あいつのせい晩夏の夕日を背にして、茜色に染まるアパートの一室を俺は眺めていた。正面に見える狭い台所には、夕日の明かりに照らされてぬっと伸びる、黒い、1人分の人型。視線を落とすとダイニングテーブルの上には、俺のために用意された食事と、あいつの汚い字で書かれた1枚の紙切れが置いてあった。
「今までありがとうございました。さようなら。」
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追想
ゾッとするほど真っ直ぐな目で見つめられたあの日から、俺はあいつから妙な距離感を覚えるようになっていた。明らかに返事が素っ気ない。「風呂」と言えば、これまでなら遠慮がちに笑って「準備できてますよぉ」と言っていたのに、最近はこちらを見もせず「いつでも入れますよ」などと生意気な返事をしてくる。叱りつけても、あの目だ。あの目でこちらをじっと見つめてくる。そんなことが、何日か続いていた。
土建屋の仕事は体を酷使する割に薄給で、都会で2人暮らしをするには正直心許なかった。そのためか、マヨイは土日にもパートのシフトを入れていたが、直接マヨイから給料のことであれこれ言われたことは1度もない。同居を始めた頃はむしろ「俺さんと一緒にいられるなら、どんな暮らしでも幸せですぅ」などと、贅沢のできない生活を受け入れるようなことまで言っていた。病弱で疲れやすいのに申し訳ないなあと、思っていた。そんな何気ないことも、今思い返すとあいつに直接言ってやれば良かったのかもしれない。
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日曜の昼下がり。そろそろマヨイが午前中のシフトを終えて帰ってくる頃だった。ところが、なかなか姿が見えない。先週の日曜もそうだった。普段はこのくらいの時間になると、ナイロンのエコバッグがシャカシャカいう音と、軽く擦るような特徴的な足音が聞こえてくるはずなのに。俺は休日、マヨイがパート先のスーパーで買ってきた惣菜を昼飯にしている。あいつが帰ってこないと、俺は昼飯にありつけないのだ。
次第に腹の奥でふつふつと苛立ちがわいてきた。俺が家にいるというのに、あいつは何をモタモタしているんだ。帰ってきたら説教だな…。などとあれこれ考える。思考をめぐらせているうちに、朝から飲んでいた缶ビールが睡魔を連れてきていた。あいつが帰ってくるまで起きていてやってもいいが、俺は一旦、そのまま眠気に身を委ねることにした。日はまだ高い。14時半だった。
静かにカチャリと玄関の扉を閉める音がする。いつの間にか日が傾き、時刻は17時を回っていた。電気をつけていなかったので、部屋が薄暗くなっている。
普段は13時にシフトが終わるはずなのに、4時間も遅いじゃないか。あいつに説教するため、俺は立ち上がる。すると、急に起き上がったせいなのか足がもつれて、床にいくつも転がるビールの空き缶を踏み、ドスンと盛大に尻もちをついてしまった。その音を聞いて、あいつが勢いよく扉を開けて入ってくる。転んだところを、見られてしまった。「大丈夫ですか!?」と心配そうに声をかけてくるが、俺は床に散らかる酒のつまみと缶ビールのゴミ、そんな環境でみっともなく転んだところを見られた恥ずかしさ、情けなさで行き場のない怒りに襲われた。その怒りがあいつに向くのは、俺の中ではごく自然な事だった。
「お前が!お前が帰ってくるのが遅いから!俺は腹が減ってるんだよ、なにやってんだよ、俺が待ってやってるのに!なあ!お前のせいだろ!」
いつものようにマヨイの後ろ髪を片手で掴む。こうやって顔を近づけて怒鳴れば、何でも言う事を聞いてくれるのだ。きっと今回も、いつもみたいに震える声で謝って、許してくれと懇願してくるに違いない。そう思っていた。
だが、今回は違った。あいつは俺の目をじっとただ見つめ、口をつぐんでいた。
あの目だ。思わず手を離す。少し、気まずかった。
俺はあいつに背を向けて、少しばかり残った缶ビールを飲み干した。するとうしろから、「今から夕飯を作りますから、待っててくださいね」と静かな声がした。
これが、あいつと。マヨイと交わした、最後の言葉だった。
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俺はいつもの現場から家に帰っていた。全身に汗をかいて、体が痒い。早く家に帰って、マヨイが入れた風呂に入りたかった。薄汚れた古いハイエースはギィギィと鳴きながら場違いな東京の街を進んでいく。ふと窓の外に目をやると、アイツそっくりな後ろ姿と、薄緑色の髪をした青年が並んで歩いていた。一瞬しか見えなかったので、人違いかと思った。人違いに決まってる、と思った。
部屋の前、俺は妙に心臓が痛かった。古いアパートの鉄の扉がずっしりと重たい。
あいつの靴は、無かった。
リビングに続く扉から、夕陽の茜色が漏れていた。
おわり