いは目の前、至近距離にいる男も同様に感じているみたいだ。視線を明後日の方向へとむけて拓也が「どうすっかなぁ…」とぼやきながら、ドン!と扉を押した。
今、二人が押し込められてるのは狭いロッカーで。足元にはバケツと端によけられたモップが広がっている。私に寄りかからないように両脇に肘をついた拓也の間に身体を寄せて、バランスを取るように前へだされた片足を跨いでる状態だった。息が詰まるような狭さ、隙間から入ってくる光だけじゃこの暗闇は誤魔化しが効かない。何度も瞬きを繰り返してやっと慣れてきた目にうつったのは心配そうな表情を浮かべた拓也だった。
「悪い輝ニ、ぜんっぜん開かねぇ…大丈夫か?」
「別に平気だが…」
閉所も暗闇も、別に特段苦手な訳では無い。我ながら可愛げがない返答をしたなとは思うが、実際平気なんだから仕方ないだろう。それより問題なのは、今の格好だ。
体制がキツイのか、しんどそうな顔を見せる拓也の負担にならないように、あと女子としてのプライドもあってなるべく太腿に身体をのせないようにと、先程から必死に背伸びをしている。体重を乗せて楽になりたさはあるが、「こーじぃ、重たいって」とか言われたらその顔面をグーで殴らないとはかぎらない。コイツなら言いかねないなと考え、行き着いた答えが咄嗟のつま先立ち。拓也の脚を太腿で挟んでぷるぷると震えている。…そっちのほうが先に限界がきそうだ。
「輝ニ、ケータイ持ってる?俺、カバンの中なんだよね」
「持ってる、けど…」
「けど、なんだよ?」
「……自分じゃ、取れない…」
目の前の胸板に縋る様に、拓也のシャツを両手で握っていなきゃ簡単にバランスを崩してしまう。制服のスカートのポケットに入れてある端末を取ることは難しい。
「なんで」
「…ちょっと、な…手が塞がってて」
「はあ?離せばいいじゃん」
「だってそんなことしたら……お前に、乗っちゃう…」
「ん?…別に良くね?」と言われるが、想像の中の拓也が「太った?」って言ってきて頷けない。
「私のことは気にしないでくれ。取れるなら、拓也が取ってくれないか?」
「おーわかった。で、どこにあんの?」
「スカートのポケット」
「……スカートの、ポケット」
オウム返しされても困る。言いたいことはわかる、わかってるさ。いくら友達だからと言って、異性のポケットに手を突っ込むのは躊躇するんだろう。だが背に腹は代えられない。私と拓也の仲だし、今更気にする必要を感じない。
「左側にあるから。手、入れてくれ」
「…ーうん、わかった…」
目の前の胸が一度上下し、拓也の腕が暗闇の中探るように降りてきた。ひた、ひたと撫で付けられる感触がこそばゆい。
「ふっ…ふふ…くすぐったいって…」
「喋るなよ…こっちは真剣なんだから…」
「もう、ちょっと右…そう、その辺」
もぞもぞと侵入してきた大きな手が端末に触れる。これで外部へ連絡がとれる、そう安堵したとき引き抜かれる手に「ッあぅ!」と変な声が出てしまった。
「っへ?!ごッごめん!」
「いやッ、こっちこそ……すまん」
スカートの厚い生地の上からだと我慢はできたが、ポケットのペラペラな内側を隔てて太腿を、それも際どい所を掠められたのは耐えられなかった。
気まずい空気が流れる。なにか、言ってくれ…いつものお喋りなお前はどこへいったんだ…。
平然を装おうと開いた口から「そのッ」と裏返った声がでた。
「……とりあえず、輝一に…ッひ!」
脚が、上へとあげられる。
「あーごめん、ちょっとこの体勢きつくなってきた…」
「そう、だよな…悪い」
頭上から降ってきた謝罪に申し訳ない気持ちになる。当たり前か、息苦しい狭さにくわえ他人とこんな密着するなんて。少しでも隙間を感じられるように、負担にならないようにと更に縮こまらせた身を寄せる。ドクン…ドクン…と鼓動が伝わってきた。
「脚痺れそう…」
「ぅあッ…んんっ…!」
ぎりぎり保ててた距離が殆ど無くなり、下着越しにスラックスのザラつきを感じた。
「ロッカーに人二人は無理あるよな〜」
「ふっ、ぁ…そう、だな……」
くすぐったさとその辺エトセトラ、誤魔化すように身をよじらす。
「ケータイ、とりあえず輝一に連絡すればいいんだな?」
「それが手っ取り早い、と、思うから…頼む」
「はいよー」
意識したらダメなことはわかるが、考えれば考えるほどドツボにはまる。鍛えられた筋肉が自分の柔らかい脚へ体温を告げてくる。輝一以外の男との接触なんてそんなにあるわけもなく、相手が拓也だとしても、妙な緊張が汗となってじわりと滲んだ。
「電話、かけさせてもらうな」
「あ、ああ……んひゃっ!」
「え?…お前、ほんと大丈夫か?」
「なんでも、ないからっ…大丈夫…かけてくれ」
端末の灯りが心配そうな顔を照らす。口の端をひくつかせ、なんとか笑いかけたら「怖い顔してるけど…不安?」と返された。人のこと言えたもんじゃないが、女心を知らないなんてレベルで片付けられない返答に物申したくなる。でもそんな余裕はない。
耳へとコール音が鳴っている端末を近づけられた。
「お前がっ、出てくれ」
「え?なんで。出ればいーじゃん」
「いいから!」
若干腑に落ちない態度で途切れたコール音へ「あー悪い、拓也だけど…」と会話が織り成された。
よかった、これでやっと開放される…。
そう安心できたのは一瞬だった。
「ぁッやっ…まってまってまって…ッ」
じりじりと脚が更に上がってきた。焦りが形になって小さく溢れていき、手の甲で蓋をするがあまり意味を成さない。隙間から息が漏れ出て、目の前の拓也の耳にも電波越しの輝一の耳にも届いてしまうじゃないかと、気が気じゃない。
「そう、あそこの教室…うん、うん…わかった、輝ニに変わるわ」
「ッ!いいっ、ほんとにいいから!」
こんな荒くなった呼吸音を聞かせたら、いらん心配をかけてしまいそうで、胸板に額をこすりつけながら差し向けられた端末を拒否した。それが聞こえたのか『…輝ニ?』と呼ばれ肩がびくついた。
「もしもし?輝ニ、出れないって…そんな、だいじょーぶだって!狭いけど、別に怪我してるとかじゃないからさ」
そう、怪我はしてない。けど決して大丈夫なわけでもない。早急に解放しに来てほしい、叫び出したいのをぐっとこらえ、痺れてきたつま先へと意識を集中させた。
「ッあ、ひゃあ?!」
そこそこの声量で漏れ出た声は、ちょうど電話が切れたタイミングで電波に乗ることはなかった。
足…片方、浮いちゃってる…。
これは確実に体重が乗っている。ドッドッと早鐘をうつ自分の心臓、これ拓也に聞こえてるんじゃないのか…?
「っと、ごめん…もう少しズラしてもいい?」
「っへ?!え、あっ…だい、じょうぶだ」
まったく大丈夫じゃないからそのまま微動だにしないでくれ、なんて言えない。シャツを掴む手に力がこもった。更に手汗が滲み、ぐしゃぐしゃに皺が寄っていることだろう。
ぐり…ぐり…と、股の下で脚が動く。その度に下着が擦れ、じくりと甘い痺れが伝わってきた。
何だこれ…なになに、やだ…っ、やめてくれ…!
手の甲だけじゃ心許なくなり袖口をくわえる。溢れてきた唾液を吸いながら必死に耐えた。下腹部にじわじわとひろがってくる感覚に怯え、目が回りそうだ。腰が浮きそうになる。
「ぁッやだ…な、に…こぇ……っふゎ…んッ」
「ほんと、大丈夫なんか…?」
「たくやっ、まって…ごめん、なんかっへんっ、だから…」
擦らないで、そう言いたかったのに、汗じゃないものが下着に滲んだことが解り言葉が続かなかった。
「ひぅッ!ぇっぇっ…やだ、まって…なに…?」
「……」
もよおしたような感覚。知らない、初めての感情に涙が出そうになる。
これ以上脚を動かされてしまったら、ダメな気がする。
「ごめッ…っぁ…んんっ……やぁッ…ぐり、ぐり…しないっ、でぇ…」
「え〜?脚、もーちょっとで楽な位置取りできそうなんだって…我慢してくれよ」
「ッヒ!やッ…がま、ん…してるっ、てば…まって、ほんと…たく、やっ…」
「なーに?」
「あッ…やだ、ごめんっ、………なんかっ…もれ、そ!……ほんとッ…ぁっ…わる、いッ…」
情けない。拓也は踏ん張ってくれてるのに、頼り切ってばかみたいな声しか出ないことが本当に情けない。
「漏れそうって…トイレ行きたかったの?」
「ちがぅ…なんかっ…んんっ…じわって、……ぱんつ、…あッ」
ぐちゅっ
衣擦れの音と一緒に、水音が聞こえた。
勢いよく顔をあげる。
「あッ!ごめッ!…たくやぁ、ごめん…ッ!」
「ん〜?だから、何がってば」
「たくッや、あしっ…まって、やだッ……ぬ、れたぁ…!」
「ホントだ…ははっ、俺の脚、しめっぽくなった…」
「ッあ!ごめんッ!たくやっ、ごめん…ッ!」
意識してしまった耳は、ぐち…ぐちゅ…という小さい音を簡単に拾い上げる。
羞恥心、申し訳なさ、恐怖…。限界だった。
「もう…んッ…やだッ……だめっ、なんか……なんか、くるッ……たくやッ…たくやったすけッ…んんッ!」
その時、バン!と大きな音がしたかと思ったら眩しいくらいの光が包み込んできた。
「輝ニ!拓也!大丈夫か?!」
「ぉあッ?!びっくりした…!」
走ってきたのか、ぜぇぜぇと肩で息を繰り返す兄の姿をみて、水の粒が一滴だけこぼれ落ちた。
「…こーいちぃ」
「思ってたより早かったな!わりィ!助かった〜!」
支となっていた脚が引き抜かれ、バケツとモップを巻き込みながらその場でへたり込んでしまった。ガシャガシャ!と大きな音をたてたから、二人がぎょっとした顔で振り返る。
「輝ニ!」「えっ?!大丈夫か?」
熱い息をはき、輝一に抱きかかえられた。
「んぁっ…!」
「…輝ニ?」
「…輝一…どうしよ…ぁっ…なんか、へんッ…からだあついんだ…」
ふわふわする頭で世界で一番落ち着くそこへとすり寄る。輝一の首筋に顔を寄せ、鼻をぐずつかせながら一心に呼吸を繰り返す。
「………ねえ、拓也」
「……ハイ」
「輝ニに、何したの?」
「え、っとぉ〜…?」
輝一、怒らないでくれ…。拓也は私を支えててくれたんだ。それなのに…も、もらしそうになってしまって…。叱られるのはむしろ私のほうなのに…。
抱え込まれ、言葉にならない声を発しながら拓也の方へと目線をやった。懸命に支えてくれていた脚に水濡れが見え、一気に顔が熱くなる。
「っあ!たくや…ッ!ごめっ…お前の、ズボン…」
「…タイミング最悪だってぇ」
何のことだ…?
ほわっとした定まらない目に映ったのは、真っ青にした顔面を抑える姿だった。
「そ、そうだ…輝一、その……と、といれ…行きたい…」
「…ん〜?どうして?」
「その………なんか、ぞわぞわって…する、から……」
内緒話のようにこそっと耳打ちした言葉に優しく、困った顔を浮かべながら返される。
「多分ね、それはおしっこじゃないから大丈夫だよ…」
「そう、なのか…?」
あやすように優しく頭を撫でられた。言われてみたら、さっき感じていた尿意のような切羽詰まった感覚はない。じゃああれは何だったんだ…?
「可哀想な輝ニ…。
…拓也、逃げたらダメだからな」
「ッ、ハイ!」
「輝一!拓也は悪くない!こいつは頑張ってくれて…」
「ああもう…何も教えなかったのがいけなかったな、ごめんね輝ニ…」
「え?なんの話…」
本当に、何の話をしてるんだ…?
理解がまったく追いつかない。
「いい?輝ニよーく聞いてね。
拓也はお前に意地悪をしていたんだ」
「へ……意地悪…?だって、拓也…体勢辛いって、言ってたから…だから…」
「そう言って、お前にイタズラしてたんだよ」
「いた、ずら…?」
口の中でかみ砕き、輝一が言っていることを理解しようと呆けたままの頭を奮い立たせる。
だんだんとクリアになってきた思考で視界にとらえた拓也が、焦りを浮かべていて憤りを覚えた。輝一の腕の中で、わなわなと身体を震わす。
何だ…何だよそれ!!一生懸命、負担にならないように努めていた私に対して、イタズラって…!少し変だなとは思っていた。けど実際お互い辛い体勢だったわけだし、そこまで疑問にも思わず耐え忍んでいたのに!!
「…さいッてーだなお前」
「ちがッ、違う違う!そんなんじゃないって!」
「何も違わないだろ!くすぐったいし、ぞわって…なんか変な感じだし…笑ってたんだろ性悪!」
「性悪って……いやほんと、俺が悪かったからそろそろ黙って…!」
「むずむずして変な声でるし…良いようにされてる反応みて馬鹿にしてたんだな!最悪だ!」
「わーッ!!」
大慌てで口を抑えようと伸びてきた手を輝一がはたき落とした。抱きしめる力を強くして「拓也、」と声音を鋭くさせる。
「俺の妹に触んないでくれる?」
「ひッ!」
宙を彷徨う手から逃れようと、ぴったりと輝一へとくっついた。
「違うんだって!ほんと、出来心で…ッ!」
輝一の腕をからめとり、ぎゅうぎゅうに抱きしめながら眼光を細める。射抜かれた拓也の身体がびくりと震え、あのそのと言葉を探し出す。
ちょんと突かれ解放した兄の手を取り、次いで絡めた手を引かれ立ち上がった。
「…へ、え…ちょ二人とも…どこ行く」
「帰るんだよ」
「当たり前だろバカが」
「じゃ、じゃあ俺も…」
おそるおそる続こうとした声を跳ねのけるよう口を開いた。
「当分私に話しかけるな」
「え、まって!輝二悪かったって!」
「お前なんか、もう知らん」
歩き出した私たちの背中に言い訳を募らせようとするから、拒絶するように教室の扉を力強く締めた。
一人で反省してろ。