天にあらば、地にあらば、 天にあらば、地にあらば──
桃の花が永遠に咲き誇り、空はどこまでも高く青い。心地良くも澄んだ清浄な空気。
そこに住まう人々は皆一様に優しく、心根も清い人々ばかりでした。『隣人を愛せよ』という言葉に従い、これといった大きな争いもなく、満ち足りて穏やかな日々を過ごしていました。不安や不満はなく、齢数百を越える者もいました。
そこは桃源郷と、呼ばれる国。神や仙人といったものたちが住まう、世から隔絶された不思議な場所でした。
そんな国の片隅に、一人の男が住んでいました。薄群青の長い髪に、紫紺の瞳。親につけられた名を長い名前がありますが、不思議なことに、彼は自分を『ザル』だと認識していました。
それは『真名』と呼ばれるモノです。心から信頼し合える者にしか明かさない、特別な名前。例え親であったとして、気安く教えられない、特別なモノ。親から貰った名前を使いながらも、彼は抱いていた齟齬を払拭できずにいました。『真名』を誰にも明かす事なく、男は永く、独りで生きてきました。
しかし、目見麗しく所作も良い。文武に優れた彼を放っておく者はいません。縁談や色仕掛けがひっきりなしに降ってきます。ザルが年頃になってからは、その勢いは凄まじいものでした。いつまで経っても伴侶を得ず、独り身のまま。親類縁者や友人たちからでさえも、「早く嫁を取れ」とせっつかれていましたが、頑なに首を縦に振りません。
彼は、自分という存在を認識してからずっと、心の中が満たさていませんでした。満たされた楽園に住まう人間に、あるまじき現象です。
美しい花を見ても。麗しい人を見ても。心温まる物語を読んでも。
自己を研鑽しても。国に尽くしてみても。人に害をなす獣を退治してみても。
思いつく限りのことをしてみても、寂しさは常に付き纏っていました。
逆に堕落すればいいのかと酒や賭け事、少しだけ色事にも手を出してみましたが、虚しさばかりが砂埃のように心に積もりました。
──自分の隣に、心に、誰かがいるはずなのにいない。
この国にいても、満たされない。意を決し、ザルは国を出る事にしました。
路銀の足しにするため、変わった華を咲かせる国樹の枝を一本だけ、コッソリと拝借して。
何かを、誰かを求めてあちこちを巡り、旅をしました。初めて見る物や文化。故郷では見ることのなかったものばかり。神や仙人に比べれば弱いはずなのに、どこか力強い人々の営み。〝生きている〟という、確かな実感。
あまりにも鮮烈でした。鮮やかなその全てをそば近くで見て、聞いて、感じる。ザルの世界が、変わりました。
心の空白がほんの少しだけ、満たされました。しかしまだ、足りません。求めているモノが、いつまで経っても見つかりません。それでも決してあきらめず、ザルは自分に足りない何かを求め、歩き続けました。
ある日のこと。風に導かれるようにして、ふらりと立ち寄った国。新緑の映える鮮やかな青空が広がる、緑豊かな国での出来事です。
多くの人と物が行き交う賑やかな街で、とある話しを耳にしました。
おや。またあそこの家の長男坊が、我儘を言ったのか。
これで何人目だ。五人目か?
もういい歳だろうに……。選り好みせず、とっとと嫁を決めればいいのにねぇ。
とんだ我儘坊やだ。
そんな話が、あちらこちらから聞こえてきます。
ケラケラと他人事を笑う声。声。声。街はその話で持ちきりの様子でした。
街一番の富豪の息子の婚活なのだが、求婚してきた相手に無理難題を与えては追い返す、困ったヤツなのだとか。その父親は一代で財を成した、所謂成り上がりである。だのにその息子ときたら、せっかく父親が築き上げた人脈も取引も、何もかもを無碍にしているそうな。だが、ただの我儘坊主なのかと思えば、そうでもなく。
顔も所作も上等で、頭も悪くない。ではひ弱なのか、体が弱いのか言われれば、否という。大病もなくいたって健康で、棒術・体術、大抵の武芸をそつなくこなせる位には器用なヤツなのだとか。
でも性格が悪いのだろう。嫁の選り好みをするのだからと言われるが、彼を知るものはこちらも否という。……そんなだから、引く手は数多にあるのが困りもの。
いい男ではある。だが我儘を言って、嫁取りは難儀している。
評価は総じて、困ったヤツ。に落ち着いた。
──何だそれは。面白い。
ザルは興味を覚え、どんなヤツだと試しに人相描きを見て、心臓が一つ、大きく跳ねました。
炎のように美しい髪。夕焼けの色の瞳に白い肌。そこに描かれていたのは、自分とうり二つの顔でした。違うのは、右頬に青い刺青がある事ぐらいです。
紙に描かれたその表情は、ザルとよく似たツンとした澄ました顔。でも、彼の笑った顔は日向のように温かなモノなのだと、何故か知っています。
紙に書かれた名前ではなく、彼の『真名』が『ナル』だと、何故か識っています。
居ても立ってもいられず、男は富豪の屋敷へと走りました。
ただ紙に描かれただけの絵です。ただ紙に書かれていただけの情報です。実際に本人と会ってみて、似ても似つかないかもしれません。それでも、確かめたくなって、心が走り出しました。
彼が、欲しくなったから。自分に欠けていた存在を、ようやく見つけた気がしたから。
◇ ◇ ◇
富豪の息子は、先ぶれも約束もなく突然現れ、突然求婚してきた男に、言葉にはできない感情を抱きました。それは今まで現れた男や女たちとは全く違うモノです。
その姿を一目見ただけで、心がざわりざわりと騒いでいます。
その声を聞いただけで、鼓動が早鐘を鳴らしています。
その名を告げられたのに、何故か真名を知っています。
薄群青の長い髪。夜空を含んだ、紫紺の瞳。纏う色が違う、自分とよく似た、顔。
告げられたのは、聞き慣れない音の長い名前だと言うのに、『ザル』と、無性に彼をそう呼びたくなりました。
これまでのように無理難題を押し付けて断るのではなく、一も二もなく頷いて、差し出された手を取りたいと、望んでしまうほどでした。彼こそが、自分に欠けていた存在なのだと、富豪の息子──真名を『ナル』という──も感じていたのです。
しかし、今までの自分の行いを無視して男の手を取ることはできません。それでは追い返してきた者たちに対し、公平ではないからです。平等ではないからです。それは、許されざることです。なのでナルは、ザルにも、同じように難題を告げました。
「遥か西の彼方に咲くという、宝玉のなる木の枝を取ってきてくれたなら……」
「宝玉のなる枝……」
ナルの言葉を復唱する声は、とても静かです。
──無理だろう。知っている。所詮は伝説だ。
伝説の場所に咲くという、玉の枝。御伽話の、夢物語。作り話。今までの愚かな行いを、ナルは今になって後悔しました。
ああ、彼が。『ザル』が、帰ってしまう。
しょんぼりと、今にも泣いてしまいそうな顔で告げられたお題に、しかしザルは慌てません。
「そんなもので良いのか?」
「……うん?」
「そんなもので良いのかと、聞いた」
迷いも不安もない、力強い言葉です。でもナルには、言葉は判りますが意味が解りませんでした。困惑しているナルを他所に、ザルは応えました。
「それならば、ここにある」
懐から取り出された一本の枝。どういった原理なのか、掌に乗るその小さな小枝は、瞬きの間に大きくなりました。両手の上に乗せられたのは滑らかな光を纏う、美しい琥珀の枝。その枝先には、金銀宝石で出来た色とりどりの小さな花が溢れんばかりに咲いています。
御伽話、夢物語で読んだものが、目の前にありました。
「私はここより遥か西の彼方から来た。きっと、お前に会う為にここまで来たのだ」
「……ッ」
「私の片割れ、魂の対よ。お前が欲しい。欲しくてたまらないのだ。他に何が必要だ。何を取ってくればお前を、」
ザルの言葉が切れるのも待てず、ナルは駆け寄って、枝ではなくザルの手を取りました。
触れた体温は、初めてなのに何故か知っています。
ナルを見つめる美しい紫紺の瞳に宿る熱を、何故か知っています。
──ああ! ようやく、お前を見つけた!
叫ぶ心のままに、ナルは震える唇を開きました。
「お前がいい。他の誰でもなく、お前でないと、だめだッ」
それはまさしく、絞り出すかのような苦しげな声色でした。忙しない心とは裏腹に、音となって転がり出た言葉の、なんと頼りないことでしょうか。心に体が、ついていけていませんでした。
耳の奥でザワザワと煩い血潮の音がします。目の奥が熱を孕み、視界が滲みます。
「私もだよ、〝ナル〟」
誰にも教えたことのない真名を、ザルが小さな声で呼びました。
自分とよく似た顔が、柔らかな表情を浮かべています。それを見て胸が苦しくなり、知らず、頬を一筋の涙が流れました。それを拭ったのは、ザルの白い指先です。
示し合わせた訳でもないのに、二人は互いの顔を近付け、額をすり合わせました。そうする事が、何故かナルにもザルにも〝正しい〟と識っていたからです。
触れる、あたたかな体温。
鼻腔を微かにくすぐる、いつかどこかで嗅いだ事のある香の匂い。
〝寂しさ〟は、もうどこにもありません。
欠けていたものを、二人はようやく見つけることが出来ました。
そしてナルは、今までの全てを捨ててザルの元へと嫁ぎました。式は上げず、盃だけは酌み交わすと、逃げるように家を出、街を離れ、足早に国を跨ぎました。何かに追われていた訳ではありません。けれど、心が急きたてました。
自然豊かなナルの故郷よりも。
ザルの故郷である、西の彼方の桃源郷よりも。
砂と礫に覆われた荒涼とした厳しい大地に、何故か心が惹かれたのです。
二人はそれから各地を転々と巡り、件の砂の国で居を構え、幸せに暮らしました。
天にあらば比翼の鳥、地にあらば連理の枝。
どこにいても、深いふかい愛情を──。
おわり