「新学期、二日目」 新学期が、静かに始まった。三年生の0学期が終わり、本格的に春の幕が上がる。
けれど、その始まりは騒がしくも、目新しくもなかった。三度目の春は、どこか擦り切れた制服の袖のように、馴染んだ風景の中に溶け込んでいる。
新しいクラス、といってもその実、知らない顔の方が少ない。名前を呼ばずとも、その笑い方や歩き方で誰かが分かるようになるくらいには、長い時間を共有してきた。
「イトダ、一緒に帰らない? 今日部活ないんだよね」
振り向けば、あたたかい声。春の日差しのような表情。
「……あー、ごめん。ぼく生徒会あるんだ」
その瞬間、何かがふわりと浮かんで、風にさらわれていく音がした。
「あっ、そっか。じゃ、先帰るわ」
またね、と軽く手を振るその姿が、教室のドアに吸い込まれる。
それきり、何事もなかったように時間が流れる。 誰かと連れ立って帰る放課後。他愛のない話をしながら、角を曲がって、信号を渡って、コンビニでアイスを選ぶ時間。ふざけて笑って、時には指先が触れて、目が合って、照れて。
――くだらない。……いや、本当は違う。そういう何気ないものが、羨ましくてたまらない。
「疲れるなぁ」
ため息にまぎれた言葉が、教室の窓に貼りついて、すぐに消えていった。そうして、ぼくは足音を忍ばせて職員室へ向かう。
扉をノックすると、内側から紙の擦れる音と、忙しない気配。先生が、机に山積みになった書類の間から顔を上げる。
「イトダくんごめーん! あともうちょっとだけ待っててくれる?」
悪びれた様子もなく、でも確かに申し訳なさそうな顔だった。
ぼくはうなずいて、「わかりました」と返し、静かにその場を離れる。
教室に戻ると、そこにはもう誰もいない――はずだった。けれど、扉を開けた瞬間、視界の端に黒い影が揺れた。
……いる。 忌々しいあいつ。
まるで当然のような顔で、ぼくの帰ってくる時間を知っていたかのように、彼は教室の隅の席に座っていた。
彼は椅子にだらりと座って、机に広げた作文用紙にカリカリとペンを走らせている。時折、くわぁと大きなあくびを漏らせながら。
あまりにも無防備なその姿は、見るたびにどうしても気に障る。
でも、そんなことは言わない。 気にならないふりをして、ぼくは自分の席に座る。何を書いているのか、気にはなる。けれど、そんなに気になるほどじゃない。 聞くほどのことでもないし、声をかけたいわけでもない。
ただ、ひとりでにペンを動かすその手を見ていると、少しだけイライラするだけだ。
ぼくは机の上に宿題を広げて、ペンを取った。昨日の残りの問題を、さっさと片付けるだけ。
教室の中に静かな時間が流れる。
シライもまた、無心で書いているんだろう。カリカリと、互いのペン先が紙に触れる音が響いているだけ。
けれど、その音が突然、止まった。
「やべっ」
声が漏れる。あまりにも無防備なその音。驚いたのか、焦ったのか、鞄をガサガサと漁り始める。何かを探すその手が、次第に苛立ちを隠せなくなる。
「シャー芯切れた……」
その呟きは、まるで何かが終わりを告げる音のように響く。ぼくは無意識にその言葉に耳を傾け、ふと口元が歪んだ。
(ざまぁみろ) と、心の中で呟く。
後ろで聞こえる鞄のゴソゴソという音がどんどん大きくなっていく。
その音に、ほんの少し笑いたくなった。けれど、すぐにその思いも消える。
焦りを少しだけ可哀想に思ってしまい、思わず振り返って尋ねてしまう。
「細さ、何?」
ぼくの声が、彼に届いたのは思ったよりも早かった。シライは一瞬、驚いたように振り返る。
目が合うと、そこに何かしらの困惑が見えたけれど、それもすぐに引っ込む。
「0.5」
その答えが、まるで余計に焦ったように響く。彼はまたシャー芯のケースを必死に探し続け、でもその手はやっぱり空回りしている。
ぼくは筆箱の中を漁り、少しの動きでシャー芯のケースを取り出した。
何気なく、静かにシライのところまで持っていく。 差し出すと、彼は驚いた顔でぼくを見る。
「これ、0.5」
「……ありがとう」
その一言が、空気を少し柔らかくした。シライは、シャー芯のケースを受け取ると、すぐにまたペンを握りしめた。
あまりにも自然に、それが日常の一部のようだった。
ぼくは席に戻ろうと立ち上がり、足音を静かに踏み出す。その時、背後から声がかかった。
「折角だし、一緒にやらないか」
何とも言えない響きが、ぼくの中に小さな波を起こす。断る理由もなかったし、ひとりでやるのもどこか寂しい。
少しだけ考えた後、ぼくは肩をすくめ、口元に軽い笑みを浮かべて返す。
「いいよ、付き合ってあげる」
その言葉が、予想外にすんなり口から出てしまった。シライはちょっとだけ驚いた顔をして、それから軽く笑う。
「やった」
席に戻ろうとすると「いい、おれが動くから」と言って立ち上がり、作文用紙を数枚、シャーペンと消しゴムを手に取ると、ぼくの席の隣にさっと移動してきた。
その動きが、何となく滑らかで、気配さえも無駄がない。まるで、何もかもが当たり前のように流れていく。
時間が静かに流れ、二人の手元はしばらくの間、ただペンを走らせる音だけを響かせていた。
ぼくは最初に手を付けた課題を一段落つけ、ペンを置いた。シライはまだ、無言で作文用紙に向かってカリカリとペンを動かしている。その手が止まらない様子に、ふと疑問が湧いた。
「何書いてるの?」
シライは少しだけ顔を上げ、そこから目を逸らすことなく淡々と答えた。
「反省文」
その言葉に、なんとなく察した。あぁ、春休みの提出物のやつだな。
「提出物の?」
少し呆れたように問い返すと、シライは深いため息をつきながら続けた。
「そう。春休みのやつもなんも出さねーってむちゃくちゃ怒ってて。なんの得にもなんねーのにな」
その声には、ほんの少しだけ冷めたような、でもどこか諦めの入った響きがあった。
作文を目の前にしているのに、何かを達成したという感じはまるでない。ただ、やらなければならないからやっている。シライはそのことを、無駄だと思いながらも黙々と続けている。
目の前に広がる空気が少しだけ重く感じられて、ぼくは思わず口を開いた。
「まぁ、どうせみんな答え見てるしね」
そう言うと、シライは少し驚いたようにこちらを見た後、すぐにまたペンを動かしながら、「はは、そうだな」とだけ呟いた。
シライが作文を続けている間、ぼくの目線はどこか遠くへと流れていた。教室の窓からは、春の光が穏やかに差し込み、少しの風がカーテンを揺らす。その静かな空間の中で、シライのペン音だけが規則正しく響いていた。
「イトダはなんで残ってるんだ、生徒会か?」
不意に、シライが声をかけてきた。その顔は、真剣に書いていたものを少しだけ中断して、何でもないような質問を投げかけてくる。
「そう、一年生の歓迎会で出し物するから」
ぼくはそれだけ返すと、また視線を外した。
どうせ、大した話でもない。生徒会なんて、毎年のことだし。
すると「お疲れ様」とシライが軽く言ってきた。その言葉が、なんだかちょっと無駄に響いて、思わず口を開く。
「うるさい」
数分が経ち、やがてシライがペンを置いた。
「よし、後は出すだけ」
その言葉に、ようやくひと段落ついたのだと感じた。それでも、彼の顔に少しも達成感が見えないのが、妙に寂しく感じる。
シライが、シャー芯のケースを返そうと手に取ろうとした瞬間、 ぼくはさっとそれを遮った。
「いいよ、ぼく今0.3使ってるし。あげる」
自然に言葉が口から出ていた。その言葉に目をぱちくりとさせながらシライがシャー芯を受け取ると、すぐに顔を上げて、口を開いた。
「誕プレだと思ってもらう、ありがと」 その言葉に、何か違和感を感じる。ぼくは一瞬、言葉を飲み込んでから、驚きの表情をそのまま顔に浮かべた。
「え、今日誕生日だったの?」
驚きと共に、思わず口から出た言葉。シライは照れくさそうにも自慢げにもせず、ただ「そう」と短く答える。その一言に、ぼくはさらに驚いた。
「えぇ〜……」
思わず呟いたその声に、教室の中の空気が少しだけ重く感じられた。いくらあんまり好まないやつでも、誕生日だけは祝いたい。
その時、突然、扉が開く音がした。先生が入ってきて「ごめん、今終わって……体育館来てもらってもいい?」と言った。
ぼくは、すぐに反応して「はい!」と答える。その言葉と同時に席を立ち、教室を出る準備をし始める。
直ぐに荷物をまとめ、扉に近づく。ふと何かを思いドアの前で振り返ると、シライが少し不安そうにこちらを見ていた。 その目が、少しだけ寂しそうに見えて、胸が痛む。
「誕生日おめでとう」 ふと、吐き捨てるように言ってから、足早に教室を出た。
「おめでとう」なんて、そんな言葉、普段のぼくなら絶対に言わなかった。どこか無理にひねり出したみたいな響きが、自分の耳にも残っていた。
でも、どうしても言わずにはいられなかった。
それが、どんなに不格好でも。 胸の奥にかすかに後悔が走る。もっと自然に、もっとちゃんと言えたらよかったのに。そんな思いが、背中にじわりとまとわりついた。
だけど、それもすぐにかき消すように、ぼくは足を速めた。体育館に向かう廊下。窓の外には夕方の光が差し込み、床に細長い影を作っていた。その影を踏みながら進むたび、気持ちも少しずつ切り替わっていく。
――知らなかった。それだけのことだ。
知ってたら、何か変わったかもしれないけど、知らなかったからって責める理由もない。悔しさは、どこかに残っているけど、それもやがて風にさらわれるだろう。
「イトダ先輩、こっちです!」 体育館の扉の先から、後輩の明るい声が聞こえてくる。
「はーい」
声を返しながら、ぼくは一歩ずつ気持ちを前へと進めた。気にしたってしょうがない。終わったことなんだし。
今、目の前にあることをちゃんとやる。
それがきっと、一番正しい選択だ。