いつの日かどこかで運命が引き寄せる.
櫛が折れた。
「一真、お前の髪はこの櫛では目が細かすぎて扱いにくいだろう?もう少し目の荒い物を用意しよう」
遠い昔、師兄である引玉がそう言って用意してくれた黒檀の櫛。大事に使い手に馴染み角も丸くなり当時よりずっしりとした色合いになっていた。
とくに何をしたわけでもない。ただ髪を梳かそうとしていただけだったのに。
「お前の髪は癖があるから手で解して、それから櫛で、ほら、上からではなく毛先から……」
面倒を見てもらっていた頃、じぶんで朝の支度をするようになってまもなく髪の毛が結えないといけないと他の人から注意された。その時も引玉はどうすればいいのか優しく丁寧に教えてくれた。
大切に扱ってきた。
引玉が居たときも、居なくなってからも、ずっと使い続けてきた。
師兄、口に出した。
気づいたときには櫛を握りしめ部屋から飛び出していた。
「何をしに来た」
权一真を見た引玉は絶望を煮詰めたような顔をした。
「師兄師兄」
必死に何かを話そうとするも会えた嬉しさやじぶんの事を気にしてくれる引玉が目の前に居るだけで权一真は嬉しくてたまらなかった。
勿論、引玉は权一真の身を案じているわけでも気にかけているわけでも一切無い。ただ約束もなければ来てほしくもなかったのに現れた权一真に否定の言葉を投げかけただけだ。しかし、どうしてか权一真にはそうは伝わらず嬉しそうな表情で何度も師兄と呼びかけた。
「私は仕事で忙しい。用がなければ帰れ。邪魔だ」
一向に来た用件を言わない权一真にしびれを切らし引玉は向き合うことを止め、読んでいた書類に目を落とした。落とそうとした、その視界に布に包まれた何かを突きつけられた。
「師兄、これ……」
一瞬で声色が変わった。
申し訳ないというのが伝わる。
引玉は顔を上げ权一真を見る。今にも泣きそうな顔をしていた。
包を受け取り開くと壊れた櫛が出てきた。
使い込まれたそれはなんとなく見覚えがある気もしたが、言いたくなかった。
「これがどうした」
「師兄が、くれた」
「覚えていない」
「壊れた」
「見ればわかる」
「……師兄……」
ついに泣かせてしまった。
引玉は頭を掻きむしる。苛々する。本当にどうしていいのかわからない。
「私にそれを直せというのか」
「ご…ごわれだ…」
鼻が詰ってしまい权一真の声はますますくぐもる。
引玉は溜息をついた。
そこまで拘るような物でもないだろうに、どうしてこうも関わってこようとするのか。
「櫛のひとつやふたつ、今のお前なら買えるだろう?わざわざ私の所に来る必要などない。壊れた櫛をわざわざ見せて何がしたいんだ」
「や、やく、やくそ…く」
「ん?」
「約束、だから……」
全くわからない。何を約束したというのか。引玉は首をひねる。
櫛を買いに行く約束などしてはいない。そもそも权一真と出掛けるなんて無理だ。どう考えてもそんな約束をするなどありえない。
「髪を……大事にしなければいけないと。師兄が言った。親から貰ったものだからと。ちゃんと扱えって」
「あぁ……?」
「ちゃんと、毎日櫛で梳かした。切るときも気をつけた。言われた通り毛先からちゃんと……」
話がよく見えず、要領をえない。
「いったいなにを……」
「はっえっ、しーしょ…師兄」
何かに驚いたかのように权一真は大きく目を見開き信じられないという顔をした。
「う、うし…」
「牛?」
权一真は引玉の後ろを指さした。後ろになにかあるのかと引玉は振り向くが、山積みになった資料や書物、巻物などしかない。
「どうした?後ろになにか……」
引玉が言い終わる前に权一真は引玉の頭を押さえた。驚きのあまり引玉は声も出せず、押さえられた頭を動かすことすら出来なかった。
「無い」
耳元で大声を出され引玉は目がくらくらし、頭を押さえた手の力は強く、痛みが走りもう耐えられないと漸く权一真の腕を叩いた。
叩かれ初めてじぶんが駄目なことをしたと気づいた权一真は小さな声でごめんなさいと言い手を離した。しかしそれでもなお手を動かし引玉を触ろうとするから引玉は触るなと言い少し後ろに下った。
「突然何なんだ。何がしたい」
「あっ……だって、師兄……髪が……」
髪がどうしたというのか。
じぶんの後ろ髪を触るもいつも通りの首元までの短い髪で少し伸びたか?と引玉は思うくらいだ。
天界から追放され鬼界に辿り着いた時、持っていた短兵器でそれまでのしがらみや世界との関係性を全てを断ち切るかのように長かった髪の毛を切り落とした。切ったところでどう変わるわけでもじぶんの過去が無かったことになるわけでもない。それでも、それまで髪は親から貰い先祖とも繋がるものだと大事だと教えられきちんと手入れをしていた美しい髪は、貴方のように真っ直ぐで美しいと、賛辞された事を、あの時はじぶんの手で断ち切りたかった。
切った髪は鬼市の者たちに評判がよく高値で買い取られた。
あれから何百年経った?
今更何を言い出すのかと引玉は权一真の顔をまじまじと見るが青褪めた顔を見ていると、まさか、と漏らしてしまった。
「……師兄?」
「お前と再会して、随分経ったと思うが。君吾の事やその後も、幾度か顔を合わせたはずだ」
「はい、師兄」
「なんとも思わなかったのか?」
「何がですか」
「……」
权一真は本当に気づいていなかったのだ。
引玉か髪を切ったことに。
そう、再会してすでに百年と経ったというのに。
「いや、何でもない。ところで、その櫛はどうするつもりだ?」
じぶんの事はもうどうでもいい。
そうだ、早く用件を聞いて追い返してしまわなければ。
「でもっ!」
「权一真。用件を言え」
口ごもりながらも权一真は引玉に言われた通り用件を伝えた。
「いつの話だ?」
それを聞いた引玉は全く思い出せず困惑した。
「師兄は言った!だから来た」
「そう言われてもだな、お前はもうじぶんで櫛を買えるだろう?信徒にでもねだればいいじゃないか」
「師兄がいい」
「私はもうお前の師兄でもないし、面倒を見る気もない」
「約束をした!」
これでは埒が明かない。
どうにか追い返す事は出来ないか、考え、考えて、引玉は思い出した。
なんの時かは忘れたが花城から褒美として貰った物があった。そうだ、特にじぶんでは使うこともなくしまっておいた。
それを掴むと权一真に投げつけた。
「それを持って帰れ。櫛でも何でも作るといい。用件は済んだな、帰れ」
しっかりとそれを受け止めた权一真は嬉しそうに笑い引玉に抱きついた。
「師兄!師兄!約束を覚えていた!」
「何の話だ」
权一真の手には黒い水牛の角が大事に握られていた。
「しーしょん、くしがおれた」
引玉が振り返ると師弟として世話を任された权一真が身支度をしていたはずだが、見てみれば顔が髪の毛で隠れまるで毛玉のようになっていた。どうしたらそうなるのか、頭をかかえた。
「权一真、櫛を見せてごらん」
「はい。おねがいするます」
何度も練習し言い聞かせ、返事や礼などを覚え始めたところでまだ言葉がぎこちないが、徐々に言えるようになるだろうと目をつむる。
「あぁ、これはもう駄目か。新しい物を用意しよう。私のではお前には目が細かすぎてまた折れてしまうだろうから、明日新しい物を買ってこよう」
「しーしょんとおなじものがいい」
「同じだとまた直ぐに壊れてしまうよ」
毛玉が一瞬飛び跳ねた。
「それはだめ!」
「そうだろう?さて、このままでは修行に行けないから、今日だけ私が髪を結って上げますね」
毛玉が嬉しそうに揺れた。
じぶんのとは違う癖のある髪の毛に引玉は髪油を少し付けゆっくりとまとめていった。
「しーしょん、くしはちがうの?おれのはどんなの?」
「权一真のは硬く丈夫な木の櫛にしよう。そうだな、黒檀がいいだろうか。あれならしっかりしていてお前でも扱いやすいはずだ」
「おれない?」
不安そうに权一真は振り返る。
目が合った引玉は少し考え、厳しい顔つきで答える。
「それはどうかな。大切に扱わないとまた壊れてしまうだろう」
「それはだめ!」
「そうだな。いけないな。明日、櫛を買ったら髪の梳かし方を教えよう。ちゃんと覚えるんだぞ」
「はい!」
とても良い返事に引玉は微笑んだ。
「しーしょんのは」
「私の?」
じぶんのとは違う物だということに興味があるらしい。
「私のは水牛の角で出来ているよ。扱いが大変だから子供のお前に難しいかな」
「むずかしい」
「ちゃんと手入れをしないと壊れてしまうんだ」
壊れるという言葉にまた少し飛び跳ねた。
「しーしょんでもこわれる!むずかしい!」
「そうだね、大事に扱わないと大切なものは壊れてしまうんだ」
それを聞いた权一真は胸のあたりを掻いた。どうしてか急にむず痒くなったのだ。
「どうした?」
首を振り、なんでもない。と返事をした。具合が悪ければ引玉と一緒に過ごせない事を权一真は入門してから学んだことのひとつだ。
「もしお前が大人になった時、ちゃんと扱えるようなら私と同じ水牛の櫛を贈ってやろう」
「ほんとう?」
权一真の頭を撫で引玉は言った。
「あぁ、約束だ」