残香デパートのジュエリーショップは、休日という事もありほどよい人の賑わいを見せていた。気品漂うガラスケースの内には、煌びやかで尖った輝きを放つ宝石が整然と並んでいる。そのひとつ──シルバーのネックレスの前で、足を止める一人の女性がいた。
白いワンピースに、大振りなリボンを頭につけている。高価なアクセサリーを眺めていても、場違いだとは誰も思わないような──可憐な見た目をしていた。小柄な体型もまた、彼女の魅力の一部のようだ。
「もしかして、マリちゃん?」
その声で、マリは現実に引き戻された。ようやく視線を外し、誰かが自分に声をかけたのだと認識した。すぐに振り向きたい衝動にかられたが、思いとどまり、すぐに勘違いだと自分を落ち着かせた。彼女は半歩だけ後ろへ下がり、スカートのすそをふわりと揺らしながら、ゆっくりと体の向きを変えた。
「久しぶりじゃない!元気だった?」
目が合った瞬間、相手は知り合いで間違いないと確信したのだろう。女は花開いたような顔で手を振りながら、とたとたと駆け寄ってくる。
色素が薄く、線の弱い髪を無造作に後ろに一纏めにしている。体の線の出ない、ゆったりとしたワンピースを着た女性だ。
「モモカちゃん。ほんとう、久しぶりだね」
モモカはマリの高校からの同級生だった。卒業してから別々の進路を歩んだが、一年に一度は顔を合わせる程度には、縁を保ち続けていた。
「今日は買い物?それともデート?」
「ううん、一人。良かったらランチ、一緒にどう?」
二人はデパートのカフェへ入った。そこはマリがよく利用するお気に入りの店だ。ケーキの種類が多く、季節ごとに品揃えも変わる。マリは密かに、期間限定のケーキを楽しみにしていた。
店内はそれなりに人が入っていた。昼前とはいえ休日なのだ。
「マリ……ねえ、きれいだよねぇ」
席につき、注文を済ませて落ち着いたところで、モモカはマリの全身をさりげなく一瞥する。そして、その目は自然と、マリの左手に向けられた。
モモカと会うのは、マリの結婚式以来だった。純白に身を包んだマリのドレス姿を見て、モモカは頬を赤らめていた。着飾った友人の美しさ、艶やかさ、祝すべき晴れ舞台を喜ぶと同時に、いつか自分に訪れるであろう幸福を想像したのだろう。
「マリも変わっちゃったなー」
「寂しいの?」
「私の物を盗られた気分なの」
愚痴を言うような物言いだった。それからモモカはやけに饒舌に昔の話を語り出した。
特にマリの見た目について。就職してから、マリの雰囲気ががらりと変わったという。以前は自分と肩を並べて歩いていたのに、今では眩しくて仕方がないという。
その物言いは少し気に食わなかったが、マリも興が乗り、昔話に花を咲かせた。
高校では共に家庭科部であった二人は、まるでその時に戻ったかのようにお菓子をつまみに語らった。
「今だから言うけれど、モモカに気のある子がいたのよ」
「えっ、誰」
「ホラ、よく隣のクラスから遊びに来ていた……」
「うそ。なんで教えてくれなかったの?」
「努力したのよ、さりげなく。気付く気配がなくて諦めちゃった。」
「そんなー……」
頼んだケーキを食べ終える頃には、二人の会話はすっかり盛り上がり、妙な話の方向へと転がり始めていた。
モモカは話に夢中になり、人の多い場所だということがいつの間にか頭の隅へと追いやられていた。されども働く彼女の常識が、その声を自然と控えめにしていた。
「大学の頃付き合ってた彼氏とは、どうだったのよ」
マリは目を丸くした。そして、思わず零れたように笑って、紅茶を一口。
モモカは決して早とちりをするような女ではない。どちらかというと慎重で深慮深い女である。そんな彼女がこんな物言いをするのは──十中八九、マリのせいだ。
「ああ、話してなかったっけ。でも分かるでしょ?」
「分かるって言っても結果だけでしょ。あの時すごい楽しそうにしてたじゃん。ほら、あの時──そう、ネックレス!」
「ネックレスつけてさ、嬉しそうにしてたじゃない」
「あれは安物」
「でも凄い似合ってたよ」
モモカは「悪口じゃなくて」と付け足した。誤解を生むような話の流れであり、モモカは勘違いを避けるために言ったのだと分かる。だが、「似合っていた」とはどういうことだろうか。マリはほんの少しだけ返す言葉に迷った。そして、少し間を置いた後に口を開いた。
「もう、捨てちゃった」
そんな言葉と表情を見て、モモカは唖然とした。既婚者が前の彼氏からの贈り物を取っておくなんて有り得ない。だが、マリの顔は整然としたものではなく、どこか未練を感じさせるような、もの悲しい笑みが浮かんでいた。すぐに理解した。彼女はいまだに彼に思うところがあるんじゃないか。二人の関係は何か特別な……それこそ、劇的でロマンチックなドラマのような、そんな悲運を辿ったのかもしれない。
そうだとすれば、旦那のことはどう思っているのだろうか。マリと彼は本当に理想的な、それこそ絵に描いたような夫婦に見えた。何も後ろめたいことなどないと思っていた。これは夫婦間の問題なのか、それとも彼女個人のものなのか。
「あ〜あ。私も早く結婚したいな〜」
「連絡とってみたら?例の彼と」
「何話せばいいのか分かんないよ」
全てを聞きただしてしまいたいと思ったが、無粋だ。これ以上踏み入るべきではない。線を引くべきだ。なにより、彼女は今、幸せなのだ。
「今日はありがとうね、いきなりで」
「ううん、こちらこそ。また今度何処か遊びに行こう」
モモカは久しぶりの友人との再会に胸を躍らせ、彼女との会話に満足していた。何より、今まで気づかなかった「裏側」を垣間見た気がして、その特別感に浸り、勝手に舞い上がっていた。
二人は別れ、マリはひとり街を歩いていた。家に帰る気分ではない。かといって、カフェのはしごは如何なものか。お腹も空いておらず、どこにも行く宛てがなかった。
足が重かった。
嫌なことがあったわけではない。モモカと会えたのは嬉しかったし、たくさん話ができて良かった。何より、他の人から見て、自分がどう思われているのかがよく分かった。自分は上手くやれている。成功したのだ。
思えば、あのネックレスの前で足を止めてしまったのが全ての原因だ。
シルバー色の、小ぶりな花のネックレス。
今思えばどこにでも売っているようなありきたりなデザインだ。だからこそ厄介なのか。
「あれと同じものだ」と、そう勘違いをした。変な期待をした。確かめたくなって、無意識のうちに目の前まで吸い寄せられてしまった。
駅からかなり歩いてきたのだろう。人通りもまばらで、商店がぽつぽつと並ぶような通りまで来ていた。足が疲れてしまい道の隅で立ち止まる。
結果は、検討外れだった。少し考えれば分かる。数年前と同じものが今売っているわけがない。
仮に同じものだったとして、それをどうするつもりだったのか。
用はない。捨てたのは自分だというのに。
ふと、視線を落とすと、アスファルトの隙間に小さな草花が佇んでいた。その姿が、惨めで、貧相で、寂しい存在に見えた。
飛び退くようにその場を離れた。足早に、来た道を引き返す。家に帰ったらクッキーを焼いてあげよう。どんな形にしようか、何味がいいだろうか。そう考えながら、マリは帰路に着いた。