春のうららの「こんなところで寝ないでくれ、太白殿!」
念願の江南全体をつなぐ大運河が全面開通したその日、宵闇の中の提灯行列、そこここで炸裂する祝いの爆竹の中、その喧騒から少し外れた場所で張りあげる声一つ。爛漫と咲き誇る桜の大木の下、二人の酔っぱらいが押し問答を繰り広げている。
「春花のれすとらんに行くんだろう、もうあの限定酒を出してる店はあそこしかないんだから。」
埒があかぬと脇に手をさし込み引き摺ってでも連れていこうとするが、こちらも酔いの回った身の悲しさ、眼前の酔漢はびくともしない。諦めて地面にへたり込むと、ごろりと樹下に身を横たえた大虎から忍び笑いが漏れいでた。
「杜工部殿も存外だらしのない。」
「地べたに寝転がってる御仁には負けるよ。全くあちこち花だらけにして。」
そう言い返した後、手際よく衣を払い、髪に入り込んだ花びらを取り除こうとするが、風もないのに次から次にはらはらと落ちていくその切りのなさ、ついつい手つきがぞんざいになる。その一部始終を細目で見ていた李白が言った。
「子美殿、貴殿も人のことは言えないな。」
その言葉に乱雑に髪をけずっていた手を止め、杜甫は自分の頭巾と服をパンとはたいた。
「とれてるか?」
その言葉に李白はむくりと半身起こして眺め、首の後ろにひとひら見つけた。その旨聞いて首筋に回ろうとする手を止め、襟首ギリギリに入り込んだ花びらを取ろうと顔を近づけた時、
「イチャつくんなら他所でやれよな!!」
木全体を揺るがさんばかりの大声、それに続いて幾片もの花びらと一緒にドサッ!と飛び降りた人影に対して杜甫は抗議の声をあげる。
「失礼な!君達近頃年長者への礼を欠いてないか?」
言われた方は平然としたもので、ハッと鼻で笑って言い返す。
「はいはい、俺達がよちよち歩きの頃から先生方が往来で飲んだくれてるからなんだって?」
ぐっと言葉に詰まる杜甫の横でカラカラと笑い声があがる。
「子美殿、図星だ、諦めよう。ところで聡、お前さんはこんな時間に木登りか?」
「俺のは仕事。ほら、おっさんらも上見てみな。」
その言葉で両人が首を上げれば白い雲のような花びらの中、色鮮やかな提灯が彩りを与えている。眺めている間にも一つ、また一つと光が灯る。
「春花んとこで今度扱うことになった提灯だよ。俺はこいつらに灯りを入れてたとこ。」
「ああ、よく見たら全部春花の店の屋号入りじゃないか、相変わらず商売熱心だなあ。」
杜甫が感嘆の声を上げた時、
「もう、聡ったら仕事放り出さないでよ。」
得意げに話す聡の横、今しがた木から降りて梯子を担いだ強が文句を言う。
「そうだ強、どうせ春坊のことだから今日限定の「最果ての島より流れ出でたる滴騾の酒」、そのうち定番の品書きに入れるだろ、子美殿が飲みたがって聞かなくてさあ」
その言葉を皮切りにしたそちらが誘った、いいや熱心に飲みたがってたのはそっちだ云々のやりとりに呆れながら聡がぼやく。
「春花をその呼び方すんのもう李のおっさんぐらいだぜ…」
「それにさ、」と継いだ強の言葉に
「ごめんなさいね、それは企業秘密なの。」と割り込んだのは宵闇の中を歩いて現れた当の春花である。
「春花ちゃん仕事は?」
「諸々の手配がついたからこっちを見にきたの、もう終わる頃だと思って。」
誰の目にも明らかな信頼の目を強に向けた後、春花は二人の酔っぱらいに向き直る。
「それで先生方、お探しのものはこれかしら。」
連れてきた人足から酒壺を受け取り、二人の眼前に掲げた。
「さっき李の先生が言ったとおり、安定供給に目処が着いたら普段の品書きに加えるつもりでいるけど、予定はまだ未定なの。だからそんなに飲みたかったらこのお酒、それぞれ先生方に差し上げるわ。ただし、感想を詩で頂けたらの話だけど。」
「お安い御用。」
二つ返事で答える李白の横、杜甫の方は不安そうに訊ねる。
「太白殿はそういうのあっというまに作れるが、私のは作るまでが長いし宣伝になるかわからないよ。」
「それはこっちが判断します。先生方はともかく率直な感想を詩にして頂戴。」
「だとさ子美殿。いくらでも時間をかけたらいい。」
あっけらかんと言い放つ春花の台詞を受けて李白が言葉をかける。続けて思い出したように
「あ、ところで春坊、お前の婚姻の宴にも呼んでくれよ。いい詩を書いてやるからさ。」
と続けた。
「あんたら呼ばれなくたって他所様の宴に押しかけてただ酒と飯にありついてるだろ、今更なんだよ。」
「こら聡、失礼なこと言うんじゃないの。二人とも私がお墓に入った後もずっとうちの店のお得意さんなんだから。ただし李先生、私の名前は爛漫たる「春」のひと枝の「花」で春花よ、そろそろ覚えてね。次その呼び方したら宴になんか呼ばないわよ。杜先生からも言っておいてちょうだい。」
笑みを浮かべる口元と反対の全く笑いのない目に気圧されて杜甫は承諾した。
「それで太白殿が聞くかはわからないが注意しておく。それと春花、あまり縁起の悪いことを言うものではない。確かに我々はいなくなりにくい存在だが君らもまだ若い。言わずもがなのことかもしれないが死んだ後の店の心配よりこれから先一緒にいる人と幸せになることを考えなさい。」
言ってしまってから気まずそうに黙り込む。
「口が滑ったわ。ごめんなさいね。では私からも一言、酒屋の陳さんがもうそろそろツケを払って欲しいってぼやいてたわ。早いとこ払ってあげてね。」
会話を明るく切り上げた春花は、強と聡に呼びかけた。
「二人とも遅くまでお疲れ様。夕食を用意してあるからウチの店で食べていって。キタのとこの工房のみんなは先に食べてるわ。」
快哉をあげ、二人が我先にと駆け出した。その後を春花がゆっくりと歩く。数歩したところでこちらに向き直り「それじゃお酒の感想お願いね!」と手を振った後彼女も駆け出していった。
声をかけられた方はといえば李白がヒラヒラと手を振りかえす横で杜甫は遠い目をして彼らを見つめていた。
「どうした子美殿、しんみりして。」
「陳のおやじに払うツケのことを考えていた。」
「あまり急くこともなかろうよ。…子美殿も言ってた通りあいつらはまだ若い。とりあえず今は酒の感想を贈ってやることだ。」
寝転がってまた酒を呑んでいる李白に最早感心しながら杜甫は応える。
「私の酒にまで手をつけないでくれよ。」
「俺の酒の減り次第だなあ。いいぜ、俺が二つ詩を作っても。」
その言葉を聞いた杜甫も自分の酒壺の蓋に手をかける。
「なんの、私に任された分だ。太白殿の手を煩わせることもない。」
「ねえ春花ちゃん、あの二人もう帰ったかなあ。」
慰労のための食卓を囲んだ強が呟くと、
「十中八九あそこで転がってるわね。李のおじさんは論外として、お説教が出てくるってことは杜のおじさんも限界が近い。ましてあの二人にお酒が渡ったのよ。そこからの展開はもう予想がつくわ。」
そう自分の見解を春花が述べた。
「後で火の見回りの人足を派遣するから、あのあたりの担当にゴザでも持たせてその辺の隅にでも転がしてもらいましょ。」