なんでもなくない日「あっ」
卵をフライパンに開けたら双子だった。
2人分焼こうとしていたサニーサイドアップは、はからずも三つ子の目玉焼きになってしまった。
せっかく仲良しで生まれてきたこの子達を大切に、割らないようにそっとお皿に移す。
朝ごはんは一緒に食べる約束をしているからそろそろ彼も起きてくるはずだ。
「お味噌汁も…うん、美味しい」
簡単なものでもいい、いっしょに食べる朝ごはんは日々の活力になる。
ふたりで暮らし始めていったいどのくらいの時間が経っただろう?
まだ勝手がわからなくて喧嘩することもあった。
お互いの常識はすれ違うところもあって、それを擦り合わせていくことで生活が生まれていく。
一緒に息をすることがこんなに大変なんて、暮らし始める前は思ってもみなくて
でも、そんな日常が噛みしめるほどに幸せで何故か泣きそうになることがあった。
喧嘩をする度に抱き合って、話し合いをして、落とし所を考えて、…笑い合うのだ。
「………ねぇ、…大好きだよ」
そんなふうに微笑み合うことが、たまらなく、幸せだった。
大好きな人が目の前にいて、そして自分に笑いかけてくれる。
細い糸を手繰り寄せるよりもよほど大変なことなのではないだろうか。
自分が好きな人が、自分を選んで笑ってくれている。
そんな星の粒のような僅かなそれを掴み取れているという満足感、…幸せと言わずしてなんと言えば良い?
やわらかく膜を作るたまごの表面にそっとナイフを刺すと黄身がとろりと溢れてくる。
カリカリのトーストの端でそっと掬って口に運ぶとじゅんわりと甘い香りが口の中にひろがる。
一緒に焼いていたハムの塩気、焼けた小麦の香ばしい朝の香りが身体にゆっくりと熱を通していく。
今日のはじまりを感じさせる朝の気配に脳が活性化していく。
「海人、…今日は何する?」
優しく微笑んでくれるその表情は陽の光でうまく見えなかった。
朝の光はすべてを包み込むように照らし込んできて、目を焼きつけてくる。
「…どうしようかな、…ずっと家にいるのもいいかもしれないし」
一緒に暮らしているからこそ二人の時間が愛しかった。
誰にも邪魔をされない、そんな時間。
「はは、」
口に運んだ味噌の香りが鼻にふわりと抜けていく。
手抜きの出汁の素を使ったそれは、それなりの味ではあったけれど最近のお気に入りだった。
パンに味噌汁?どうしても味噌汁が食べたくなる朝だってある。
そして毎日のことだからこそ、少し気を抜くことも大切なのではないかと提案されたこれも話し合いの結果のひとつだった。
「………誕生日、そんなのでいいのか?」
どこか困ったような声が聞こえて、………遠くの方で鳴り響く知った音楽。
けたたましく鳴るそれは、頭の奥に響いて無理矢理に脳の奥に語りかけてくる。
「…、いやだ、…!」
何に対して拒絶しているのか分からなかった、それでも本能的に声に出していた。
しかしそれは、確実に音として自らの唇から発された音だと。認識できるものだった。
「………おれは、いつでも隣りにいるよ」
「、いや、…っいやだ」
淡く溶けていくように…ゆっくりと視界がぼやけていく。
自分に笑いかけるその表情は覗き込むことが出来なくて、さっき口にしたたまごの甘い香りが遠くなっていく。
脳に響く音は更に勢いを増してけたたましくサイレンを鳴らす。まるで黙示録のラッパのようなものではないか。
「…!」
目が冷めたとき、手を伸ばして空を搔いていた。
汗でじっとりと濡れた身体は寝間着を濡らしていて、心地悪さにぶるりと震えてしまった。
「……………夢、」
覚醒してしまうと、その夜どんな夢を見ていたのかなんてほとんど覚えていることはない。
なんとなく、…つらい夢だったのではないだろうか。
昨晩は暑くて寝苦しい夜だった。
濡れた寝間着が肌にへばりついて空気に晒されて冷えていく。
しかし、汗をかいたことで、…どこかすっきりしているような気もした。はぁ、…と息を吐いて夏の匂いのする朝の空気をゆっくりと吸い込んで、深呼吸をする。
まだ時間も早いせいか、焼け付くような温度は孕んでいない。それでも生命の迸りを感じられる熱が空気に溶け込んでいた。
「……、」
遠くから、可愛らしい歌が聞こえてくる。甘いあまい砂糖を煮詰めたやわらかいキャラメルのような声。
変声期などなかったのかもしれないと思うほど高音の、…優しい、耳にそっと寄り添い馴染んでくる声。
「…あずさ」
どこか母親に感じる情に近いのかもしれない。歳下の彼に対して母親などと、おかしいのかもしれないが大切な幼馴染で、兄弟のように育ってきて、
…弟の大切な人。
彼らと一緒にルームシェアをするようになってしばらく経つ。
自分のことを誰よりも理解してくれていた両親さえいなくなって、
心はボロボロに荒んで、自暴自棄になっていた頃の枯れ果てた自分にそっと水を注いでくれた。
…救われた気がした
大げさなのかもしれないけれど、彼に命を救ってもらったのだ。
そんな彼の楽しそうな声とともに鼻をくすぐる甘い香り。
バターと砂糖のこんがり焼けたお菓子の香りが鼻腔を撫でてくる。
『明日はおいしいケーキが待ってるよ、期待しててね』
サプライズなどと下手な策は打たず、真っ直ぐに愛情を注いでくれる。
そうか、…今日は誕生日だった。
そういえば暑くなってきたし、空は青く高く澄み渡っていた。そうだ、また夏がやってきたのだ。
空と海が交じるような青の季節に生まれた。茹だるような暑い日だったと母親が笑っていた。
早朝のまだ少しだけ過ごしやすい気温の中、
ただよってくる甘い香りは幸せの象徴のような気がして胸の奥がやわくほぐれていく。
「…………ケーキ、楽しみだな」
起きたばかりの冷たい手足をベッドの外に降ろす。
浮足立ってしまう気持ちがキシ、と鳴くベッドスプリングの小さな音さえ
自らを祝福してくれているような心持ちにさせてくれる。
新しい朝は、こうやって始まって良い。
一歩踏み出した足でまた歩いていけばいいのだ。
どうか、自分の進む道の先に彼らの笑顔が共にありますように。
そう願う幸せな朝。…感謝の言葉を彼らに届けに、行こうと思う。
Happy Birthday.Kaito